白い爆音と、迎えに来た手。
レッターを追って、店主が捜索隊の陣形から離れた。
その分厚い戦闘装束の背中が、ぬめるような白い靄の奥へ吸い込まれて消えた瞬間。
リヒャルトの胸の奥で、ひどく嫌な音がした。
店主だから大丈夫だ。
未知の階層を単独で生き抜いた男だ。
この程度で、後れを取るはずがない。
そう、理屈では思う。
思うのに。
隣に立つメテスの気配が、目に見えるほど強張っているのがわかった。
「……メテス」
呼んでも、返事がない。
ただ、大盾の裏のグリップを握り込む手が、白くなるほど力を込め、微かに震えていた。
微睡みの迷宮。
箱庭での死闘。
あの時も、そうだった。
店主が前に出た。
自分たちを庇った。
そして、大量の血を流して倒れた。
その瞬間、自分たちは何もできなかった。
あの背中が裂けた瞬間の冷たい感触が、この不気味な白い靄の中で、吐き気がするほど鮮明に蘇ってくる。
「……ダメだ」
メテスの声は、地鳴りのように低かった。
だが、その低さの底で煮えたぎっている衝動の正体を、リヒャルトは誰よりもよく知っている。
「死なせない。俺は店主を追う」
「メテス!」
リヒャルトは反射的に、弾かれたようにメテスの太い腕を両手で掴んだ。
「待ってください! 対幻惑用の鈴を装備してください! あなた一人では危険すぎます。……僕も行きます!」
メテスの瞳が、ぎり、と強く揺れる。
今にも単独で飛び出していきそうだった彼の暴走を、ほんのわずかに押し止めたのは、リヒャルトのその言葉だった。
リヒャルトは即座に振り返り、青ざめているギルド職員を鋭く見据えた。
「職員さん!」
「ひっ、は、はい!」
ギルド職員がびくりと肩を揺らす。
「店主が単独で追跡に入りました。僕たちも向かいます。レッター救助と店主の補佐を最優先とします。こちらの支援用ポーションはすべて託しますので、負傷者対応と隊列維持をお願いします」
「わ、わかりました……!」
「必要最低限の補助は残します。もし、一刻経っても僕たちが戻らなければ、方位を固定した発煙筒を上げてください」
「承知しました!」
リヒャルトは素早く回復と浄化の小瓶の束を職員へ押しつけ、自分の腰の鈴が確実に鳴ることを確かめる。
メテスも無言で、対幻惑用の鈴を腰へ強く結びつけた。
「……行くぞ」
「ええ」
二人は同時に地を蹴り、白い靄の奥へ飛び込んだ。
⸻
薄緑色に濁った白い靄が、呼吸をするたびに肺の奥までねっとりとまとわりついてくる。
ルゥの嗅覚も、クリムの警戒の鳴き声もないこの森の道は、歩くことすらひどく気味が悪かった。
前方へ突っ走るメテスの広い背中は、いつもよりさらに大きく、そして焦っているように見える。
不意に、靄の壁を突き破って魔物の鋭い爪が飛んできた。
ガンッ!!
メテスの大盾が、その一撃を正面から完璧に受け切る。
「……邪魔だ」
吐き捨てるように言って、メテスが大盾を構えた肩ごと魔物を乱暴に弾き飛ばした。
リヒャルトは足を止めないまま、流麗な動作で魔術杖を振るう。
「右、散れ」
鋭い風の刃が走る。
湿った靄が一気に両断され、前方の朽ちた木立と、ぬかるんだ地面のうねりが数秒だけ露わになる。
「左に太い根! 前方浅い窪地です。滑らないでください」
「……わかった」
二人はほとんど呼吸を合わせるみたいにして走った。
メテスが前で障害を物理的に粉砕し、受け止める。
リヒャルトが霧を魔法で剥がし、安全な足場を見せ、死角を潰す。
普段なら、この陣形の真ん中に店主がいて、その指示で全体の盤面を回す形になる。
だが、今は違う。
中心が、いない。
それだけで、背筋が凍るほど空気が冷たく、頼りなかった。
前方から、ふいに重い爆破音が響いた。
ドォン――!!
メテスが即座に左腕を上げ、リヒャルトの足を強引に止める。
「……止まれ」
二人の足が同時に止まる。
白い靄が爆風で遅れて揺れ、頭上の枝先から冷たい水滴がぱらぱらと落ちてきた。
「……今の音は」
リヒャルトが鋭く呟く。
メテスは耳を澄ませるように、警戒した獣のような顔を上げた。
「……店主たちが、こっちへ向かっている」
その一言で、リヒャルトの背筋に冷たい汗が流れた。
こちらへ向かっている。
それはつまり、無事に保護して帰還の途についているか。
それとも、大量の魔物を引き連れて追い詰められているか。
そのどちらか、あるいは両方だ。
「……最悪な事態に陥っていたりしませんか?」
「来た道を戻るぞ」
メテスが即断する。
だが、次の瞬間、その重い声が危機感に鋭く裂けた。
「走れ!!」
⸻
ぐちゃり、と靄の奥から泥を蹴り立てて、巨大な影が飛び出してきた。
最初に見えたのは、店主の分厚い戦闘装束だった。
その背中に、レッターの小さな身体をしっかりと担ぎ上げている。
ルゥが牙を剥き出しにして低く走り、クリムが店主の肩口で羽毛を逆立てて威嚇の声を上げている。
そして、その後ろから。
這うように、木々を跳ねるように、数え切れないほどの異形の魔物たちが、雪崩を打って追ってきていた。
「お前ら! 馬鹿か!!」
店主の容赦ない怒声が飛ぶ。
「なぜ陣営から離れた!!」
「店主!」
「ご無事で――」
「無事じゃなかったら怒鳴ってない!」
その理不尽な返しに、ほんの一瞬だけ、ああ、いつもの店主だと思えた。
だが、立ち止まって安心している暇など一秒もない。
店主は並走する二人の力量を一瞥で推し量る。
「リヒャルト! 殲滅ポーションを後方の群れへ投げろ!」
「はいっ!」
リヒャルトは腰のポーチから小瓶を抜き放ち、振り向きざまに、最も密集している場所へ向けて正確に投擲した。
ドォォォン!!!
白い閃光が森を焼く。
次いで、遅れて強烈な爆風が襲いかかってきた。
メテスが即座に大盾をぬかるんだ地へ食い込ませるように構え、三人の背後を完璧に守る。
爆風が盾の表面を激しく殴りつけ、ちぎれた枝葉が弾丸のように吹き飛んでいった。
レッターが、店主の背中で恐怖にびくりと跳ねる。
「……このまま陣営に戻れば」
店主が前を向いたまま低く言う。
息は荒い。
それでも声の芯は微塵もぶれていなかった。
「引き連れてきた魔物で、捜索隊が全滅しそうだ」
「では!」
「進行方向、左の谷筋へ行く」
有無を言わせない、戦闘錬金術師としての絶対的な判断だった。
店主が鋭く進路を変える。
リヒャルトとメテスも、一切の疑問を挟まず即座に追従する。
背中で、レッターがしゃくり上げていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……僕のせいで……」
店主は、一度も振り返らない。
「口を閉じて、落ちないようにしっかり掴まってろ」
ただ、それだけだった。
だが、どんな優しい慰めよりも、そのぶっきらぼうな一言の方が、今のレッターには確かな命綱として効いた。
突然、前方の霧が、意思を持ったように不自然な渦を巻いた。
「店主!!」
リヒャルトが警告を叫ぶ。
店主が忌々しげに舌打ちする。
「……チッ」
メテスが大盾を構え直し、足を止めた。
「……完全に、囲まれてる」
木の上。
根元の死角。
白い靄の向こう側。
じわじわと、底知れない数の影が浮き上がってくる。
飢えた牙。
毒を持った爪。
滴るよだれ。
どう考えても、四人でさばき切れる数ではない。
店主は一度だけ、短く、深く息を吐いた。
「……ふぅ」
その呼吸を合図にするように、リヒャルトが店主の背中を守る位置へ寄る。
魔力で青白く発光する魔術杖を構える。
メテスはさらに一歩前へ出て大盾を岩のように立て、片手剣の刀身へ濃密な魔力を這わせた。
来る。
全員が死闘を覚悟した、その瞬間だった。
森の辺り一面が、およそこの世のものとは思えない、暴力的な白い光に飲み込まれた。
「――!?」
森の音が、すべて消える。
世界が、圧倒的な白一色に塗り潰される。
次の瞬間、遅れて鼓膜を破るような規格外の爆風が叩きつけてきた。
店主が目を限界までひん剥く。
「……は?」
リヒャルトも、完璧な笑顔を崩して息を呑んだ。
「な……!?」
メテスが大盾で強烈な爆風をぎりぎりで受け流しながら、信じられないものを見るような声で低く呼ぶ。
「……リヒャルト。お前、何を投げた」
「……僕じゃありませんよ! あんな出鱈目な威力……」
激しい風に吹かれ、答えるように、幻惑の霧がゆっくりと晴れていく。
そして、遠くの太い木の上から、間の抜けた、ひどく必死な声が響き渡った。
「たーすーけーてぇー!!」
「こっちですー!!!」
木の枝にしがみついている、アルテルナとゲッセネスだった。
店主は一拍だけ呆然と黙り、それから、こらえきれないように肩を震わせて笑い出した。
「……あの、馬鹿ども」
⸻
あの規格外の爆発を境にしたように、森を覆っていた幻惑の靄は嘘のように薄れていった。
完全に消えたわけじゃない。
だが、さっきまでの方向感覚すら狂わせる悪質な濃さはない。
捜索隊の安否を確認する呼び声が、遠くで繋がり始める。
行方不明だった冒険者たちも、この霧の晴れ間を突いて、ひとり、またひとりと無事に見つかっていった。
安全圏まで合流を果たし、店主はようやく足を止め、背負っていたレッターを静かに地面へ降ろした。
レッターは自分の足で地面に立った途端、安心と罪悪感で、また泣きそうに顔をぐしゃぐしゃに歪めた。
「……僕のせいで……ごめんなさい……僕が……僕が、みんなを危険な目に……」
「レッター」
低く、静かな声に、レッターの肩がびくりと震える。
店主はレッターの涙を見ても、顔色ひとつ変えなかった。
ただ、まっすぐにその目を見て言った。
「そこは、『迎えに来てくれてありがとう』、だ」
レッターが、はっと息を呑んで目を見開く。
リヒャルトも、メテスも、息を止めたみたいにして店主を見つめていた。
店主は何でもない、いつもの気怠げな顔に戻ると、
まず、隣にいたリヒャルトの美しい金糸の頭をわしゃっと乱暴に撫でた。
「待機命令を無視して飛び出してきた、馬鹿その一」
「……店主」
次に、大盾を下ろしたメテスの頭へ、大きな手が容赦なく乗る。
「馬鹿その二」
メテスは何も言い返さない。
ただ、少しだけ嬉しそうに目を細めて、その乱暴な撫で方を受け入れていた。
そして最後に。
まだ涙目のレッターの頭へ、ぽん、ぽん、と一番優しく、軽く手を置いた。
「で。ひとりで勝手に迷子になった、馬鹿その三」
その瞬間。
「きゅーーーっ!!」
「わふっ!」
これまで空気を読んで我慢していたクリムとルゥが、揃って店主の身体へ猛突進した。
「ぐあっ!」
分厚い武装を着込んでいる店主でさえ、二匹の愛情のタックルにたたらを踏む。
クリムが肩へよじ登って髪の毛を引っ張り、
ルゥが足元へぐりぐりと強めに頭を押しつける。
「おい、痛い! 重い! 苦しいっての!」
「きゅっ!(心配したんだぞ!)」
「わふ!(……無茶をするな、馬鹿飼い主!)」
クリムとルゥたちの容赦ない物理的な抗議に、張り詰めていた戦場の空気がようやく緩んだ。
その時だった。
遠くの木の上から、またしてもやかましい声が飛んでくる。
「ちょっとー!! だれかー!!! きいてるー!!?」
「爆風で木から降りられませーん! 助けてくださーい!!」
いまだに枝にしがみついているアルテルナとネスだ。
店主は顔を上げた。
それから、心の底から呆れたような、特大のため息をつく。
「……最後までうるさいな、あいつらは」
だが、文句を言うその声音は、
今日一番、どこか安心したように軽かった。
⸻
数日後。
カラン、とアトリエのベルが鳴り、扉が開く。
「おい店主! 噂のすげぇ威力の『殲滅ポーション』とやらが欲しいんだが!」
常連の冒険者が、いかにも軽い調子でカウンターへ身を乗り出してきた。
店主は乳鉢を回す手を一切止めず、鼻を鳴らす。
「……あれは偶然の産物だ。危険すぎる上に、そもそも素材がない。量産できるような代物じゃない」
「あー、そうか。残念だ」
常連客は肩を竦め、それでも結局、いつもの『滋養強壮薬』だの『傷薬』だのを買い込んで帰っていく。
扉が閉まる。
静けさの戻った店内で、店主がちらりと、意味深な視線をリヒャルトへ向けた。
「……あれはダメだぞ?」
リヒャルトは、一拍だけ、完璧な笑顔のまま目を逸らした。
「……量産はしませんよ」
メテスが棚の整理をしながら、低く付け加える。
「……奥の手は、いる」
店主は乳鉢を回しながら、これ以上ないほど深く息を吐いた。
「やれやれだ。どいつもこいつも、物騒な弟子ばかりで嫌になる」
その時、厨房の奥から明るい声がアトリエに響き渡った。
「お昼できましたよー!」
レッターだった。
その声にはもう、怯えも、顔色を窺うような暗さもない。
白亜の要塞の一階に、薬草の青苦い匂いと、美味しいスープの温かい湯気、そして、まだほんの少しだけ残る森での死闘の記憶が混ざり合う。
アトリエ・くぼ地は今日も、
ひどく物騒で、騒がしくて、愛おしい日常を刻んでいた。
脱字を修正しましたm(_ _)m




