毎回、俺ばかりが金を出してる。
勘定書きの皺と、財布役の終わらせ方。
日が暮れると白亜の要塞一階、アトリエ・くぼ地は、仕事帰りの居住者たちでごった返していた。
「ただいまー! これ、お土産!」
「店主、さっきちょっと切った。軟膏くれ」
「ねぇ今度、キッチンの整備で少し音が出るかもー」
「明日は魔導リフト、深夜にメンテナンスだぞー!」
「「「はーい!」」」
「店主! これシリーズ全種ちょうだい!」
声が飛び交う。
紙袋が置かれる。
空瓶が返ってくる。
廊下の奥では誰かが笑い、リフトの扉が開閉する音が重なった。
リヒャルトはカウンターの奥で帳簿へ流れるようにペンを走らせている。
レッターは「はいっ、今行きます!」とパタパタ走り回り、返ってきた瓶を抱えてまた奥へ消える。
メテスは料金を回収しながら、客の出入りと周囲の気配をさりげなく見張っていた。
長身の影が、雑踏の中でも静かに壁の役目を果たしている。
そんな慌ただしさの只中。
カウンターの丸椅子に腰を下ろした男が、受け取ったポーションをぐいっと喉へ流し込んだ。
カンッ。
小気味よい音を立てて、空になった瓶が木の天板へ置かれる。
「……くぅ! キックぅ……!」
仕事終わりの疲れが少しだけ剥がれたような顔で、男は肩を回した。
三十手前くらいだろうか。
身なりは悪くない。
くたびれてはいるが、安物ではない上着。
日々きちんと働いている人間の手だ。
だが顔つきには、疲労とは別の種類の擦り切れがあった。
苛立ちと、諦めと、言い返せなかった自分への苛立ちが、薄く何層も重なっている。
「はぁ……ちょっと聞いてよ、店主」
店主は乳鉢を動かす手も止めず、即座に返した。
「ここはバーじゃない。ポーション屋だ」
男は無視した。
「毎回だ。……毎回、俺ばかりが金を出してる」
リヒャルトのペン先が、帳簿の上でほんの一瞬だけ止まる。
レッターが空瓶を抱えたまま、ちらりと振り向いた。
メテスは無言のまま、男の声の温度を測るように視線を落とした。
男は続けた。
「飲み会でもそうだ。
昼飯でもそう。
同僚も、昔からのツレも、彼女も、家族までそうだ」
カウンターの木目を睨みつけるみたいにして、男は苦く笑う。
「先に店を出てみたこともある。
そしたら、レジの店員に追いかけてこられてさ。
“お連れの方から、お支払いは貴方にと伺っております”だと」
中年冒険者が隣の席で「うわ」と小さく顔をしかめた。
男は肩を竦める。
「結局、払ったよ。
その場で揉めるのも面倒だったし、店に迷惑もかけたくなかった」
店主は鼻を鳴らす。
「で?」
「参加しないって言ったこともある」
男はそこで、ほんの少しだけ目を伏せた。
「そしたら、“お前が来ないなら飲み会おじゃんだな”って。
“お前がいないと会計きついんだよな”って、半分冗談みたいに笑われて……」
笑って言うから、怒りにくい。
冗談の顔をしているから、本気で傷ついたと言いにくい。
その質の悪さが、男の声に滲んでいた。
「完全に、俺は財布だ」
レッターが眉を下げる。
クリムが店主の肩の上で、ぴくりと耳を動かした。
「きゅ……」
男は両手を組み、額へ押し当てる。
「たしかに、俺は稼いでる。
人より少し多いかもしれない。
でも、違うだろう?」
その最後の一言だけ、子どもみたいに真っ直ぐだった。
怒鳴るでもない。
泣くでもない。
ただ、本当に納得できないのだとわかる声音だった。
店主は乳棒を止めた。
それから、ようやく男を見た。
「違うな」
男が、少しだけ救われた顔で目を上げる。
「だろ……?」
「違う。が、お前も悪い」
救われかけた顔が、その場で固まった。
「……は?」
店主は面倒くさそうに頭を掻く。
「財布にされてるのは確かだ。
だが、お前は毎回“払える奴”として、きっちり役目を果たしてる。
文句を言いながら、結局払う。
不満そうな顔をしながら、最後は場を丸く収める。
そりゃあ向こうは、お前を便利に使うだろうよ」
男の口が、言い返しかけて止まる。
「お前が悪いってのは、“奢ること”じゃない。
“嫌なのに、嫌だと通じる形で止めないこと”だ」
沈黙。
夕方のアトリエのざわめきが、少し遠くなった気がした。
店主はカウンターの下から、コト、コト、と二つの小瓶を並べた。
「お前がどうしても“財布役”を終わらせたいってんなら、選べ」
ひとつめ。
金貨みたいな、ぎらつく黄色。
振ると中で細かな泡がぱちぱち弾ける。
「物理補助。『勘定場の硬貨止め』だ」
男が眉を寄せる。
「……なんだそれ」
「会計の場で飲めば、お前の手が“自分の財布を出す動き”だけ妙に鈍くなる。
鞄を開ける。
財布を出す。
硬貨を数える。
そのへんが全部、わざとらしくない程度にもたつく」
男は思わず顔を引きつらせた。
「……せこっ」
「うるさい」
店主が切る。
「その間に、他の連中が先に払うか、少なくとも“あれ、こいつまた出す気ないな”と現実を見る」
男は黄色い瓶をじっと見る。
「……いいかもしれない」
「ただし」
店主が指で瓶を弾く。
ぱち、と中の泡が光った。
「お前自身が“払わない空気”に耐えられないなら無意味だ。
財布を出す手が遅れてるだけで、最後に耐えきれず全額払う。
つまり、根性のない見栄っ張りには向かん」
男の顔が引きつる。
「ぐ……」
ふたつめ。
薄い墨色。
水に滲んだ文字みたいな線が、瓶の中をゆらゆら漂う。
「心理補助。『割り勘の練習帳』だ」
「今度はなんだよ」
「飲めば、“嫌だ”“今回は出さない”“自分の分だけ払う”みたいな短い断り文句が、喉で止まらなくなる」
レッターが、ほっとしたように少しだけ身を乗り出した。
男は逆に顔をしかめる。
「そんなの、言えたら苦労してない」
「だから薬なんだろうが」
店主は面倒くさそうに言う。
「ただし、お前の口から出るのは“練習した断り文句”だ。
綺麗に言える。
角も立ちにくい。
だが、相手によっちゃ“今日はケチだな”くらいには思われる。
お前が欲しいのが“嫌われずに財布役だけ降りる奇跡”なら、そんなもんはない」
男は黙った。
ぐうの音も出ない顔だった。
リヒャルトが帳簿を閉じ、静かに補足する。
「要するに、“払わない技術”は与えられても、“相手にどう思われるか”までは制御できない、ということですね」
「そういうことだ」
店主は頷きもしない。
「財布役を降りるってのは、多少は空気を悪くするってことだ。
それが嫌なら、一生払え」
男は墨色の瓶から目を離せなかった。
その視線には、かなり揺れた色があった。
店主は鼻を鳴らした。
「で、最後だ」
三本目を、どん、と置く。
深い茶褐色。
使い古した革財布みたいな色だった。
底には、小さく折りたたまれた紙片のような光が沈んでいる。
「みっつめ。現実補助。『割り勘の勘定書き』だ」
男が、初めて少しだけ身を引いた。
「……それは?」
「お前が今まで“奢ってきたもの”を、頭の中で全部勘定書きにする薬だ」
静まり返る。
「飲み会。
昼飯。
立て替え。
家族への“ついで”。
彼女への“まあいいか”。
友達への“今度返してくれれば”。
そういうのを、金額だけじゃなく“その時お前が飲み込んだ不快感”込みで、きっちり並べる」
男の喉がひくりと鳴る。
「……そんなの見たら、余計に腹が立つだろ」
「立つだろうな」
店主は即答した。
「だが、お前に今要るのは、“みんなが悪い”ってぼんやりした怒りじゃねぇ。
どこで、誰に、何を、どの程度許してきたのかを、自分で知ることだ」
店主は茶褐色の瓶を男の手の届くところまで押し出した。
「この薬は、相手を変えない。
お前の過去を美談にもしてくれない。
ただ、“俺ばかり奢ってる”って曖昧な被害者面をやめさせる」
男の目が、わずかに揺れる。
「払ったのはお前だ。
止めなかったのもお前だ。
笑って誤魔化したのもお前だ。
だから、終わらせる場所を決めるのもお前だ」
レッターが息を呑んだ。
メテスが、腕を組んだまま低く言う。
「……数を見ろ。
見れば、切る相手が分かる」
その一言に、男の肩がぴくりと震えた。
黄色。
墨色。
茶褐色。
男はしばらく三本を見比べていた。
やがて、手を伸ばしたのは三本目だった。
「……これだな」
「賢明だ」
リヒャルトが流れるように瓶を包み始める。
「お代は銀貨二枚。
なお、服用後しばらくは“返してもらってない金額”より“その時に飲み込んだ感情”の方が重く見える可能性がありますが、仕様です」
「仕様、ね……」
男は苦く笑った。
けれど、来た時より少しだけ、顔に芯が戻っていた。
銀貨を置き、瓶を受け取る。
それでもすぐには立ち上がらず、ぽつりと零す。
「……俺、たぶん払いたかったんだよな。
嫌われたくなくて。
気前のいい奴だって思われたくて。
そうしてれば、輪の中にいられる気がしてた」
店主は鼻を鳴らす。
「だろうな」
「でも、輪の中にいるつもりで、ずっとレジに立ってただけかもしれない」
「それに気づいたなら、次から椅子に座れ」
男は、一瞬だけきょとんとした。
それから、小さく笑った。
本当に、ようやく出た笑いだった。
「……うん。
まず、自分の分だけ払うところからやってみる」
「最初から全部切ろうとするなよ」
店主が乳鉢を引き寄せながら言う。
「そういう奴は、極端に走って結局また戻る。
一回で全員と縁を切るんじゃなく、まず一回、自分の財布を引っ込めろ」
「……はい」
カラン。
男が帰っていく。
今度の足音は、疲れてはいるが、前みたいな沈み方ではなかった。
しばらくして、中年冒険者が腕を組んだまま唸った。
「いやぁ……耳が痛ぇな。
奢る方も、奢られる方も、癖になるんだよなァ」
それから、悪びれもせずカウンターへ顎をしゃくる。
「……で、今日のポーション、ツケにできるか?」
ぴたり。
リヒャルトのペン先が止まった。
ゆっくりと顔が上がる。
完璧な営業スマイル。
なのに、目だけがまったく笑っていない。
「……何か?」
その一瞬で、中年冒険者の背筋にぞわりと黒い圧が落ちた。
「い、いや。冗談だ、冗談!」
「当店は冗談でも掛売りを受け付けておりません」
にっこり。
実に美しい笑顔だった。
「現金で、どうぞ」
「はい」
中年冒険者が慌てて懐を探るより先に、メテスがすっと手を差し出した。
無言のまま、そこへ載せられた硬貨を回収する。
「きゅ!(即回収!)」
「わふ(……学習しろ)」
レッターが空瓶を抱えながら、少し考えるように呟いた。
「……優しいのと、断れないのって、似てるようで違うんですね」
「違う」
店主は即答した。
「優しい奴は出す時を選ぶ。
断れねぇ奴は、選ばず削れる」
リヒャルトが静かに帳簿を開く。
「そして削れ切った頃には、“あの人たちのせいで”としか思えなくなるのですね。
実に不毛です」
メテスが棚へ補充した瓶の向きを、几帳面に揃える。
すでに客の消えた扉を見つめ、静かに言った。
「……だから、財布役は、
やめる時を自分で決めないと終わらない」




