朝の一杯と、革靴の一歩目。
カラン、カラン、と。
白亜の要塞一階、アトリエ・くぼ地は、今日も開店と同時に騒がしかった。
「っはぁー……生き返る……!」
朝一番に飛び込んできた三階リフト前住まいの中年冒険者が、琥珀色の滋養強壮ポーションをジョッキみたいに煽り、空になった瓶をコン! と景気よくカウンターへ置く。
「今日も一日、死なねぇ程度に頑張るかァ……!」
腰に手を当て、ぐいっと胸を張る。
その隣では、夜勤明けらしい住人が眠そうな顔で喉へ流し込み、やっぱりコン、と小気味よく瓶を返した。
「きゅ!(いつもの朝!)」
クリムが店主の肩の上で弾む。
「わふ(……騒がしいな)」
ルゥは床に伏せたまま、呆れたように片耳を動かした。
レッターが空瓶を回収し、リヒャルトが帳簿へ滑るように売上を書き込む。
メテスは入口近くに立ったまま、朝の慌ただしい流れを黙って見ていた。
アトリエは、今日もちゃんと生活の音がしている。
そんな中。
カラン。
今度の音は、さっきまでの常連たちより、ずっと遠慮がちだった。
入ってきたのは、まだ若い男だった。
服はきちんとしている。
靴も磨かれている。
髪も乱れていない。
なのに、全身から漂う気配だけが、ひどく沈んでいた。
男は入口のところで少し躊躇ってから、ようやくカウンターへ近づいた。
「……ここで毎朝ポーションを飲めば……仕事に向かう足が軽くなると聞いて……」
その声に、店主は乳鉢を回す手を止めずに鼻を鳴らす。
「軽くなる薬はある」
男の顔が、ぱっと少し上がる。
「ほ、本当ですか」
「ただし、意味を間違えるな。
“仕事に行きたくなる薬”じゃない。
“行きたくないまま歩く薬”だ」
男はその場で黙った。
開店直後のアトリエの騒がしさが、ほんの少しだけ遠のく。
中年冒険者が瓶を片手に振り返り、へえ、と面白そうにこちらを見た。
店主はようやく顔を上げる。
「で。何がそんなに嫌なんだ」
男は、すぐには答えなかった。
指先が、鞄の持ち手をぎゅっと握る。
「……別に、殴られるとかじゃないんです」
「ふん」
「同僚が特別嫌なわけでもないし、上司が暴君ってほどでもない。
給料も、食っていけないほどじゃないです」
「で?」
男は、自分でもうんざりしているみたいな顔で言った。
「なのに、朝になるともう駄目なんです。
起きた瞬間から、行きたくない。
支度しても行きたくない。
靴を履くところで止まる。
家を出ても、駅までの道がやけに遠い。
……仕事が始まってしまえば、まあ、やるんです。
やるしかないから。
でも、毎朝そこまでが重くて」
レッターの手が、空瓶を拭く布の上で止まる。
男は苦く笑った。
「怠けてるだけかもしれません。
甘えてるだけかもしれない。
でも、毎朝それをやるのが、もう、ちょっと……」
「しんどいんだろ」
店主が言う。
男は目を瞬いた。
それから、小さく頷く。
「……はい」
それだけだった。
けれど、その一言で、男の肩から何か少しだけ力が抜けた。
店主はカウンターの下から、コト、コト、と二つの小瓶を並べた。
「お前がどうしても“仕事に行きたくないけど行くしかない朝”を越えたいってんなら、選べ」
ひとつめ。
透き通ったオレンジ色。
振ると、底に細かな泡がぱちぱちと弾ける。
「物理補助。『始業ベルの火種』だ」
男が瓶を見る。
「飲めば、身体が先に起きる。
足の重さ、肩のだるさ、まぶたの鈍さ。
そういう“朝の身体”だけは無理やり持ち上がる」
「それは……助かります」
「だろうな」
店主は瓶を指で弾く。
ぱち、と中の泡が跳ねた。
「ただし、心まで前向きになるわけじゃねぇ。
お前は“行きたくない”と思ったまま、妙にしゃきしゃき動けるようになる。
つまり、嫌々の鮮度を保ったまま職場へ着く」
男の顔が引きつる。
中年冒険者が横で吹き出した。
「そりゃ嫌だなァ! 身体だけ元気で心が死んでるやつ!」
「うるさい」
店主が即座に切り捨て、男に向き直る。
「……でも、遅刻は減るし、家を出るまでの泥みてぇな重さは薄まる」
男はオレンジの瓶をじっと見た。
悪くない。
だが、それだけでは何かが足りない顔だった。
ふたつめ。
薄い緑色。
朝露みたいに淡いのに、底だけが少し濁っている。
「心理補助。『月曜の言い訳帳』だ」
男が眉を寄せた。
「言い訳……ですか」
「飲めば、“行きたくない理由”が頭の中ではっきり分かれる」
店主の声は淡々としていた。
「疲れてるだけなのか。
舐められてるのが嫌なのか。
向いてないのか。
成果が出なくて苦しいのか。
“行きたくない”って泥の中に混ざってるもんが、少しだけ見えるようになる」
リヒャルトが、帳簿から目を上げずに補足する。
「曖昧な不快感は耐えにくいですからね。
正体が見えるだけで、人は多少ましに動けるようになります」
「そういうことだ」
店主は頷きもしない。
「ただし、見えた理由が軽くなるわけじゃねぇ。
むしろ、“ああこれが嫌だったのか”ってはっきりする分、余計にしんどくなる朝もある」
男は緑の瓶から視線を外せなかった。
「……じゃあ、どっちも結局つらいんですね」
「仕事なんざ、そういう日もある」
店主は面倒くさそうに頭を掻く。
それから、三本目をどん、と置いた。
深い茶色。
温かいコーヒーみたいにも見えるが、覗き込むと底にごく小さな金の粒が沈んでいる。
「みっつめ。現実補助。『革靴の一歩目』だ」
男が、初めて少しだけ顔を上げた。
「……一歩目?」
「仕事を好きにする薬じゃない。
職場を天国にする薬でもない。
ただ、家を出るまでを細かく刻む薬だ」
沈黙。
店主は茶色の瓶を男の手の届くところまで押し出す。
「起きる。
顔を洗う。
服を着る。
靴下を履く。
靴を履く。
扉を開ける。
階段を下りる。
駅まで歩く」
瓶の中で金の粒が、ゆっくり揺れた。
「“仕事に行く”ってでかい塊のままだと、人間は潰れる。
だからこの薬は、それを“一歩目”まで崩す」
男は黙って聞いている。
「飲んだ朝は、その時その時の“次のひとつ”しか頭に乗らなくなる。
会社のことは考えなくていい。
今日一日も、明日のことも要らん。
とりあえず、靴を履く。
次に、扉を開ける。
次に、角を曲がる。
……そうやって現場まで辿り着かせる薬だ」
レッターが、そっと目を上げた。
男の喉が、小さく鳴る。
「それで……本当に着けるんですか」
「たいていはな」
店主は鼻を鳴らす。
「少なくとも、“仕事に行く”で潰れるよりは、“靴を履く”で済む」
クリムが胸を張る。
「きゅ!(でかい敵は分けろ!)」
ルゥが低く続ける。
「わふ(……朝は一歩で十分だ)」
男は三本を見つめたまま、長く息を吐いた。
オレンジ。
緑。
茶色。
どれも救いではない。
だが、全部ちゃんと現実の中にある。
「……仕事を辞めたいのか、ただ朝が重いのか、それすら分からなくなっていました」
「だろうな」
店主は即答した。
「毎日重いと、“全部嫌だ”でまとめたくなる。
だが、まとめると余計に動けなくなる」
男は茶色の瓶へ指を伸ばした。
「じゃあ……これを」
「賢明だ」
リヒャルトが流れるように瓶を包み始める。
「お代は銀貨一枚。
なお、効果中は“一日を乗り切る”という発想が弱まるため、先のことを考えて不安になるタイプの方には向いています」
「それ、今の私です」
「見れば分かります」
男は小さく苦笑して銀貨を置いた。
瓶を受け取ってからも、少しだけ迷うように立ち尽くす。
「……明日も、たぶん、行きたくないです」
「そうだろうな」
店主はまったく慰めない。
「いきなり好きになるわけねぇ」
「……ですよね」
「だが、明日の朝に要るのは“仕事を愛する気持ち”じゃない。
とりあえず靴を履く気力だ」
男の顔が、少しだけ崩れた。
泣くほどではない。
でも、ぎりぎりのところにいた顔だった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。
職場に人生ごと持っていくな。
朝は朝だけで越えろ」
「はい」
カラン。
扉が閉まる。
さっきより少しだけ、重さのましな足音だった。
しばらくして、中年冒険者が腕を組んだまま唸る。
「いやぁ……わかるけどなァ。
仕事って、行っちまえばなんとかなるのに、行くまでが一番重いんだよなァ」
「お前は毎朝、ここで一回死んでから蘇ってるだろうが」
店主が切る。
「きゅ!(事実!)」
「わふ(……見苦しいが事実だ)」
レッターが、空瓶を拭きながらぽつりと呟いた。
「……仕事に行きたくない、って。
怠けたいのとは、少し違うんですね」
「違う時もある」
店主は乳鉢を引き寄せる。
「怠けなら昼まで寝てりゃ済む。
しんどい奴は、ちゃんと行く準備までして、それでも靴のところで止まる」
リヒャルトが静かに帳簿を閉じる。
「真面目な人ほど、“行かなきゃ”と“行きたくない”が真正面からぶつかりますからね」
アトリエ・くぼ地の朝。
今日の薬草の匂いには、胃の底で固まる憂鬱と、それでも革靴を履いて扉を開けるための、小さくて現実的な一歩ぶんの気力が、静かに混じっていた。




