橋の下のふたりと、帰る場所の灯り。
救出された私たちは、
今、捜索隊の馬車に揺られて街を目指していた。
大きく軋む車輪の音。
まだ少し湿ったままの服。
靴の裏にべったりとこびりついた、あの森の忌々しい泥。
そして、アドレナリンが切れたあとにやってくる、身体の芯に残るひりつくような疲労。
九死に一生を得た直後って、もっと劇的な気分になるのかと思っていたけれど。
実際の私は、硬い座席にぐったりともたれながら、窓の外を流れる“本物の景色”をぼんやり眺めることしかできなかった。
「……ちょっと、マジでヤバかったよねぇ」
私が力なく呟くと、隣に座るネスが、いつになく真顔で深く頷いた。
「……少しでも投げるタイミングがズレてたら、店主たちごと捜索隊を消し飛ばすところだった」
「うん」
「『うん』じゃないよ、ルナ」
「でもさぁ」
私は脚の間に抱え直した採取袋をぎゅっと抱きしめて、ネスの肩に頭をこてんと預けた。
「結果的に、ネスに投げさせて正解だったわ!」
ネスの耳が、目に見えてかあっと赤くなる。
「そ、それは……僕が危うく爆殺犯になるところだったってこと……!?」
「私が投げても当てる自信はあったけどさ。あれ、リヒャルトの失敗作じゃない? 何が起きるかわかんないものを投げるのは、やっぱり『男の仕事』でしょ」
「う……」
「あんた、あんな状況でちゃんと腹括って投げたじゃない。……偉かったわよ」
ネスはしばらく口を金魚みたいにぱくぱくさせたあと、何かに取り憑かれたような、決死の表情になった。
「……ルナ。もし僕が、あの爆発で犯罪者になっても、一生一緒にいてくれる?」
「その重たいプロポーズ紛いの質問の前に、他に言うことないの???」
ぴたり、と。
ネスの動きが凍りついた。
赤い。
顔が沸騰しそうなくらい赤い。
そして、もじもじし始めた。
なんで死線を越えてきた直後に、まだそんなに初々しくもだもだできるのか、私には本気で意味がわからない。
「……その……」
「その?」
「…………助けてくれて、ありがとう、ルナ」
「うん」
「あと……」
「あと?」
ネスは耐えきれなくなったように顔を伏せた。
「……ルナが無事で、本当によかった」
私は少しだけ目を瞬いた。
いつもは「重い重い」とからかっているけれど、その一言に含まれた熱が、今の私には一番の特効薬みたいに沁みた。
「……うん。私も、ネスがいてくれてよかった」
気恥ずかしい空気を誤魔化すみたいに、私は店主から配られた小瓶の栓を景気よく抜いた。
「くぅーっ! 疲れた時はやっぱりこれよねー!!」
喉を抜ける刺激的な苦味と熱。
強張っていた全身の筋肉が、一気にほどけていく。
ネスが、呆然とした顔でこちらを見ていた。
「……ルナ。今、すっごくおっさんみたいな飲み方してたよ」
じろり。
「い、いや、なんでもありません! かっこよかったです!」
「よろしい」
そう言いながら、私の頭の中では、現実的な計算が弾けていた。
あっ。
「……ネス! 採取クエストの薬草!」
「……はぁ」
ネスが、いかにも予想通りだと言わんばかりの深いため息をつく。
「大丈夫。ルナが木の上で騒いでる間に、僕がちゃんと泥を払って荷袋に回収してあるよ」
「さすがネス! 大好き!」
私は勢いよくネスの腕を抱え込んだ。
「私のニコイチ、世界一!」
「ル、ルナ……っ! 近い、近いです……!」
またゆで蛸みたいに赤くなる。
こいつ、本当にわかりやすくて面白い。
ちょうどその時、御者の威勢のいい声が響いた。
「おーい、街に着いたぞー!」
⸻
街に戻った後の冒険者ギルドは、祭りの後のような、それでいて殺気立った慌ただしさに包まれていた。
突発ダンジョンの詳細報告。
生還者の安否確認と記録。
負傷者の応急手当。
執拗な事情聴取。
そして、命懸けで持ち帰った薬草の納品確認。
助かった直後だというのに、現実は容赦なく事務的で、面倒くさい。
でも、それが逆に、帰ってきたんだという安心感をくれた。
生きて帰ったからこそ、このクソ面倒な手続きがある。
死んでいたら、この硬い椅子に座ってペンを握ることすら叶わない。
書類をひとつ書き終えて、署名をして、また次の束を渡されて。
ようやくギルドの重い扉を後にした時には、街の空はすっかり濃い橙色に溶け始めていた。
私は、肺の底から大きく息を吐き出した。
「帰ろっか、ネス。私たちの『要塞』へ」
「うん。帰ろう、ルナ」
⸻
カラン……。
白亜の要塞の一階。
アトリエ・くぼ地のベルが、夕闇の中に澄んだ音を響かせる。
「ただいまー!」
「……ただいま、戻りました」
私の突き抜けるような声と、ネスの少し控えめな声が重なり合って店内に響く。
カウンターの奥で帳簿にペンを走らせていたリヒャルトが、ゆっくりと顔を上げた。
「おかえりなさいませ。二人とも、なかなかに派手な帰還でしたね」
いつもの完璧な営業スマイル。
でも、その目の奥には、いつもより少しだけ柔らかい色が混じっている。
私は鞄から報酬の金を取り出して、カウンターへどん、と景気よく叩きつけた。
「これ、来月分の家賃! きっちり稼いできたわよ!」
「はい。確かに。滞納せずに済んで何よりです」
リヒャルトが流れるような所作で硬貨を受け取る。
その瞬間、私は少しだけ真面目な顔になって、彼を真っ直ぐに見据えた。
「……リヒャルト。助かったわ。……あの鈴も、あの『不気味な小瓶』も。ありがとう」
リヒャルトは一瞬だけ睫毛を伏せ、それから微かに微笑んだ。
「いえ。……無事に戻られた、それだけで十分ですよ」
その声は静かだった。
余計なことは言わない。
でも、わかっている。
あの“失敗作”がなかったら、私たちは今頃、あの白い地獄で絶望していたはずだ。
リヒャルトは何も言わないまま、そっとカウンターの下から別の小瓶を取り出した。
例の、どす黒く濁ったポーション。
ひとつ。
「……え」
さらにもう一本。
「いや……」
畳み掛けるようにもう一本。
「ちょっと待って、多すぎない!?」
三本の“失敗作”が、カウンターに等間隔で並べられた。
私は思わず、呪物みたいな小瓶とリヒャルトの顔を見比べた。
「……ちょっと、リヒャルト。どんだけ錬成を失敗し続けてるのよ。天才の看板が泣くわよ?」
「ルナ!」
ネスが、顔を引きつらせて慌てて私の腕を引く。
「ちょっ、不敬だよルナ! リヒャルトくんが失敗してくれたおかげで、僕たちは助かったんだから、これはむしろ『奇跡の副産物』だよ!」
「えっ、そこを持ち上げるの!? 失敗したことを!?」
「そうだよ、全肯定だよ!」
リヒャルトが、にっこりと、一際まばゆい笑みを浮かべた。
綺麗だ。
だからこそ怖い。
「……ほぅ。私の研究成果を、そんな風に評価してくださるとは。……次からは、一瓶につき金貨一枚を徴収いたしましょうか?」
「ごめん! ほんっとに冗談! 冗談だってばリヒャルト様! 許して!」
「今後のお口の利き方には、くれぐれもお気をつけくださいね?」
「はいっ、仰せの通りに!」
「ルナ……」
「ネスは黙ってて!」
「なんで!?」
わちゃわちゃと騒ぐ私たちの頭上から、地を這うような低い声が降ってきた。
「……おい」
びくっ。
私とネス、そしてリヒャルトまでもが一瞬にして静止する。
振り返ると、店の奥から店主が姿を現していた。
いつもの無愛想な顔。
寝不足で不機嫌そうな目。
でも、当たり前みたいにそこに立っている。
それだけで、なぜかずっと張っていた心の糸が、ふっと軽くなった。
店主はじろりと私たちを見渡し、鼻を鳴らしてから短く言った。
「……ルナ、ネス。今日は奥で飯を食っていけ。……レッター、多めに作っておけ」
一拍。
私は、信じられない幸運に目を見開いた。
「タダ飯っ!!!」
私は即座に、拳を突き上げて叫んだ。
「やったー!! 店主、大好き! ネス、今すぐ持ち帰り用の箱を用意して! 残さず詰めるわよ!」
「任せてルナ! 食べられるだけ食べて、残りは三日分の飯に回そう!」
「お前ら、持ち帰る前提で喋るんじゃねぇ……」
店主が呆れ果てたように吐き捨てるが、その声音は今日一番、穏やかに緩んでいた。
厨房の奥から、レッターの「はいっ! すぐ準備します!」という弾んだ声が聞こえてくる。
アトリエ・くぼ地には、今日もまた、薬草の青苦い匂いと、生き返るような温かいスープの香りが満ちていく。
それだけで、本当の意味で
“帰ってきた” のだと確信できた。




