おかしい! アイツは良くて俺はダメなんて!
カラン……。
苛立ちに任せて乱暴に開かれた扉のベルが、アトリエ・くぼ地に響いた。
入ってきたのは、上質な生地の学園制服をだらしなく着崩した男子生徒だった。
緩んだネクタイ。しまい切れていないシャツの裾。
見るからに、今この瞬間も「どうでもいい」と投げている格好だ。
「……理不尽だ」
男子生徒はカウンターの丸椅子にどさりと腰を下ろし、吐き捨てるように呟いた。
「いらっしゃいませ。ひどくお疲れのようですね」
レッターが小走りで、精神を落ち着かせる特製の茶葉が入った缶を厨房から運んでくる。
それを受け取ったリヒャルトが、流れるような所作で琥珀色の茶をカップに注いだ。
「……それが普通だ」
薬草の束を麻紐で縛っていた店主が、顔も上げずに淡々と応じる。
「おかしい! アイツは良くて俺はダメなんて!」
男子生徒が、出された特製茶を一口飲み、少しだけほっとした顔をしてからカウンターをどんと叩いた。
「授業中に少し居眠りしたのも、制服がだらしないのも同じだ! なのに教師は、アイツには『またお前か』って笑って許すくせに、俺には『お前はいつもだらしない!』って大説教だ! 不公平だろ!」
「……なるほど。それは若き心には耐え難い、見事なまでの『贔屓』ですね」
リヒャルトが、綺麗な眉を下げた。
「……お前、その『アイツ』とやらは、普段から教師の手伝いをしたり、誰にでも愛想良く挨拶したりしてねえか?」
店主が手を止め、男子生徒を見た。
「うっ……まぁ、アイツは愛想だけは無駄にいいけど……」
店主はカウンターに身を乗り出した。
「アイツは普段の行いで『信用』という貯金を貯め込んでる。だから少しの失敗は、そこから引かれるだけだ」
一拍。
「対してお前は、普段から無愛想で貯金がゼロなんだろ」
男子生徒の肩がぴくりと揺れる。
「その状態でルールを破れば、一発でマイナスだ。教師が取り立てにくるのは当たり前だ」
図星を突かれたのか、男子生徒はぐうの音も出ず、悔しそうに俯いた。
店主はため息をつき、
コト、コト、コト、と三つの小瓶を並べた。
「お前がその『理不尽』をひっくり返したいんじゃなく、今日から少しでもマシに生きたいってんなら、選べ」
ひとつめ。
薄い水色をした、澄んだ液体。
「現実補助。『姿勢と眠気の矯正薬』だ」
店主が瓶を指先で軽く押す。
水色の液面が、静かに揺れた。
「肩の落ち方、視線の泳ぎ、だらしない座り方。……そういう『注意されやすい隙』を、半日だけ身体から消す」
男子生徒が顔を上げる。
「……そんなことまで見られてるのかよ」
「見られてるに決まってるだろ」
店主は鼻を鳴らした。
「背筋が伸びる。眠気も散る。居眠りも減る」
そこで小瓶をとん、と置く。
「……中身は変わらねえが、余計な失点を減らすには役立つ」
男子生徒は水色の瓶をじっと見つめた。
喉が、ごくりと鳴る。
ふたつめ。
淡い琥珀色の、小さな気泡が浮く液体。
「心理補助。『つっけんどんの角を丸める薬』だ」
店主は琥珀色の瓶を持ち上げ、光に透かした。
「教師に話しかけられた時、反射で不貞腐れた顔や声になるんだろ。これは、その最初の棘を少しだけ鈍らせる」
男子生徒の眉がぴくりと動く。
「……媚びろってことかよ」
「違う」
店主の声は平坦だった。
「損する癖を減らせって話だ」
瓶の中で、小さな気泡がゆっくりと浮かび上がる。
「愛想笑いまではできなくても、返事と挨拶の一歩目が出やすくなる。無愛想が格好いいのは、貯金がある奴だけだ」
店主は男子生徒をまっすぐ見た。
「お前みたいに最初から印象が赤字の奴は、まず取り立てを止めろ」
男子生徒は悔しそうに唇を噛んだ。
だが、否定はしなかった。
みっつめ。
澄み切った水面みたいに静かな、透明の小瓶。
「本音補助。『水鏡の海綿薬』だ」
「みずかがみ……?」
「いいか。錬金術のポーションってのは、服を勝手に整えたり、他人の評価を捻じ曲げたりするような、ちゃちな手品じゃねえ」
店主が透明の瓶を指先で弾く。
中の液体が、とろりと揺れる。
「これはお前自身の機能を極限まで引き上げる薬だ」
アトリエが、しんと静まる。
「これを飲めば、お前の無駄なプライドが少しだけ薄まり、観察眼が研ぎ澄まされる。相手の『良いところ』を、水面に映った像を写し取るみたいに拾いやすくなる」
男子生徒が、ごくりと唾を飲み込む。
店主はまっすぐ、男子生徒の目を見た。
「アイツを徹底的に見ろ。なぜ許されるのか。どうやって人の懐に入るのか。まずは真似できるところだけ真似て、お前の空っぽの口座に信用を叩き込め」
一拍。
「だがな。ポーションの効果は切れる。切れたあとに残るのは、お前が自分の目で見て、自分の身体で覚えた分だけだ」
静かな声が、まっすぐ落ちる。
「薬に人生逆転なんてできねえ」
そこで店主は、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「だが、今日の観察を少しだけ楽にはしてやれる。……一生、誰かの安っぽいコピーで終わる気はないだろ」
しばらく黙っていた男子生徒が、やがて顔を上げた。
「……わかった」
その声は、さっきより低く、まっすぐだった。
「やってやる。アイツの愛想の良さも、要領の良さも、盗めるだけ盗んで、自分の武器にしてやるよ」
男子生徒はまず、ひとつめを手に取った。
「授業中に寝るのは、もう損だ」
次に、ふたつめ。
「教師に噛みつくのも、まあ……たしかに損だ」
最後に、みっつめの水鏡の瓶を、迷わず握る。
「で、最後にこれ。……観察して盗む」
「賢明だな」
店主が鼻を鳴らす。
男子生徒は勢いよく、みっつめの小瓶の蓋を開け、中の液体をぐいっと飲み干した。
ゴクリ、と喉が鳴る。
数秒の沈黙。
「……さて、どうです? 観察の対象は決まりましたか?」
リヒャルトが、にこやかに微笑みかけた、その時だった。
男子生徒の視線が、目の前に立つリヒャルトの『完璧な笑顔』と『一切の無駄がない優雅な所作』にぴたりと縫い留められる。
海綿薬によって高められた観察眼が、超高速で標的の情報を吸い上げていく。
「……あ」
男子生徒はすっと立ち上がると、流れるような美しい手つきで、はみ出していたシャツの裾をしまい込み、緩んでいたネクタイをミリ単位の狂いもなく締め直した。
そして、片手を胸に当て、リヒャルトと寸分違わぬ完璧な角度で首を傾げた。
「……素晴らしい教えに心より感謝いたします、店主。リヒャルト様、こちらの海綿薬と、先ほどの鎮静茶の茶葉をひと月分、お包みいただけますでしょうか?」
「ぶっ……!」
店主が思わず吹き出した。
「ええっ!? 口調が、リヒャルトさんみたいに……!」
レッターが目を丸くして驚く。
「……気味が悪い」
メテスが奥から顔を出し、心底嫌そうな顔で呟いた。
「きゅ……(リヒャルトが増えた!)」
「わふ(……姿勢が良すぎる)」
クリムとルゥも呆気にとられている。
当のリヒャルトは、少しも驚くことなく、弟子の成長を喜ぶみたいな極上の笑顔を浮かべた。
「ふふ……素晴らしい吸収力です。お安い御用ですよ、若き紳士殿」
リヒャルトが、流れるように茶葉の缶を引き寄せる。
「お代は合わせて、銀貨六枚になります」
「承知いたしました。……ずいぶんと良い買い物ですね」
男子生徒は一瞬だけ言い回しに迷った。
それでもすぐに持ち直し、優雅な手つきで銀貨を支払う。
それから背筋を真っ直ぐに伸ばし、貴族みたいに美しい足取りで学園へと戻っていった。
カラン。
「……おい、真似る標的を間違えてねえか。学園でそんな貴族みたいな喋り方したら浮くぞ」
店主が腹を抱えて笑った。
「でしょうね。ですが、すぐに『学園に最適な模倣』へと軌道修正するでしょう」
リヒャルトが、金庫に銀貨をしまいながら楽しげにくすくすと笑う。
「彼の未来が楽しみですね」
「ああ。そうだな」
店主は鼻を鳴らし、それから大きな手を伸ばした。
まずは、帳簿の前で得意げに立つリヒャルトの頭を、わしゃりと乱暴に撫でる。
リヒャルトは少し目を丸くしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
次に、奥から顔を出していたメテスの頭を、ぽん、と重みのある手つきで叩くように撫でる。
メテスはほんの少し口角を上げて、静かに頷いた。
最後に、まだ少し興奮の残った顔で立っていたレッターの頭にも、無骨な手がぐしゃぐしゃと撫でた。
レッターは潤んだ瞳で店主を見上げた。
店主は三人を見回し、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「……お前たちの未来もな」
店内には、特製茶のやわらかな香りが、まだ静かに残っていた。




