突発ダンジョンと、飲み込まれた森。
-幻惑の森-
カラン――と鳴るには、あまりにも重すぎる音だった。
まだ太陽が真上にも届かない時間。
白亜の要塞一階、アトリエ・くぼ地に飛び込んできたのは、顔色をすっかり失った冒険者ギルドの職員だった。
制服の襟元は乱れ、額には玉のような汗が浮いている。
息を整える余裕すらなく、彼はすがるようにカウンターへ両手をついた。
「……こちらにお住まいの、アルテルナさんとゲッセネスくん、他数名の冒険者が……突発ダンジョン生成の影響により、森ごと“幻惑の森”に飲み込まれ、行方不明です」
アトリエの空気が、一瞬で音を失った。
店主の手が止まる。
乳鉢の中で潰しかけていた薬草が、半ば砕けたまま静まり返った。
「捜索隊は」
地を這うような、低い声だった。
「……現在、急ぎ準備を進めています。ですが、幻惑系の特性がひどく強く、通常の探索班だけでは――」
「店主」
リヒャルトが、ひどく静かに呼んだ。
その声はいつも通り落ち着き払っていたが、完璧に整えられた表情の奥で、何かが音もなく張り詰めているのがわかった。
メテスは何も言わず、ただ無表情のまま店主を見た。
けれど、その重い視線だけで十分だった。行くのか、と。行くだろう、と。
レッターは顔色を失い、唇を震わせながら、自分の回復杖を胸の前でぎゅっと抱きしめていた。
「ルナさん……ネスさんが……」
掠れた声が、今にも泣きそうに揺れる。
店主は一度だけ、深く目を閉じた。
アルテルナは軽い。
ネスは重い。
片方が突っ走れば、もう片方は死んでも食らいつくだろう。
どちらも生き汚く、そしてどちらもまだ、死んでいい年じゃない。
「……準備をする」
店主が短く言い放った。
ギルド職員の顔に、張り詰めた安堵が走る。
「ご協力、ありがとうございます……!」
「礼はいい。道中の情報を寄越せ。幻惑の起点、最後に確認された位置、飲み込まれた人数、先行した班の有無。全部だ」
「は、はい!」
職員は慌てて羊皮紙を広げた。
その横で、もうリヒャルトは動いている。
「メテス、対幻惑用の鈴と固定ロープを。レッター、回復触媒と浄化系を優先して。クリム、ルゥ、索敵補助の準備を」
「……了解」
「は、はいっ!」
「きゅ!」
「わふ」
白亜の要塞の空気が、完全に切り替わった。
いつもの薬草やスープの匂いが消え、濃密な戦場の支度が始まった。
⸻
出立は早かった。
ギルド前には、すでに簡易編成の捜索隊が集まり始めている。
前衛、斥候、魔術師、担架要員。
だが、誰の顔にも余裕はない。
突発ダンジョン生成――それも幻惑系は、地形も認識も、人間関係すら狂わせる最悪の部類だ。
店主たちが現れた時、捜索隊の空気がわずかにざわめいた。
「アトリエの……」
「店主も出るのか」
「だったら回復は厚いな」
「いや、あの子どもらも一緒かよ……?」
不安と安堵の混ざった視線が集まる。
だが、そんなものに構っている暇はなかった。
森の入口は、すでに“森”ではなかった。
本来なら、木漏れ日が差すだけのありふれた林道。
そこに今、肺にへばりつくような薄緑の靄が垂れ込め、木々の輪郭を不気味に溶かしている。
風は吹いているはずなのに、葉擦れの音だけが、ひどく遅れて鼓膜に届いた。
「……気色悪いな」
店主が吐き捨てる。
ルゥが低く喉を鳴らした。
「わふ……」
クリムは店主の肩にぴたりと張りつき、警戒に羽毛を逆立てている。
「きゅ……!」
リヒャルトが、捜索隊の大人たちへ向けて冷徹に言い放った。
「以後、視界情報を信用しすぎないでください。三人以上での固まりを維持。単独行動は禁止。呼びかけに応答があっても、姿を確認するまでは近づかないこと」
若い声だ。
それなのに、その若さに似合わぬ有無を言わせぬ響きに、歴戦の冒険者たちでさえ誰も口を挟めなかった。
「風を流します。靄の濃度と匂いの変化で異常を見ます。前衛は足元優先、後衛は横列を崩さないで」
「……行くぞ」
店主の短く重い一声で、捜索隊は緑の靄の中へ踏み込んだ。
⸻
序盤は、拍子抜けするほど順調だった。
ルゥが微かな気配を拾い、クリムが魔物の接近を先に鳴いて知らせる。
霧の奥から飛び出してきた小型魔物は、メテスが前に立つだけで完全に足を止めた。
重い盾が鳴る。
片手剣が鋭く閃く。
店主へ伸びる爪や牙は、そのたびにメテスによってきっちり叩き落とされた。
「左二体!」
リヒャルトの声と共に、鋭い風が走る。
靄が裂け、揺れた枝の向こうに潜む影が露わになる。
前衛の冒険者たちがそこへ突っ込み、確実に数を減らしていく。
負傷者が出れば、レッターが小走りで駆けた。
「動かないでください、すぐ治します……!」
震える声なのに、その手は一切迷わない。
裂けた皮膚を塞ぎ、痺れを抜き、混乱しかけた冒険者の呼吸を的確に落ち着かせていく。
「す、すげえな……坊主」
「もう少しだけ、我慢してください……!」
小さな背中が、必死に大人たちの命を繋いでいた。
「悪くない」
店主が短く言う。
レッターはびくりと肩を揺らし、それでも嬉しそうに、少しだけ胸を張った。
隊列は進む。
靄は、じわじわと濃くなっていく。
なのに、まだ陣形は壊れない。
このまま行ける。
誰かが、そう安堵しかけた時だった。
不意に、レッターの足がぴたりと止まった。
「……え」
その声は、あまりにも幼かった。
店主が振り返る。
レッターの視線の先。
木々の隙間、うねる白い靄の向こうに、二つの人影が立っていた。
柔らかく微笑む女。
その隣で、穏やかな顔をした男。
血まみれでもない。
崩れた死体でもない。
もう二度と戻らないはずの、あの日のままの姿でもない。
ただ、記憶の中の優しい両親の顔をして、そこに立っていた。
「レッター」
店主が呼ぶ。
低く、短く。
だが、もう遅かった。
「……お父さま……? お母さま……?」
レッターの手から、回復杖が、かたん、と乾いた音を立てて落ちた。
「待て」
次の瞬間、レッターは靄の中へ向かって走っていた。
「あの馬鹿!」
店主が舌打ちと同時に地を蹴る。
「メテス、隊を守れ。リヒャルト、指揮を継続しろ。ルゥ、クリム、来い!」
「……!」
「店主!」
リヒャルトの鋭い声が飛ぶ。
だが、もう止まらない。
白い靄の奥へ、レッターの細い背中が吸い込まれるように消える。
後を追う店主の視界の端で、森の景色がぐにゃりと不気味に歪んだ。
幻惑の森が、ようやくその本性を現し始めていた。




