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錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


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世界の全てを拒む鼻と、雪解けの氷


「……う、っぷ……だめ、吐く……!」


カラン、とベルが鳴った直後だった。

飛び込んできた女性客が、弾かれたように店を飛び出していく。


アトリエの床をドレスの裾が叩き、開いたままの扉の向こうから、激しく咽び返る声が響いた。


カウンターの奥で薬草を仕分けていた店主の手が止まる。


リヒャルトが、咄嗟に清潔な布を手に取り、するりと扉の外まで女性を迎えに行った。


「お客様、大丈夫ですか? お召し物が汚れて――」


「近寄らないで!! 臭いから!!」


「…………」


扉の外から浴びせられた悲痛な絶叫に、リヒャルトがその場で石像みたいに固まった。

美少年の背に、見えるような暗雲が落ちる。


「……あ、違うの! ごめんなさい! ごめんなさい、本当に!」


女性は布で鼻と口を固く押さえたまま、扉の陰から消え入りそうな声で弁明した。


「悪阻なのよ……! 今、世界の全部が臭いの……。どんな良い香りも、愛する夫の匂いさえ、生ゴミみたいに感じるの。今はもう……氷しか受け付けられない身体なの……。助けて、店主さん……」


その言葉を聞いた瞬間、メテスが音もなく扉の風下へ移動し、レッターも薬草の束を抱えたまま、刺激を与えないようそっと奥へ下がった。


店主は小さく息を吐いた。


それから、カウンターの下からひんやりと冷気が立ち上る重厚な銀の器を取り出し、コトンと置く。

続いて、真っ白な手のひらサイズの石。

最後に、小さな青い小瓶を並べた。


「……リヒャルト、離れてやれ。今のそいつには、お前の“上等すぎる清潔な匂い”すら暴力なんだ」


「……はい、店主」


ショックを引きずりながらも、リヒャルトは素直にカウンターの内側へ下がった。


女性がおそるおそる、扉の隙間から顔を覗かせる。


「ひとつめ。特製薬膳氷、『雪解けの雫』だ」


店主が銀の器の蓋を開けると、宝石みたいに煌めく淡い青色のクラッシュアイスが詰まっていた。


「匂いを極限まで削った純度の高い魔力水に、吐き気を抑える成分と、お前と腹の子に必要な栄養を閉じ込めてある。匂いはほぼない」


女性は布を少しだけずらし、祈るような顔で器に鼻を近づけた。


「…………っ」


次の瞬間、女性の瞳から大粒の涙がこぼれ、氷の粒の上へぽたりと落ちた。


「なにも……匂わない……」


震える声だった。


「冷たくて、きれいで……。これなら、食べられる……。本当に……食べられるわ……」


両手で器を抱えたまま、女性の肩が小さく揺れる。


店主はそのまま、静かに言葉を続けた。


「ふたつめ。その白い石は『無臭の結界石』だ」


「……っ」


「寝室の枕元に置いておけ。部屋に立ち込める生活臭や、外から入ってくる匂いを吸って、お前の周りに無臭の空間を作る。……氷を食って、その結界の中で嵐が過ぎるのを待て」


女性はもう何度も頷いていた。

涙が止まらないまま、けれどその目には、さっきまでの追い詰められた色とは別の、縋る先を見つけた安堵が滲んでいる。


「店主さん……ありがとう……」


彼女は震える指で銀貨を取り出そうとした。


「待て。まだみっつめがある」


店主は、最後に残った小さな青い小瓶を、女性の前に滑らせた。


「……それはオマケだ。家に帰ったら、可哀想な夫にそのポーションを飲ませろ」


「夫に……?」


不思議そうに瞬きする女性に、店主は呆れたように、けれどどこかやわらかい目で鼻を鳴らした。


「悪阻で苦しい時は、些細なことでイラついて、つい周りに当たり散らすもんだろ。心配して近づいてきた夫に『臭い! あっち行って!』って叫ぶつもりか?」


女性が、図星を突かれたようにびくっと肩を揺らした。


「その青い小瓶は『鈍感のシロップ』だ。これを飲んだ奴は三日間、他人の言葉の棘にひどく鈍感になる。……これを持っていけ。八つ当たりされた夫が、お前の放つ言葉の刃に傷つかないようにな」


「……っ」


女性は両手で顔を覆った。

今度は、堪えていたものが決壊したように声を上げて泣き出す。


自分の苦しみだけじゃない。

これから自分が傷つけてしまうかもしれない相手のことまで、先回りして守ろうとしてくれる。

その不器用な優しさに触れてしまったからだった。


「……買うわ。全部、全部ちょうだい……」


泣きながら、それでもしっかりした声で言う。


「これ……全部、必要だもの……。私だけじゃなくて……あの人の分まで……」


女性は銀貨を少し多めに置き、器と結界石、そして青い小瓶を、まるで壊れものを扱うみたいに大事に魔法袋へ収めた。


「……ありがとう」


女性は深く頭を下げた。


「私たちはいつも貴女の味方ですよ。無理はしないで下さい」


距離を取ったまま、リヒャルトが静かに微笑みかける。


女性は何度も、何度も頭を下げた。

来た時とはまるで違う、確かな足取りで店を出ていく。


カラン。


扉が閉まり、静寂が戻る。


「…………はぁ」


リヒャルトが、手首に鼻先を寄せて、自分の匂いを確かめ始めた。


「……やはり僕、臭いますか? 店主の石鹸は、あんなに素晴らしい香りなのに……」


「……気にするな。命を育てる時期の鼻ってのは、魔獣の索敵能力すら凌駕するんだよ」


店主がやれやれと肩をすくめる。


「……リヒャルト、大丈夫だ」


メテスが棚の整理をしながら、無表情のまま言葉を添えた。


「……お前は、いつも通りの良い匂いがする」


「……リヒャルトさん」


レッターが、床を掃きながら小さく笑った。


「僕も、リヒャルトさんの匂い、大好きですよ」


「きゅ!(いい匂い!)」


「わふ(……石鹸の、いい香りだ)」


弟子たちと魔獣の総出のフォローに、リヒャルトはようやく、ほんの少しだけ安堵の息を吐いた。


「……ふん。お前ら、慰めてる暇があるなら仕事に戻れ」


店主は鼻を鳴らすと、カウンターの奥で再び薬草の仕分けに取り掛かった。



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