二重人格になりたいんですよね
もう一人の自分と、引き受ける名前
カラン……。
夕暮れのアトリエ・くぼ地に、ひどくくたびれた男が入ってきた。
年の頃は三十前後。
仕立てのいい外套は皺だらけで、襟元は乱れ、靴には乾いた泥が薄くこびりついている。
「ちゃんとしていたい人間」が、ちゃんとしていられなくなった時の崩れ方だった。
「……いらっしゃいませ」
リヒャルトが柔らかく声をかける。
男は返事もせず、カウンターの前まで来ると、その場に崩れ落ちるみたいに丸椅子へ腰を下ろした。
レッターがそっと、湯気の立つ特製茶を差し出す。
男は礼も言わずに受け取り、両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
やがて。
「……二重人格になりたいんですよね」
ぽつりと落ちたその言葉に、店内の空気がわずかに止まった。
クリムが、きゅ、と短く鳴く。
ルゥは伏せていた頭を上げ、男をじっと見た。
店主が鼻で笑う。
「二重人格になりたい、か」
乾いた声だった。
「これもまた、見事なまでの“究極の現実逃避”だな」
男は茶を握る手に力を込めた。
「笑わないでくださいよ。こっちは本気なんです」
「笑ってねえよ。呆れてるだけだ」
店主は薬草を刻む手を止めもしない。
「で。お前はどうしたい?」
男はしばらく唇を結んでいたが、やがて、押し殺していたものが決壊したみたいに喋り出した。
「嫌な仕事があるんです。失敗したら終わるような交渉とか、面倒な相手への謝罪とか、部下の尻拭いとか。毎日毎日、胃が焼けるようなことばっかりで」
一度、喉が詰まる。
「でも、投げられない。逃げたら終わる。笑わなきゃいけない。頭を下げなきゃいけない。ちゃんとしなきゃいけない。……もう嫌なんですよ」
リヒャルトの睫毛が、わずかに伏せられる。
男は俯いたまま、笑った。
笑っているのに、声はひどく乾いていた。
「だから、もう一人いればいいなって。嫌なこと全部そいつに押し付けて、俺は意識の奥で寝てられたら楽だろうなって」
レッターが、痛ましそうに眉を寄せる。
「……それは」
「甘えだってのはわかってますよ!」
男が顔を上げた。
赤くなった目が、ひどく疲れている。
「でも、もう自分ひとりじゃ持たないんです。だから、そういう薬、ないですか? 仕事をする自分と、休む自分を分けられるようなやつ」
沈黙。
店主は、そこでようやく手を止めた。
ため息を一つ吐き、カウンターの下からコト、コト、と二つの小瓶を並べる。
「お前がどうしても身体の操縦権を手放したいってんなら、選べ」
ひとつめ。
黒に近い紫色の液体。
瓶の底で、鈍い泡がゆっくり膨れては消えている。
「物理排除。『名前捨ての毒』だ」
男の喉が、ごくりと鳴る。
「飲めば、お前は自分の嫌な記憶や役割を一時的に切り離せる。謝罪したことも、怒鳴られたことも、胃が痛んだことも、全部“知らない誰かがやったこと”みたいに薄れる」
男の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「……それ、いいじゃないですか」
「だろうな」
店主の声は冷たい。
「ただし、その“誰か”が引き受けた失敗も、人間関係の綻びも、後で全部お前の足元に積み上がる。記憶のないまま、理由もわからず嫌われ、信用を失い、足場だけが崩れていく」
店主は瓶を指先で弾いた。
鈍い泡が、どろりと浮いた。
「自分の人生を、自分で回収できなくなる薬だ」
男の指先が、ぴくりと縮む。
ふたつめ。
白く濁った、小さな光を抱えた液体。
「心理遮断。『痛覚預けの眠り水』」
レッターが息を呑む。
リヒャルトは何も言わず、男の顔を見ていた。
「飲めば、しばらくの間だけ感情が鈍る。怒鳴られても刺さらない。失敗しても沈まない。怖い相手の前でも、顔色ひとつ変えずに立てる」
男は息を浅くした。
「……それも、欲しいですね」
「だろうよ」
店主が鼻で笑う。
「だが、痛みが鈍るってことは、喜びも鈍るってことだ。旨い飯も、安心する布団も、助かったっていう実感も、全部薄くなる。傷つかない代わりに、生きてる手応えまで失う」
白い濁りが、瓶の中で静かに揺れる。
「ずっと続けりゃ、お前は“壊れない”代わりに“何も感じない”人形になる」
男は言葉を失い、二つの瓶からゆっくりと目を逸らした。
「……だから、まともな『みっつめ』を用意してやったんだ」
店主は、無言のままカウンターの下から、深い琥珀色の液体が入った小瓶をどんと置いた。
光を受けるたび、底で小さく火が揺れるみたいに見える。
「みっつめ。本音補助。『引き受ける名札』だ」
「……名札?」
「飲めば、お前は“もう一人の自分”を作る代わりに、“今の自分が何を引き受けているのか”をはっきり言葉にできるようになる」
店主はその瓶を、男の前へ少しだけ押し出した。
「嫌な仕事は嫌だ。怖い相手は怖い。失敗は苦しい。もう限界だ。助けてくれ。休ませてくれ」
一つずつ、低く置いていく。
「そういう当たり前のことを、“ちゃんとお前の名前で”言えるようになる薬だ」
男の眉が寄る。
「……そんなの、薬ですか?」
「人生はポーションじゃ変わらない」
店主の声は平坦だった。
だが、突き放してはいなかった。
「これは、逃げるための薬じゃねえ。ハンドルを他人に渡す代わりに、“今どこで無理してるか”を自分で掴むための補助だ」
男は黙って琥珀の瓶を見た。
店主は真っ直ぐに男を見据えて続ける。
「二重人格になりたい、ってのはな。要するに“今の自分ひとりでは抱えきれません”って悲鳴だ」
アトリエが、しんと静まり返る。
「だったら必要なのは、もう一人の自分じゃない。荷物を分ける先だ。仕事を減らす相談。期限の延長。謝罪の同行。休みの確保。……誰かに“持てません”って言うことだ」
男の目元が、ぐしゃりと歪んだ。
「……そんなの、簡単に言えたら苦労しないんですよ」
「知ってる」
店主は即答した。
「だから、言えるようにする補助を出してやってる」
メテスが奥で腕を組んだまま、低く言う。
「……一人で持てる量を超えた荷物は、筋力じゃなく判断の問題だ。落とせ」
その短い一言が、限界を迎えていた男の背中に、妙に重く、確かな支えとして響いた。
リヒャルトが、静かに続ける。
「“助けてください”は、敗北宣言ではありません。破綻を先延ばしにしないための、極めて有能な判断です」
男は、カップを持つ手を震わせた。
茶はもうぬるくなっていた。
それでも彼は、それを一口飲んだ。
「……俺、ずっと」
掠れた声が出る。
「ずっと、“ちゃんとしてる自分”を演じてれば、そのうち本当に平気になると思ってたんです」
「ならなかっただろ」
「……なりませんでした」
それは、飾りのない、ようやく出た本当の声だった。
店主は鼻を鳴らす。
「で、お前はどうしたい?」
長い沈黙のあと。
男の手が伸びた。
黒い毒でもなく、白い眠りでもなく。
琥珀色の『引き受ける名札』へ。
「……これをください」
「賢明だな」
店主が言う。
男は、まだ少し震える指で瓶を持ち上げた。
「明日、上に言います。抱えてる案件、全部は回せませんって。無理な分は振ります。……たぶん怒られるけど」
「怒られるだろうな」
店主は平然と返した。
「だが、壊れて消えるよりはマシだ」
男はそこで、ようやく少しだけ笑った。
今度の笑いは、最初の空っぽのものとは違っていた。
「それ、ほんとそうですね……」
リヒャルトが、流れるような所作で小瓶を美しく包む。
「お代は銀貨三枚になります。
なお、効果中は“助けてください”と
“ここまではできますが、それ以上は無理です”が大変言いやすくなります。ご活用ください」
「便利だなあ……」
男は苦く笑いながら銀貨を置く。
「安眠薬はいりません。たぶん、ちゃんと“無理だ”って言えたら、少しは眠れる気がする」
「そういうことだ」
店主が短く言った。
男は小瓶を懐にしまい、立ち上がる。
入ってきた時より背筋はまだ頼りない。
でも、足元は確かに定まっていた。
「……ありがとうございました」
今度は、ちゃんと目を見て礼を言い、男は店を出る。
カラン。
扉が閉まる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
レッターがそっと息を吐く。
「……もう一人の自分じゃなくて、助けを呼ぶ方だったんですね」
「当たり前だ」
店主は乳鉢を引き寄せる。
「嫌なこと全部押し付けるための便利な“誰か”なんて、都合よく生えてきてたまるか」
ゴリ、と薬草を潰す音。
「背負えねえ荷物は、分ける。降ろす。手伝わせる。そうやって前に進むしかねえんだよ」
メテスが小さく頷く。
「……逃げずに分ける方が、ずっと強い」
リヒャルトは微笑んだまま、空になったカップを下げた。
「“壊れないこと”より、“壊れる前に言えること”の方が、よほど大事ですからね」
店内には、特製茶のやわらかな香りが、まだ静かに残っていた。




