昔から待ち合わせ場所をよく間違えてしまう
カラン……。
昼下がりのアトリエ・くぼ地に、軽やかなようで、どこかひどく落ち着かない足音が入ってきた。
「すみませーん。ちょっと相談、いいですか?」
現れたのは、身なりだけはきちんとした、印象の薄い若い男だった。
髪も整えられ、笑えば人当たりも悪くない。
けれど、落ち着きなく何度もポケットの縁をこする指先と、言葉の端に滲む妙な苛立ちが、アトリエの空気をかすかに歪ませた。
「いらっしゃいませ。どうなさいましたか」
リヒャルトが、完璧な営業スマイルで柔らかく微笑む。
男は困ったように笑って、頭を掻いた。
「いやぁ……俺、昔から待ち合わせ場所をよく間違えるんですよ。方向音痴っていうか、うっかりっていうか。彼女と待ち合わせしても、毎回微妙に違う場所に行っちゃって」
「毎回?」
薬草の葉を選り分けていた店主が、そこで初めて顔を上げた。
「そうなんですよ。最初は笑ってくれてたんですけどね。最近は全然会えなくて。連絡もつかないし、前の家に行ったらもう引っ越してるし、職場も辞めてて。……いや、ほんと困ってるんですよ」
レッターの手が、棚の前でぴたりと止まる。
「……その方は、ご無事なのでしょうか」
「たぶん? だって生きてはいるはずですし」
男は悪びれもなく肩をすくめた。
「でも俺、どうにも待ち合わせの運が悪いんですよねえ。もう少しだけ“ちゃんと会える”ようになる薬とか、ないですか?」
店内の空気が、ほんの少しだけ薄くなった。
クリムが店主の肩で、きゅ、と短く警戒の声を鳴らす。
ルゥは眠っていた瞼を開け、男の足元をじっと見据えた。
店主は何も言わず、コト、コト、コト、と三つの小瓶を並べた。
「待ち合わせを間違えずに済むようにしたいんだな」
「そうですそうです! それで彼女にちゃんと会いたいんです」
「で、お前はどうしたい?」
「だから、会いたいんですよ」
男は笑った。
少しだけ、白く乾いた歯が見えた。
店主は鼻を鳴らした。
「……選べ」
ひとつめ。
透明に近い、薄青の液体。
「現実補助。『方位の雫』だ。飲めば半日、頭の中の地図が狂いにくくなる。来た道、曲がった角、目印の位置が、霧の向こうじゃなくなる。待ち合わせ場所を物理的に間違えにくくする薬だ」
男の目が少し明るくなった。
「おお、いいですね。それ欲しいかも」
「ただし」
店主が瓶を指先で弾く。
薄青の液体が、静かに揺れた。
「相手が“そこに来る気がある”場合に限る」
男の笑顔が、ほんの少しだけ止まる。
ふたつめ。
淡い灰色の、小さな粉が沈んだ小瓶。
「心理補助。『足止めの深呼吸』。待ち合わせの時間より前に飲めば、無駄に早く着いてうろついたり、焦れて周囲を探し回ったりする衝動が和らぐ。指定された場所で、指定された時間まで、余計な動きを減らして待てるようになる」
「え、俺そんなにうろうろしてるかな」
「してる顔だ」
店主の声は平坦だった。
「待つのが下手な奴は、相手を探してるつもりで、相手の逃げ道まで塞ぐ」
男の指先が、カウンターの縁をとん、と叩いた。
「……別に、そんなつもりじゃないですよ」
「だろうな」
店主は淡々と返す。
「大抵の厄介事は、最初は“そんなつもりじゃなかった”で始まる」
男は愛想笑いを浮かべたまま、何も言わなかった。
みっつめ。
黒にも見える、深い群青の液体。
揺らすたび、底の方で鈍い銀がちらつく。
「本音補助。『引き潮の水鏡』だ」
リヒャルトの睫毛が、わずかに揺れる。
レッターは小さく息を呑んだ。
男が首を傾げる。
「なんです、それ」
「会いに行く前に飲め」
店主は男を見た。
「お前が追ってるのが“待ち合わせを間違えた恋人”なのか、“逃げてる相手”なのか、自分の目で見えるようになる」
男の口元の笑みが、じわりと薄くなる。
「……どういう意味です?」
「そのままだ」
店主の声は低い。
だが、刃のように鋭く男の足元を抉る。
「相手が遅れたんじゃなく、お前を見て引き返した。
約束を忘れたんじゃなく、お前の来る場所を捨てた。
連絡がつかないんじゃなく、切った。
引っ越したんじゃなく、逃げた。
職場を変えたんじゃなく、見つからないようにした」
一つ一つ、静かに、事実を置いていく。
男の顔から笑みが完全に落ちた。
「……ずいぶんな言い方ですね」
「人生はポーションじゃ変わらない」
店主が瓶をとん、と置く。
「だから、薬で見えるのは“元からそこにあったもん”だけだ」
沈黙。
男は三本の小瓶を順に見た。
薄青。灰色。群青。
やがて、薄青の『方位の雫』を指先で引き寄せる。
「じゃあ、これで」
目は笑っていなかった。
「待ち合わせ場所を間違えなければ、ちゃんと会えるんですよね?」
「物理的にはな」
店主はそれ以上を言わなかった。
男は少し考えてから、灰色の『足止めの深呼吸』にも手を伸ばした。
「これも。待つの、苦手なんで」
「賢明ですね」
リヒャルトがにこやかに上質な紙袋を用意する。
だが、その指先の動きは普段より少しだけ静かで、無駄がなかった。
男は最後に群青の『引き潮の水鏡』を見た。
しばらく見つめたあと、鼻で笑う。
「これはいらないかな。そこまで大げさじゃないし」
「そうか」
店主は瓶を引き寄せた。
「お代は銀貨四枚になります」
「はいはい」
男は軽い調子で銀貨を置き、包みを受け取る。
「これで会えたら、また報告に来ますよ。いやあ、ほんと困ってたんで助かりました」
そう言って笑い、振り返りもせず店を出ていった。
カラン。
扉が閉まる。
その音が消えたあとも、アトリエの誰も、すぐには口を開かなかった。
レッターが最初に、ひどく掠れた声で言う。
「……あの人」
リヒャルトが、紙袋を出したままの手をゆっくりと下ろす。
「ええ」
メテスは扉の方を見たまま、低く呟いた。
「……待ち合わせを間違えている顔ではなかった」
店主は黙って、残った群青の小瓶を見ていた。
底で、鈍い銀がゆっくりと沈んでいく。
「店主様……」
レッターの声が震える。
「彼女さん、もしかして……」
「察したところで、こっちには証拠がねえ」
店主は群青の瓶を棚へ戻した。
「だが」
そのまま振り返らずに言う。
「……念の為に、詰め所に一報を入れておけ」
空気がさらに一段、冷えた。
「はい」
リヒャルトの返事は、普段の優雅さの欠片もない、冷徹な響きだった。
「特徴、まとめる」
メテスがもう動いている。
机の上の紙を引き寄せ、男の背格好、顔の造作、ポケットをこする癖、声のトーンを、寸分の狂いもなく書き起こしていく。
レッターは青ざめた顔のまま、ぎゅっと自分の手を握った。
クリムが低く、きゅう、と喉を鳴らす。
ルゥは扉の前まで歩いて行き、しばらく外の気配を嗅いでいたが、やがて不快そうに鼻を鳴らして戻ってきた。
店主は乳鉢を引き寄せる。
薬草を潰す音が、いつもより少しだけ重く、硬くアトリエに響いた。
「……来る場所を間違える奴と、来ちゃいけない場所に何度も来る奴は違う」
誰に聞かせるでもなく、低く落ちた声。
「間違いなら、直せる。だが、相手の“嫌だ”を見ようとしねえ奴は、方角の問題じゃねえ」
ゴリ、と石が擦れる音が鳴った。




