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錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


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242/286

育児戦線と、合法的な背徳のドロップ

カラン……。


昼下がり。

アトリエ・くぼ地の扉が、そっと、だが妙に執念深い滑らかさで開いた。


入ってきたのは、髪を振り乱し、目の下に濃い隈を刻んだ三十代半ばほどの女性だった。

服には謎の白い染み。たぶん吐き戻されたミルク。

肩には乾いたご飯粒。

そして胸元には、抱っこ紐に包まれてすうすうと眠る、小さな赤子。


ただならぬ“限界”の気配に、メテスが音もなく剣の柄に手をかけ、レッターがひっと息を呑んだ。


その瞬間。


女性は抱っこ紐の赤子を庇うように、ばっ、と両腕を広げた。

そして血走った目のまま、人差し指を口元へすっと当てる。


「……シッ!! 静かに!!」


空気が張りつめるような、ド迫力のひそひそ声だった。


「やっと……やっと背中スイッチとの死闘を越えて、三時間ぶりに寝たの! だから絶対、音を立てないで……!」


メテスが静かに剣から手を離す。

クリムとルゥがぺたんと伏せた。

リヒャルトだけが、引き攣りそうになる営業スマイルを完璧に保ち、声帯を震わせない見事な囁き声で応じた。


「……いらっしゃいませ。どのようなご用件で……?」


女性はふらふらとカウンターに近づく。

そして店主を真っ直ぐ見て、呪詛みたいに囁いた。


「育児の合間に……グイッといっぱつキメられるポーションが、欲しい……!」


アトリエの空気が、ずこっと音を立てて崩れた。


薬草を刻んでいた店主は、深い深呼吸をひとつしてから、呆れ顔で女を見た。


「……どうキメたいんだ」


「もうね!!」


女性がばん、とカウンターを叩きかけて、はっとして寸前で止める。


代わりに、その手のひらがカウンターを ぺす、と情けなく撫でた。


「お酒は飲めない!

 まとまった睡眠も取れない!

 常に“お母さん”でいなきゃいけない!

 離乳食は床に叩きつけられる!

 せっかく作ったお粥は三口で拒否!

 昼寝したと思ったら十分で起きる!

 だからせめて、この子が寝てる五分だけでいいから、

頭の芯までカーッと抜けるようなやつ!

 合法で! 安全で! お願い!!」


悲痛極まりない、完全なる無音の叫びだった。


レッターが「お、おいたわしい……」と声を出さずに涙ぐむ。


「……わかった、落ち着け。うるせえ」


店主は鼻を鳴らした。


カウンターの下から、音を立てないようにコト、コト、と二つの小瓶を並べる。

そして、最後にみっつめをどんと置いた。


「お前がどうしても“いっぱつキメたい”ってんなら、選べ」


ひとつめ。


白く濁った、まろやかな光を含んだ液体。


「心理遮断。『菩薩の微笑み液』だ。これを飲めば、子どもが泣こうが、壁にクレヨンで絵を描こうが、皿をひっくり返そうが、全部“あらあら元気ねえ”で流せる」


女性の目がわずかに輝く。


「おお……!」


「だが副作用として、表情筋が丸一日ゆるみ切って、顔がずっと仏像みてえになる」


女性の顔が引き攣った。


「……夫が帰ってきた時、私が無表情の菩薩で子ども抱いてたら、たぶん神殿か詰め所を呼ばれますね。却下で」


ふたつめ。


青く淡く発光する、ひどく涼しげな液体。


「時間干渉。『妖精のタイムセール』。飲めば三十分だけ、お前の体感時間が十倍になる。子どもが寝てる五分が、五十分に感じられる」


「えっ、最高じゃないですか」


「だろうな」


店主の声は平坦だった。


「ただし、お前の体感が早すぎるせいで、周りは全部スローモーションになる。湯が沸くまでが永遠だ。茶が落ちるまで二十分待たされる。休憩中ずっと“まだかよ”ってなる」


女性は即座に首を振った。


「休まらない。却下です」


がっくりと項垂れる。


「やっぱり、育児中にスッキリしようなんて、無理な相談なんですね……」


「だから、まともなみっつめを用意してやってんだろ」


店主は最後の小瓶を、女の前へ少し押し出した。


真紅。

ラベルには、見るからに不吉な黒い印。

どう見ても危険物だった。


「現実補助。『偽装の竜殺し』だ」


「な、なんですかその物騒な名前……」


レッターが「致死毒では!?」と青ざめた顔で口パクする。

店主は鼻で笑った。


「味と喉越しは、アルコール度数九十六パーセントの極悪蒸留酒を完全再現してある。飲んだ瞬間、喉から胃袋まで焼けるような刺激が走って、脳天をカァッと突き抜ける」


女性の喉が、ごくりと鳴る。


「で、でも……授乳中だから、酒は……」


「成分は百パーセント、滋養強壮と疲労回復の薬草エキスだ」


店主が真紅の瓶を指先で弾く。

中の液体が、どろりと妖しく揺れた。


「アルコールは一滴も入ってねえ。肝臓にも胃にも、むしろ優しい。だが喉と脳だけは、“真昼間からとんでもねえ酒を一気飲みした”っていう極上の背徳感を味わえる」


女性の目が、かっと見開かれる。


彼女が喉から手が出るほど欲しかった、“合法的な背徳”だった。


「……酒が飲めない、休めない。そんな真面目なお母さんのための、安全で完璧なガス抜きだ」


店主が低く囁く。


「キメるか?」


「……買います」


女性は銀貨を音もなく、す……っと置いた。

そして真紅の小瓶をひったくる。


抱っこ紐の赤子を絶妙な角度で守りながら、片手でコルクを抜き、天を仰いで一気に呷った。


「……ッ!!」


女の身体がびくんと跳ねた。


喉を焼き尽くすような、強烈な刺激。

全身の細胞へ一気に染みわたる、本物の滋養。

それが同時に脳へ突き抜ける。


「……ッ、~~~~!!」


酒場の親父も顔負けの咆哮を、彼女は完全な無音で上げた。

口から、ぷはーっと架空の酒気を吐き出す。

乱れていた髪を、ワイルドにかき上げる。


目の下の隈がすっと薄れた。

頬に血色が戻る。

肌がつやりと明るくなる。


「(キ、キマるぅぅぅ……!!)」


歓喜の口パク。

激しいジェスチャー。

なのに赤子は起きない。


リヒャルトが腹を抱えて笑いそうになるのを必死にこらえながら、音もなく一礼した。


「お気に召したようで何よりです」


女性は感極まったように店主を見つめる。

そして、はっと何かを思い出した顔をした。


抱っこ紐の赤子をちらり。

それから、遠い戦場を見据える兵士の顔。


「……店主」


「なんだ」


「夫用にも何かポーションが欲しい」


店内が一瞬、静まる。


「夜中、隣で普通に寝息立ててる時あるんです」


女性の目が、さっきとは別の意味で据わっていた。


「こっちは一時間ごとに起きてるのに。ミルクのあとゲップが出るまで抱いて、やっと寝かせて、布団に置いた瞬間に起きて、また抱いて。そういう“細切れの地獄”を、あの人は想像でしか知らないんです」


レッターがそっと居住まいを正す。

メテスは無言で腕を組んだ。


「夫に育児を手伝わせたくなるポーション、ねえか」


店主は、女を見た。

女も店主を見返す。


数秒。


店主が鼻で笑った。


「……ある」


カウンターの下から、今度は小さな琥珀色の瓶をひとつ、ことりと置いた。


「おまけだ。『夜明けの肩代わり』」


「肩代わり……?」


「飲ませると一晩だけ、相手の想像力が妙に働く。寝かしつけの腰の痛みも、夜泣きで途切れる眠りのしんどさも、朝まで積み上がる細かい疲労も、“わかったつもり”じゃなく“うわ、しんど……”くらいの実感で入る」


女性の目がさらに見開く。


「ただし、洗脳じゃねえ。人間性がクズなら、“大変なんだな”で終わる。まともな神経が残ってるなら、次の夜から勝手に起きるようになる」


店主は瓶を指で押した。


「要は、“当事者意識の取っ掛かり”だ」


女性の顔に、じわじわと、ものすごくいい笑みが広がっていく。


「……ください」


「言うと思った」


「いくらですか」


「そっちは銀貨一枚だ」


「安い」


「初回お試し価格だ。二回目からは上げる」


リヒャルトが、ひどく優雅な笑みのまま補足する。


「なお、服用後に“俺もやるよ”と言った場合、効果は大成功です。言わずに寝直した場合は、次回もう少し濃く調整いたします」


「頼もしい……」


女性は真紅の『偽装の竜殺し』と、琥珀色の『夜明けの肩代わり』をしっかり抱え込んだ。


「(ありがとう店主! これで夕方のぐずりも、ワンオペお風呂も、夜泣きの第二ラウンドも戦える!!)」


歓喜の口パク。

それから、ふっと真顔になる。


「……あと夫にも一回、夜中の二時から五時を経験させます」


「そうしろ」


店主は即答した。


女性はすっかり出来上がった酔っ払いみたいな足取りで、しかし驚異的に静かなすり足の速さで店を出ていった。

戦場で眠る我が子のもとへ帰るために。


カラン……。


そっと扉が閉まり、アトリエにようやく普通の静寂が戻る。


しばらくして。


レッターが、ほうっと息を吐いた。


「……店主。あの方、ものすごく良い無音の笑顔でしたね」


「……酒飲みのおっさんと同じ顔だった」


メテスが呆れたように言う。


店主は、ふっと笑い、薬草を刻み直した。


「育児ってのは、時に魔獣討伐よりタフな隠密任務だからな」


ゴリ、と刃がまな板を打つ。


「たまにはああやって、安全にガス抜きしねえと、毎日は回らないもんだ」


リヒャルトが、真紅と琥珀の在庫棚へ目をやる。

そこには、限界寸前の大人たちのために調合された小瓶が、整然と並んでいた。


「……夫妻セットでのご案内を、本格化した方がよさそうですね」


「需要はあるだろうな」


店主が鼻を鳴らす。


クリムが、「きゅ(がんばれ)」と小さく鳴いた。


ルゥは静かに尻尾を揺らし、

「わふ(……まずは、眠れる時に眠れ)」と低く鳴いた。




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