徹夜の殺意と、幸運の代償。
カラン……。
朝日が昇りはじめる早朝のアトリエ・くぼ地。
いつもなら、あと数刻もすれば出立前の冒険者たちが「いつもの滋養強壮を!」と慌ただしく駆け込んでくる時間だ。
だが今朝の店内は、戦場よりも濃い殺気に満ちていた。
「……遅いですね」
完璧に整えられた服のまま、リヒャルトが冷たく微笑む。
その手には、普段は決して店先で抜かない魔術杖が、ぎりりと握り込まれていた。
その後ろでは、メテスが大型盾と片手剣を構え、いつでも前線へ飛び出せる完全武装で仁王立ちしている。
レッターは回復杖を抱きしめたまま、今にも泣き出しそうに肩を震わせていた。
昨夜。
裏社会の頂点に立つ女が、店主の耳元で甘く囁いたのだ。
――今夜は、寝かせないわ。
その言葉を、子どもたちは深刻極まりない方向へ受け取ってしまっていた。
「メテス。突入の準備は」
「……いつでもいける。扉ごと吹き飛ばす」
「ええ。私たちの店主を穢した罪、万死に値します」
リヒャルトの瞳に、真っ黒な光が宿る。
その時だった。
カラン。
重い扉が開き、ゆっくりと人影が滑り込んできた。
「……店主!」
三人が一斉に息を呑む。
そこに立っていたのは、足取りも重く、目の下にひどい隈を作った店主だった。
だが、その身から漂ってきたのは、血の匂いでも拷問の痕跡でもない。
ひどく甘い高級な香水と、強い酒の残り香。
それから――なぜか、大量の獣の抜け毛だった。
「……お帰りなさいませ、店主」
リヒャルトが、ひやりとした声で出迎える。
「ええと……随分と、その……激しい夜だったのですね」
店主は、うつろな目でリヒャルトを見た。
「あいつの部下がポカしたせいで、朝まで延々と愚痴を聞かされた」
一拍。
「あと、ペットのブラッシングさせられた」
「……はい?」
リヒャルトの営業スマイルが、ぴしりと固まる。
「もう限界だ。俺は寝る。……店番は任せた」
店主はそれだけ言うと、よろよろと奥の私室へ向かい、ベッドへ倒れ込むようにして、そのまま寝息を立て始めた。
「…………」
「…………」
完全武装のメテスと、魔術杖を構えたリヒャルトの間に、なんとも言えない空虚な風が吹き抜けた。
「きゅ……(空回り……!)」
クリムが気の毒そうに鳴く。
ルゥは「わふ(……寝てろ)」と呆れたように伏せた。
「……よ、よかったです……店主、ご無事で……!」
レッターだけが、へなへなとその場に座り込んで安堵の涙をこぼす。
「……ええ。本当に」
リヒャルトは静かに魔術杖を仕舞い、いつもの定位置――カウンターの内側へ向かった。
完璧な笑顔。
けれど、徹夜の疲労と、派手に空回りしたという静かな怒りが、その背中にどす黒い気配となって渦巻いていた。
そこへ。
カラン……。
「た、頼む! あんたの店なら、なんとかしてくれるって聞いたんだ!」
血走った目をした、身なりの貧しい男が転がり込んできた。
手には、なけなしの金貨を汗ばんだ指で握りしめている。
「俺はこれから、裏通りの賭博場に行く! 絶対に負けられないんだ! ……飲めば“運が良くなる”ポーション、ないか!?」
一攫千金を夢見る、追い詰められたギャンブラーだった。
メテスが、露骨に顔をしかめる。
レッターが困ったようにリヒャルトを見る。
「そんな都合のいいお薬なんて……」
だが、リヒャルトはカウンターに両手をつき、極上の――そして、ひどく冷たい笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。……運が良くなるポーション、ですね?」
「あ、ああ! あるのか!?」
「ええ。アトリエへようこそ。お客様のご要望にお応えするのが、私たちの務めですから」
リヒャルトは、カウンターの下から小瓶をひとつ取り出した。
コト。
中には、金箔みたいにきらきらと輝く、美しい液体が入っている。
店主のように三本並べるつもりなど、端からない。
今のリヒャルトは、機嫌が最悪だった。
「特製、『黄金の直感シロップ』です」
男の目が、飢えた獣みたいに光る。
「飲めば、脳の処理速度が極限まで跳ね上がり、周囲のあらゆる情報が“勝ち筋”として見えるようになります。ディーラーの指の動き、カードの癖、相手の呼吸、卓の流れ。……すべてが直感として手に取るようにわかる」
「そ、それで勝てるのか……!?」
「ええ」
リヒャルトは、あまりにも親切そうに微笑んだ。
「ただし、効果時間は十分きっかりです」
男の喉が、ごくりと鳴る。
「十分……」
「強力すぎる薬ですので。人の器が耐えられるのは、その程度が限界です。ですから、飲むなら“ここぞ”という勝負の直前に」
小瓶を引ったくろうとした男の手を、リヒャルトは優雅な所作ですっと避けた。
「使いどころを見誤らなければ、勝てますよ」
その自信に満ちた声に、男は完全に呑まれた。
震える手で金貨をカウンターに叩きつける。
「わ、わかった! 勝負の直前に飲む! ありがとな、兄ちゃん!」
男は小瓶を握りしめ、嵐みたいに店を飛び出していった。
「これで勝てる……これで取り返せる……!」
血走った声だけが、遠ざかっていく。
静けさの戻った店内で、レッターが恐る恐る口を開いた。
「あ、あの……リヒャルトさん。あんなすごいお薬、本当にあったんですか……?」
リヒャルトは、金貨を優雅な手つきで金庫へしまい込む。
ふふっ、と、底冷えのする笑みが漏れた。
「ええ。もちろん、詐欺ではありません」
「じゃ、じゃあ本当に……?」
「本物ですよ」
帳簿を開き、さらさらと羽ペンを走らせる。
「ただし、あの薬は“運を増やす”わけではありません」
メテスが低く唸る。
「……何をした」
「簡単なことです」
リヒャルトは、紙の上から目を上げた。
「彼が本来の人生で、この先十年かけて得るはずだった細々とした幸運を、無理やり十分に凝縮して前借りさせるだけの代物です」
レッターの顔から、さぁっと血の気が引いた。
「ま、前借り……?」
「ええ」
リヒャルトの笑みは、どこまでも美しい。
「ですから、その十分のあいだは本当に神がかったように勝ち続けるでしょう。勘は冴え、手札は揃い、相手は勝手に崩れる。……とても気持ちがいいはずです」
「……その後は」
メテスの声は低かった。
リヒャルトは帳簿を閉じた。
「空になります」
一拍。
「十年分の幸運を先に使ったんです。効果が切れた瞬間から先は、驚くほど何も掴めない。帰り道でスリに遭うか、妙な事故に巻き込まれるか……命が無事なら御の字でしょうね」
「お、鬼……!」
レッターが青ざめる。
「それじゃ、あの人……!」
「来ますよ」
リヒャルトの声は静かだった。
静かなのに、そこには底知れない確信があった。
「圧倒的な不運の底に落ちた人間は、“あの十分の万能感”を忘れられない。不運から逃れるために。もう一度だけでも勝てる気分を味わうために。……彼は這いつくばってでも、またこの店に戻ってくるでしょう」
帳簿の売上欄に、『金貨一枚』と整った字が刻まれる。
リヒャルトは羽ペンを静かに置いた。
メテスが、こめかみを押さえて深いため息を吐く。
「……お前、腹いせも混ざってないか」
「人聞きの悪い」
リヒャルトは、完璧な笑顔を崩さなかった。
「私はただ、お客様の“本物の運が欲しい”という願いに、最大効率でお応えしただけです」
「きゅ……!(本物の悪魔!!)」
「わふ(……店主にチクろう)」
クリムとルゥが、そろって少しだけリヒャルトから距離を取る。
リヒャルトは何事もなかったように帳簿を閉じた。
「……さて、レッター。朝食の準備をお願いします。店主が起きてきたら、温かいスープを出せるように」
「は、はい……!」
朝の光が差し込むアトリエ・くぼ地。
奥の私室では、昨夜一睡もできなかった店主が、ようやく深い眠りに落ちている。
そのすぐ手前の店先では、店主の目を盗んだ番頭が、迷える客の十年後を静かに売り払っていた。




