僕は、レーベンス・レッター。
僕は、レーベンス・レッター。
「命を救う者」という意味の、立派な名前。
優しい両親に大切に育てられた、レッター家の三番目の子だった。
兄たちは強くて、母は柔らかくて、父は厳しいけれど穏やかな人だった。
庭には季節ごとに花が咲いた。
食卓にはいつも温かな湯気があった。
眠る前には、母が髪を撫でてくれた。
あの頃の僕は、自分が不幸になるなんて思っていなかった。
世界は少し怖くても、家に帰れば大丈夫だと思っていた。
――そう、思っていた。
あの日までは。
⸻
邸が火の海に包まれていた。
赤かった。
熱かった。
煙で目が痛くて、喉が焼けて、息を吸うたびに肺の奥が軋んだ。
崩れた柱。
燃える絨毯。
割れた窓。
誰かの悲鳴。
そして、床に倒れていた母が、血だらけの手を僕へ伸ばしていた。
「逃げなさい……はやく……」
涙で濡れた顔だった。
母を庇うように倒れていた父は、もうぴくりとも動かなかった。
兄たちは――兄たちは。
身体と、頭が、離れていた。
その光景を見た瞬間、頭の中の何かが真っ白になった。
怖い。
嫌だ。
やめて。
見たくない。
そう思っているのに、目は逸らせなかった。
泣くことしかできなかった。
足も動かなかった。
声も出なかった。
そんな僕の首根っこを、誰かの手が掴んだ。
乱暴だった。
でも、その乱暴さがなければ、僕はあの場で焼け死んでいた。
引きずられるように、僕は生まれ育った邸を後にした。
振り返った先で、屋根が崩れた。
僕の家は、そこで終わった。
⸻
僕を助けてくれた人は、名前も告げず、隣国の孤児院へ僕を預けた。
そこで数か月を過ごした。
最初の頃は、毎晩泣いていた。
泣き疲れて眠って、起きたら全部夢ならいいのにと思っていた。
でも夢じゃなかった。
母も父も兄たちも、もういなかった。
それでも、生きていれば腹は減る。
寒ければ震えるし、眠くなれば眠る。
身体だけが、何事もなかったみたいに生きようとするのが、ひどく気持ち悪かった。
しばらくして、僕は言われた。
**「貰い手が決まった」**と。
優しい言葉だった。
新しい家に行けるのだと、その時の僕は、ほんの少しだけ思ってしまった。
馬鹿だった。
連れて行かれた先は、両親と暮らした場所よりさらに遠い、見知らぬ街だった。
そして、里親だと思っていたその場所は――男娼館だった。
最初は意味がわからなかった。
着せられる服。
教え込まれる笑い方。
触られる身体。
値踏みする目。
少しずつ、少しずつ、自尊心が削れていった。
嫌だと言っても意味はなかった。
泣いても意味はなかった。
逃げようとしても捕まった。
人間は、こういうふうに壊れるのだと知った。
そんなある日、客のひとりが、酒に酔った声で話していた。
**「錬金術師のポーション屋」**のことを。
悩みも痛みも消えるわけじゃない。
でも、少しだけ楽になる薬を出す店があるのだと。
その話を聞いた時、胸の奥で何かが動いた。
ひと時の気休めでいいと思った。
どうせ、何も変わらないとしても。
少しだけでも、今の自分を薄められるならと思った。
そこで処方されたポーションが、僕の背中を押した。
僕は逃げた。
商人の馬車に隠れて。
それが奴隷商人の馬車だとは知らずに。
⸻
そして、奴隷に堕ちた。
もう笑うしかなかった。
いや、笑う元気もなかった。
逃げた先で、さらに深い底に落ちた。
飢えた。
苦しんだ。
喉が焼けるように渇いた。
それでも身体だけは、馬鹿みたいに生きようとして水を求めた。
僕の中には、両親から受け継いだ治癒魔術の知識があった。
それだけが価値になった。
人としてではなく、道具として使われた。
怪我人を治し、熱を引かされ、血を止めさせられる。
役に立つうちは殴られ、役に立たなければ捨てられる。
そんな日々の果てに、ダンジョンブレイクが起きた。
悲鳴。
崩壊。
魔物。
毒のような霧。
逃げたかった。
もう嫌だった。
でも、身体が勝手に動いた。
主――奴隷商人を庇っていた。
助かりたかったからじゃない。
身体が、そう動くように使い潰されていただけだった。
そうして僕は壊れ、役目を果たした道具みたいに破棄された。
⸻
意識が飛び飛びだった。
寒かった。
苦しかった。
肺が爛れて、呼吸のたびに焼けるような痛みが走った。
もう終わりだと思った。
その時だった。
優しい声が聞こえた。
熱い飲み物が、喉を通った。
苦しいはずなのに、少しずつ楽になった。
焼けるみたいだった胸が、少しだけほどけた。
誰かの手が額に触れた。
低くて、ぶっきらぼうな声。
遠かった。
でも、不思議と怖くなかった。
次に意識を取り戻した時、僕は店主に金貨一枚で買われていて、この店で生きることになっていた。
最初は、信用なんてできなかった。
どうせ、また破棄される。
どうせ、優しい顔をしていても最後は違う。
そう思っていた。
でも、日々の中で。
リヒャルトの完璧すぎる笑顔の奥の不器用さを見た。
メテスの無口な優しさに触れた。
店主のぶっきらぼうな手が、何度も何度も、僕を現実に引き戻した。
少しずつ。
本当に少しずつ。
前に進めるようになった。
ここでなら。
ここなら、もしかしたら。
そう思い始めていたのに。
⸻
「私の愛しい子。頑張ったわね」
優しい声だった。
「もう無理する必要はない。迎えに来た」
父の声だった。
僕は顔を上げる。
いた。
父様。
母様。
あの日、血まみれで倒れていたはずの二人が、何事もなかったみたいに、優しい顔でそこに立っていた。
涙が、一瞬で溢れた。
「……父様、母様……!」
喉が震える。
足が勝手に前へ出る。
「逢いたかったです……逢いたかった……逢いたかった……」
「レッター!」
どこか遠くで、店主の声がした。
でも、今はそれどころじゃなかった。
母が両手を広げている。
父が頷いている。
「さあ、早くこちらへおいで」
「レッター!! 待て!!」
待てない。
待ちたくない。
もう一度だけでいい。
もう一度だけ抱きしめてもらいたい。
あの頃みたいに、頭を撫でてほしい。
走った。
その瞬間。
バシャッ――と、何かが全身に叩きつけられた。
「――っ!」
熱い。
違う。
焼けるような熱じゃない。
頭の奥にこびりついていた靄を、一気に剥がされるような刺激が走る。
視界がぐらりと揺れた。
目の前にいたはずの父と母の輪郭が、溶けた。
歪んだ。
裂けた。
白い靄の向こうで、木の影が笑ったように見えた。
「レッター!! 戻ってこい!!」
店主の声。
近い。
鋭い。
現実の声。
「……店主……?」
膝が崩れた。
息が苦しい。
涙が止まらない。
何が本物なのかわからない。
そこへ、荒い足音が踏み込んでくる。
「ったく……」
乱暴な腕が、僕の身体を引き寄せた。
「こんなもんに引っかかるな」
低い声。
ぶっきらぼうな声。
それなのに、どうしようもなく安心する声。
僕は、その硬い装備の上から服に縋りついた。
「て、店主……っ、僕、僕……」
言葉にならない。
涙としゃくり上げる呼吸ばかりが零れる。
「わかってる」
短く言って、店主は僕を背負い上げた。
一瞬で視界が高くなる。
背中が、広い。
熱い。
薬瓶や刃物の入った硬い装備越しなのに、揺れは妙に安定していて、落ちる気がしなかった。
「しっかり掴まってろ」
その声と同時に、店主は駆けた。
森が歪む。
靄が流れる。
木々の間から牙が覗く。
店主の片手が腰のポーチへ伸びる。
次の瞬間、小瓶が宙を裂いた。
「邪魔だ」
投げられた殲滅ポーションが弾ける。
光。
爆ぜる音。
魔物の悲鳴。
僕は背中の上で震えながら、それでも絶対に離さないと店主の首にしがみついた。
耳の奥で、鈴の音が鳴る。
ちりん。
ちりん。
対幻惑用の鈴。
あの音だけが、現実の位置を教えてくれる。
「ルゥ!」
前方で低い唸り。
「わふ!」
「クリム!」
「きゅっ!」
クリムとルゥの気配が左右を走る。
魔物の位置。
道の歪み。
幻惑の濃い場所。
全部が、店主を通して一本の道になっていく。
背負われたまま、僕は泣いていた。
情けないくらい泣いていた。
両親に逢いたかった。
今でも逢いたい。
あの腕に抱きしめられたかった。
でも。
店主の背中は熱かった。
怖いのに。
苦しいのに。
涙が止まらないのに。
この背中の上は、ひどく安心した。
置いていかれない。
捨てられない。
落とされない。
そう思えた。
僕は顔を押しつけるようにして、さらにしがみついた。
店主は何も言わない。
ただ、走る。
枝を払い、靄を抜け、魔物を叩き落としながら。
その背中が、今の僕を現実へ繋いでいた。
白い靄の向こうで、鈴の音がまた鳴る。
ちりん。
ちりん。
泣きじゃくる僕を背負ったまま、店主は陣地へ向かって走り続けた。
そのたびに、胸の奥でひとつずつ、壊れかけた何かが拾い上げられていく気がした。




