擦り減る靴底と、空転止めの処方箋
カラン……ッ!
昼下がりのアトリエ・くぼ地に、やたらと勢いのある、けれどどこか上滑りした足音が響いた。
「やぁ! 店主っ!
新しいポーションが噂になっているようだね!?」
勢いよく飛び込んできたのは、磨き抜かれた革靴と、派手すぎないが明らかに上等な外套を纏った青年――馴染みの孫商人だった。
営業用の完璧な笑顔。
しゃんと伸びた背筋。
だが、その全身から溢れ出す熱量は、常に空気を掴み損ねて空回りしているような気配があった。
孫商人は、カウンターへぐいっと身を乗り出して捲し立てた。
「あの幻惑の森を吹き飛ばしたっていう、例のすさまじいポーションだよ!」
カウンターの奥で乳鉢を回していた店主は、顔も上げずに深いため息を吐いた。
「……偶然の産物。危険。素材と利益が合わない。量産できない」
孫商人は、一瞬だけ口を開けたまま見事に固まった。
「商談を始める前から終わっているではないか!」
すかさず、カウンターの端から声が飛ぶ。
クリム「きゅ!(完全論破!)」
ルゥ「……わふ(……学習しろ)」
孫商人は大げさに肩をすくめて嘆いてみせたが、その額にはじっとりと嫌な汗が滲んでいる。
どうやら今回も、どこかで別の商談を派手に外し、焦ってここへ駆け込んできたらしい。
リヒャルトが、完璧な営業スマイルのまま、そっと帳簿を閉じた。
「……孫商人さん。熱心なのは結構ですが、情報に踊らされて無駄足を運ぶのは、商人としていかがなものかと」
「おや、リヒャルトくん。相変わらず辛辣だねぇ。私はただ、次代の市場を担う者としていち早く――」
「使いに、『たまには顔を出せ』と伝えただろ」
孫商人の言葉を、店主が横からぶった切った。
店主がようやく乳鉢を置き、面倒くさそうに顔を上げる。
「……潰れてもらっては困るからな」
そのぶっきらぼうな一言に、孫商人はぱちりと目を瞬かせた。
いつもは減らず口を叩く男が、その瞬間だけは何も言い返せなかった。
レッターがそっと、湯気の立つ特製茶をカウンターへ置く。
「ど、どうぞ……お疲れみたいですから」
「ああ、ありがとうレッターくん。君の優しさが心に沁みるよ……」
「お、お客様ですから……」
レッターが困って視線を逸らす。
奥で棚の整理をしていたメテスが、無表情のまま地鳴りのような低い声を落とした。
「……距離の詰め方が雑だ。だから商談も外す」
「ぐっ……痛いところを……!」
孫商人は大げさに胸を押さえ、やがて諦めたように丸椅子へ腰を下ろした。
アトリエが、しんと静まり返る。
孫商人は、ぽつりと自嘲するように言葉を継いだ。
「……最近、本当に空回るのだ」
「よかれと思って値引きをすれば、番頭に帳簿で殴られる。
客を喜ばせようと新企画を立てれば、準備不足で現場が混乱する。
祖父を見返したくて急げば急ぐほど、足元が滑る。……善意で走っているはずなのに、振り返るといつも誰もついてきていない」
リヒャルトの冷たい笑みも、今は少しだけ引っ込んでいた。
店主は鼻を鳴らし、カウンターの下からコト、コト、と二つの小瓶を並べた。
「お前がどうしても“空回りしない商人”になりたいってんなら、選べ」
ひとつめ。
炭酸のように、絶えず細かな泡が弾けている薄青の液体。
「物理補助。『一拍置きのソーダ』だ」
孫商人が身を乗り出す。
「ほう」
「飲めば、言葉や行動が出る前に、必ず一拍だけ立ち止まれるようになる。早すぎる値引きも、余計なお節介も防げる」
「素晴らしいじゃないか!」
「だがな」
店主は青い瓶を指先で弾いた。
「お前みたいな手合いは、その一拍の間に『これでいいのか?』と不安が入り込む。結果、今度はお前の最大の武器である勢いまでしぼんで、商機を逃がす臆病者になる」
孫商人の顔から、ぱっと明るさが消えた。
ふたつめ。
甘ったるい香りのする、とろりとした琥珀色の液体。
「心理補助。『番頭の胃薬』だ」
「名前が嫌だね!?」
「飲めば、相手の顔色や本音が手に取るようにわかるようになる。客が引いているのも、部下が呆れているのも、全部見える」
「……それは、便利ではあるが」
「見えすぎるんだよ」
店主の声は冷たかった。
「人の顔色ばかり気にして、無難な提案しかできなくなる。誰からも怒られない代わりに、誰の記憶にも残らない、面白みのない商人に成り下がるぞ」
孫商人は、二つの瓶からゆっくりと視線を外した。
「……どちらも、私が私でなくなってしまう気がするな」
「だろうな」
店主は二本を軽く押しやり、無言のまま三本目をどんと置いた。
深い灰色。
重たく、泥のように濁っているが、時折、底の方で鈍い銀の光が反射する。
「みっつめ。現実補助。『空転止めのグリス』だ」
「……グリス? 動きを良くするのかい?」
「逆だ。滑りすぎてるお前の車輪に、無理やり土を噛ませるための重石だ」
店主は孫商人をまっすぐに見据えた。
「この薬は、お前の空回りを止めてはくれない。お前はこれからも走りすぎて、外して、番頭の胃を痛めつける」
孫商人が眉を寄せる。
「それでは意味がないのでは……」
「だが、失敗した“後”が鮮明になる」
アトリエの空気が、ぴんと張り詰める。
「値引きが早すぎたのか。言葉が多すぎたのか。ただの自己満足だったのか。空回りして残した轍が、あとから嫌というほど頭に響くようになる」
リヒャルトが、静かに補足した。
「要するに、“転ぶな”ではなく“自分がどこで、なぜ転んだのかを直視しろ”という処方ですね」
「そういうことだ」
店主は深い灰色の瓶を指差した。
「空回ってもいい。だが、回ったあとに一回止まって、地面の傷を見ろ。そうすれば、次の回り方は確実に変わる」
孫商人は、灰色の瓶を見つめたまま長く、深い息を吐いた。
「……地味だな」
「商売は地味なもんだ」
「まったく、夢がない」
「帳簿に夢を見るな」
クリム「きゅ!(ど正論!)」
ルゥ「……わふ(……地に足をつけろ)」
孫商人は少しだけ苦く笑い、それから迷うことなく三本目の瓶を手に取った。
「……これをくれたまえ。どうやら今の私に必要なのは、空を飛ぶための魔法の翼ではなく、泥を踏みしめるための重たい靴だったようだ」
「賢明だな」
店主が短く言う。
リヒャルトが流れるような手つきで小瓶を包む。
「お代は銀貨三枚になります。なお、服用後しばらくは『自分のやらかし』が鮮明にフラッシュバックして気が滅入るかもしれませんが、副作用ですのでご安心を」
「それは……なかなかキツい薬だねぇ」
孫商人は銀貨を支払い、小瓶を大切に懐へしまった。
それから店主を見て、憑き物が落ちたような顔で笑う。
「……たまには顔を出せと言われた意味、少しわかった気がするよ」
「そうか」
「今日の商談は、始まる前に終わっていたけれど」
「終わってたな」
「だが、私が潰れる前にここへ呼んでくれた理由は、きっとこれだ」
店主は無愛想に肩をすくめた。
「知ったことか。さっさと帰って、お前のとこの番頭の胃痛を半分くらい減らしてやれ」
「半分で済めば御の字だね!」
カラン……。
扉が閉まり、静けさが戻る。
出ていく孫商人の足取りは、入ってきた時のような上滑りした軽さはなく、どこか慎重で、しっかりと地面を踏みしめるような重さがあった。
レッターが、ほうっと息を吐く。
「……なんだかんだで、あの方、ちゃんと自分の足で歩こうとするんですね」
「ええ。だからこそ、店主も彼を切らないのでしょう」
リヒャルトが帳簿を開き直しながら言う。
メテスが奥で短く鼻を鳴らした。
「……折れない心だけは、一級品だ」
店主は再び乳鉢へ視線を落とし、ゴリ、ゴリ、と薬草を潰し始めた。
「空回りでも何でも、諦めずに回り続けてりゃ、いつかは地面に噛み合う。……その時まで、歯車が壊れなきゃそれでいいんだよ」
アトリエは薬草の匂いに混じって、少しだけ遅れて効いてくる反省と、明日への足音が、静かに漂っていた。




