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錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


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白亜の微睡みと、静かなる防波堤


カラン。


扉のベルが、いつもより少しだけ遠慮がちに鳴った。


午後の、陽が傾き始めた頃合いだった。


白い壁に囲まれたアトリエの奥で、店主がガラスの漏斗を見つめている。

濾紙を透過した淡い緑色の抽出液が、下のフラスコへゆっくりと落ちていく。


とく。

とく。


静かな水音だけが落ちる空間に、女が立っていた。


ひどく疲れた顔だった。

傷があるわけでも、酷く汚れているわけでもない。

ただ、足元から水が抜けていくように、立っていること自体が辛そうだった。


「……少しだけ、休ませて欲しい」


すり減った声だった。


店主は、フラスコから視線を外さない。


「好きにしろ」


短い返事だった。


女が、ふう、と細い息を吐く。


「お疲れのようですね」


いつの間にか、リヒャルトがカウンターの横に立っていた。

その手には、湯気を立てる特製茶の入ったマグカップが握られている。

ただ、そこにあるのが当然のように、温かいカップを差し出した。


「……ありがとう」


女は両手でカップを受け取り、ロビーの奥へ歩く。


そこに置かれているのは、深く身体を受けるベルベットのソファだった。


腰を下ろした瞬間、女の身体から最後の糸がふつりと切れた。


カップをローテーブルに置き、背もたれに深く沈み込む。


そのまま、ゆっくりと瞳を閉じた。


壁際にいたメテスが、音もなく動いた。


西日が差し込む窓と、女のソファの延長線上。

そこに、しなやかな長身を滑り込ませる。


光が遮られ、女の顔に柔らかい影が落ちた。


メテスは女を見ない。

ただ、入り口へ視線を向けたまま、そこに立った。


レッターが、カウンターの奥からそっと近づく。


腕には、清潔なブランケット。


眠りに落ちかけた女の膝へ、羽のように軽い手つきでそれをかけた。


「……ん……」


女の唇から、小さな寝息が漏れる。


とく。

とく。


フラスコに落ちる雫の音だけが、続いていた。


カラン。


再びベルが鳴った。


入ってきたのは、顔馴染みの常連の初老の男だった。


「おう、店主、いつもの――」


大きな声を出しかけた男の言葉が、ぴたりと止まる。


男の視線の先には、メテスの影に守られ、ブランケットに包まれて眠る女の姿があった。


男は、ああと小さく口を動かし、深く頷いた。


抜き足差し足でカウンターへ近づいてくる。


「……いつものやつをくれ」


ひどく小さな、掠れ声だった。


店主は無言のまま、棚の下段から見慣れたバイアルを一本取り出し、音を立てずにカウンターへ置いた。


「……お代は、こちらです」


リヒャルトが、硬貨が鳴らないよう、自分の手のひらの上で銀貨を受け取る。


レッターが、紙の擦れる音を抑えながら、素早くバイアルを包んで男へ渡した。


常連の男は、もう一度だけソファの女をチラリと見て、無言で片手を上げ、足音を忍ばせて出て行った。


カラン。


扉の開閉すら、ひどく静かだった。


とく。

とく。


雫の音が、また空間を満たす。


カラン。


三度目のベル。


今度は、若い男だった。


背中を丸め、視線の置き場を見失ったような目をしていた。


「……あの」


男は、すがるようにカウンターを見る。


「居場所がなくて……。少しだけでいいから……休める場所が、欲しいんです」


店主は、フラスコから漏斗を外した。


硝子が擦れる音が、小さく鳴る。


無言のまま、店主は小ぶりな試験管立てから、淡い琥珀色の液体が入った瓶を抜き取った。

コルクの栓を親指で弾き、男の目の前へ置く。


「飲め」


男は、震える手で瓶を掴んだ。


そして、その琥珀色を一気に煽る。


ごくり、と喉が鳴った。


途端に、男の身体から、無理に立とうとする力が抜け落ちた。


ふらふらと足元が覚束なくなり、誘われるように、ロビーのもう一つの空いたソファへと向かう。


ストン、と。


背中から倒れ込むように座り、男は深く息を吐き出して、そのまま目を閉じた。


二つの寝息が、アトリエに重なる。


メテスが、もう一つのソファにも影が落ちるよう、立ち位置をわずかにずらした。


リヒャルトが、帳簿のページをめくる指を止める。


レッターは、新しく眠りについた男の足元へそっと歩み寄り、はみ出していた靴の先を絨毯の端へ揃え直した。


「……お疲れ様です」


誰に宛てたわけでもない。


その日をどうにか終わりまで運び、ようやくここで倒れ込めた者たちへ向けて、落とされたひと言だった。


店主は、抽出の終わったフラスコを火にかけ直す。


青白い魔力火が、硝子の底を静かに舐め始めた。


白亜の建物の一階、その奥まったアトリエは、

世界で一番堅牢で、世界で一番静かな、

誰のための空席でも用意されている場所だった。




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