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錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


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252/288

突発ダンジョンと、飲み込まれた森。

-幻惑の森-

カラン――と鳴るには、あまりにも重すぎる音だった。


まだ太陽が真上にも届かない時間。

白亜の要塞一階、アトリエ・くぼ地に飛び込んできたのは、顔色をすっかり失った冒険者ギルドの職員だった。


制服の襟元は乱れ、額には玉のような汗が浮いている。

息を整える余裕すらなく、彼はすがるようにカウンターへ両手をついた。


「……こちらにお住まいの、アルテルナさんとゲッセネスくん、他数名の冒険者が……突発ダンジョン生成の影響により、森ごと“幻惑の森”に飲み込まれ、行方不明です」


アトリエの空気が、一瞬で音を失った。


店主の手が止まる。

乳鉢の中で潰しかけていた薬草が、半ば砕けたまま静まり返った。


「捜索隊は」


地を這うような、低い声だった。


「……現在、急ぎ準備を進めています。ですが、幻惑系の特性がひどく強く、通常の探索班だけでは――」


「店主」


リヒャルトが、ひどく静かに呼んだ。


その声はいつも通り落ち着き払っていたが、完璧に整えられた表情の奥で、何かが音もなく張り詰めているのがわかった。


メテスは何も言わず、ただ無表情のまま店主を見た。

けれど、その重い視線だけで十分だった。行くのか、と。行くだろう、と。


レッターは顔色を失い、唇を震わせながら、自分の回復杖を胸の前でぎゅっと抱きしめていた。


「ルナさん……ネスさんが……」


掠れた声が、今にも泣きそうに揺れる。


店主は一度だけ、深く目を閉じた。


アルテルナは軽い。

ネスは重い。

片方が突っ走れば、もう片方は死んでも食らいつくだろう。

どちらも生き汚く、そしてどちらもまだ、死んでいい年じゃない。


「……準備をする」


店主が短く言い放った。


ギルド職員の顔に、張り詰めた安堵が走る。


「ご協力、ありがとうございます……!」


「礼はいい。道中の情報を寄越せ。幻惑の起点、最後に確認された位置、飲み込まれた人数、先行した班の有無。全部だ」


「は、はい!」


職員は慌てて羊皮紙を広げた。

その横で、もうリヒャルトは動いている。


「メテス、対幻惑用の鈴と固定ロープを。レッター、回復触媒と浄化系を優先して。クリム、ルゥ、索敵補助の準備を」


「……了解」


「は、はいっ!」


「きゅ!」


「わふ」


白亜の要塞の空気が、完全に切り替わった。

いつもの薬草やスープの匂いが消え、濃密な戦場の支度が始まった。



出立は早かった。


ギルド前には、すでに簡易編成の捜索隊が集まり始めている。

前衛、斥候、魔術師、担架要員。


だが、誰の顔にも余裕はない。

突発ダンジョン生成――それも幻惑系は、地形も認識も、人間関係すら狂わせる最悪の部類だ。


店主たちが現れた時、捜索隊の空気がわずかにざわめいた。


「アトリエの……」


「店主も出るのか」


「だったら回復は厚いな」


「いや、あの子どもらも一緒かよ……?」


不安と安堵の混ざった視線が集まる。

だが、そんなものに構っている暇はなかった。


森の入口は、すでに“森”ではなかった。


本来なら、木漏れ日が差すだけのありふれた林道。

そこに今、肺にへばりつくような薄緑の靄が垂れ込め、木々の輪郭を不気味に溶かしている。


風は吹いているはずなのに、葉擦れの音だけが、ひどく遅れて鼓膜に届いた。


「……気色悪いな」


店主が吐き捨てる。


ルゥが低く喉を鳴らした。


「わふ……」


クリムは店主の肩にぴたりと張りつき、警戒に羽毛を逆立てている。


「きゅ……!」


リヒャルトが、捜索隊の大人たちへ向けて冷徹に言い放った。


「以後、視界情報を信用しすぎないでください。三人以上での固まりを維持。単独行動は禁止。呼びかけに応答があっても、姿を確認するまでは近づかないこと」


若い声だ。

それなのに、その若さに似合わぬ有無を言わせぬ響きに、歴戦の冒険者たちでさえ誰も口を挟めなかった。


「風を流します。靄の濃度と匂いの変化で異常を見ます。前衛は足元優先、後衛は横列を崩さないで」


「……行くぞ」


店主の短く重い一声で、捜索隊は緑の靄の中へ踏み込んだ。



序盤は、拍子抜けするほど順調だった。


ルゥが微かな気配を拾い、クリムが魔物の接近を先に鳴いて知らせる。

霧の奥から飛び出してきた小型魔物は、メテスが前に立つだけで完全に足を止めた。


重い盾が鳴る。

片手剣が鋭く閃く。

店主へ伸びる爪や牙は、そのたびにメテスによってきっちり叩き落とされた。


「左二体!」


リヒャルトの声と共に、鋭い風が走る。

靄が裂け、揺れた枝の向こうに潜む影が露わになる。

前衛の冒険者たちがそこへ突っ込み、確実に数を減らしていく。


負傷者が出れば、レッターが小走りで駆けた。


「動かないでください、すぐ治します……!」


震える声なのに、その手は一切迷わない。

裂けた皮膚を塞ぎ、痺れを抜き、混乱しかけた冒険者の呼吸を的確に落ち着かせていく。


「す、すげえな……坊主」


「もう少しだけ、我慢してください……!」


小さな背中が、必死に大人たちの命を繋いでいた。


「悪くない」


店主が短く言う。


レッターはびくりと肩を揺らし、それでも嬉しそうに、少しだけ胸を張った。


隊列は進む。

靄は、じわじわと濃くなっていく。

なのに、まだ陣形は壊れない。


このまま行ける。


誰かが、そう安堵しかけた時だった。


不意に、レッターの足がぴたりと止まった。


「……え」


その声は、あまりにも幼かった。


店主が振り返る。


レッターの視線の先。


木々の隙間、うねる白い靄の向こうに、二つの人影が立っていた。


柔らかく微笑む女。

その隣で、穏やかな顔をした男。


血まみれでもない。

崩れた死体でもない。

もう二度と戻らないはずの、あの日のままの姿でもない。


ただ、記憶の中の優しい両親の顔をして、そこに立っていた。


「レッター」


店主が呼ぶ。

低く、短く。


だが、もう遅かった。


「……お父さま……? お母さま……?」


レッターの手から、回復杖が、かたん、と乾いた音を立てて落ちた。


「待て」


次の瞬間、レッターは靄の中へ向かって走っていた。


「あの馬鹿!」


店主が舌打ちと同時に地を蹴る。


「メテス、隊を守れ。リヒャルト、指揮を継続しろ。ルゥ、クリム、来い!」


「……!」


「店主!」


リヒャルトの鋭い声が飛ぶ。

だが、もう止まらない。


白い靄の奥へ、レッターの細い背中が吸い込まれるように消える。


後を追う店主の視界の端で、森の景色がぐにゃりと不気味に歪んだ。


幻惑の森が、ようやくその本性を現し始めていた。



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