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錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


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231/289

上司が報連相してこないせいで、部下である俺たちが死にそう

代理人と、沈黙の「報連相」

店主がギルドへ素材の注文に出かけ、白亜の要塞には穏やかな

――あるいは、嵐の前の静けさのような時間が流れていた。


カウンターを守るのは、

店主から「留守を頼む」と鍵を預かったリヒャルトだ。


背後ではメテスが音もなく棚を磨き、レッターは隅で薬草の束を丁寧に整えている。


そこへ、カラン、と力ないベルの音が響いた。


「……ほうれんそうは……ほうれんそうは……」


入ってきたのは、幽鬼のような形相の男だった。

目は虚ろ。足元はおぼつかず、今にもその場で崩れそうだ。


リヒャルトは完璧な角度で首を傾げ、薄く微笑んだ。


「いらっしゃいませ。あいにく店主は不在ですが……

お客様、当アトリエは八百屋ではありませんよ?」


「……違う。野菜じゃない方の、報連相だ」


男はカウンターに突っ伏し、恨みがましい声を絞り出した。


「……上司が報連相してこないせいで、部下である俺たちが死にそうなんだ。情報が来ない。連携が取れない。相談しても無視される。なのに、最後に泥を拭うのは全部こっちだ……。あいつに一服、盛ってやりたい……」


「なるほど」


リヒャルトの微笑みが、ほんの少しだけ深くなる。


「非常に古典的な悲劇ですね」


彼は店主の真似をするように、カウンターの下から三つの美しい小瓶を並べた。


それは店主が残していった処方箋に基づく、代理人リヒャルトによる“現実的な戦術”の提示だった。


ひとつめ。淡く光る銀色の液体。


『言質の記録薬』


「これは物理補助――いわば、お守り代わりの盾です」


リヒャルトは指先で瓶を弄ぶ。


「『聞いていない』『言っていない』。そうした卑怯な言葉を封じるには、すべての流れを文字という枷で縛るのです。上司とのやり取りはすべて記録に残し、確認の形を借りた報告を送りつけなさい。後で第三者がその記録を見た時、どちらが義務を怠ったか一目でわかるようにしておく。それが、泥を拭う際にあなたを救う唯一の証拠になります」


男の虚ろな目が、わずかに銀色の瓶へ向いた。


「……でも、疲れすぎてると、記録を残すこと自体忘れるんだよ……。送ろうと思ってた確認文面も、気づいたら打たずに寝落ちしてる。朝には上司が『聞いてない』だ」


「そのための薬です」


リヒャルトは澄んだ声で言い切った。


「これを飲めば、身体が“記録を残す動き”を先に覚えます。通信魔道具を開き、短い確認文を打ち、送信欄まで指が自然に流れる。完璧な文章を考える頭はなくとも、最低限の痕跡だけは残る。疲労で判断力が鈍っても、“残さなければ危険だ”という感覚だけは身体に沈みます」


男の喉が、ごくりと鳴った。


ふたつめ。細い糸が舞うような金色の液体。


『傀儡の糸口』


「これは心理補助――愚かな王を操るための糸です」


リヒャルトの笑みが、ひどく美しく、冷たく整う。


「上司に判断を仰ぐのではなく、あなたが“選ばせる”のです。『どうしますか?』ではなく、『AとB、どちらにしますか。返信がなければAで進めます』と。相手の思考コストを奪い、あなたの用意したレールの上を走らせなさい。相手を上司だと思うから腹が立つ。動かない舞台装置だと思えば、動かしようもあるというものです」


男は眉をひそめた。


「……そんな都合よく、頭が回るか? 俺、あいつの顔見た瞬間に胃が縮んで、言いたいこと全部飛ぶんだぞ」


「だから補助です」


リヒャルトは金色の瓶を指先で軽く弾いた。


「これを飲めば、“選択肢を二つに絞る”“期限を切る”“返信がなければこちらで進める”という流れが、反射で口から出やすくなります。上司の顔色を見る前に、文型が先に立つ。怖くても、指と口が先に仕事をする。あなたの神経を削ってまで即興で戦う必要はありません」


男の目に、かすかな生気が戻る。


みっつめ。底が暗く沈んだ、深い藍色の液体。


『城壁崩壊の劇薬』


「そして、これは……荒療治の毒です」


リヒャルトの声が、温度を失った。


「あなたが完璧に泥を拭うから、その上司は“自分が汚している”ことにすら気づかないのです。一度、あえて小さく、けれど目立つ形で失敗させなさい。あなたが支える手を少しだけ離し、上司の不備を周囲やさらに上の層の目に晒すのです。その綻びが、組織にとって無視できない損害となった時、初めて本当のメスが入るでしょう」


アトリエの空気が、しんと静まり返った。


「……あえて、失敗させるなんて……」

棚の陰で聞いていたレッターが、震えるように息を吐く。


メテスが、磨いていた手を止めて男をじっと見据えた。


「……死ぬ前に、その盾を持て。価値のない相手のために、お前の命を削るな」


「きゅっ!(がんばれ! 記録だ!)」


クリムが前足をぶんぶん振って応援する。


「わふっ!(先に倒れるな。飯と睡眠を取れ)」


ルゥも低く、だが力強く鼻を鳴らした。


男は三つの瓶を見つめた。

銀。金。藍。


そのどれもが、自分の人生を少しずつ変えてしまいそうで、怖かった。


「……記録、と……操り人形か」


男の唇が、かすかに動く。


「そうか。俺が死ぬまであいつに尽くす義理なんて、どこにもなかったんだな」


「ご明察です」


リヒャルトは微笑んだ。


「賢明な選択ですよ、お客様」


男の手が、まずひとつめに伸びる。

それからふたつめ。

そこで止まるかと思われた。


だが、男は歯を食いしばるようにして、みっつめの藍の瓶まで掴み取った。


「……全部だ」


掠れた声だったが、さっきまでの幽鬼じみた響きではなかった。


「盾も要る。糸も要る。……たぶん、最後の毒も、そのうち要る。あいつのせいで俺が潰れるくらいなら、先に壁を壊してやる」


レッターが思わず息を呑む。

メテスはわずかに目を細めた。

クリムは「きゅっ!」と小さく飛び跳ね、ルゥは「わふ」と満足げに尻尾を一度だけ振った。


「かしこまりました。銀貨六枚になります」


リヒャルトが流れるように代金を告げる。


男は懐を探り、少し震える手で銀貨を並べた。

その指先はまだ不安定だったが、もう完全に崩れてはいなかった。


その時、リヒャルトが男の顔色を改めて見た。

青白い頬。落ちくぼんだ目。今にも限界を超えそうな肩。


「……ですが、これだけでは足りませんね」


「なんだよ……まだ何かあるのか……」


「ええ。あります」


リヒャルトは棚の上から琥珀色の小瓶を一本取り出した。


『特製疲労回復ポーション』


「お客様、これだけでは足りません。脳も神経も擦り切れています。判断の補助だけ入れても、土台が崩れたままでは長く持たない。まずは今夜、これで疲労を少し散らしてください」


男が琥珀色の瓶を見つめる。


「……また増えるのか」


「増えます。生き延びるためです」


リヒャルトは一切の遠慮なく告げた。


男は半ば泣きそうな顔で、しかし諦めたように頷いた。


「……じゃあ、それも」


そのやり取りを見ていたメテスが、ぼそりと口を開く。


「……あと、泥眠ポーションも持て」


男が顔を上げる。


「は?」


「お前、今夜も考え続けて寝ない顔をしてる」


メテスの声は低く、短い。

だが、その言葉は妙に核心を突いていた。


「頭を回す薬ばかり持って帰れば、眠らずに全部一晩でやろうとする。……泥眠ポーションを持て。強制的に寝ろ」


レッターがその横でびくっと肩を跳ねさせた。

メテスが自分からそんなふうに誰かを気遣うのを、まだ聞き慣れていないのだ。


「……っ」


男は口をぱくぱくさせた。


図星だった。


今夜は帰ったら、これまでのやり取りを全部掘り返し、記録を洗い、明日からの文面を組み、上司をどう操るか徹夜で考えようとしていた。

その顔を、メテスに無造作に見抜かれた。


「……じゃあ、それもくれ」


「賢明です」


リヒャルトが即座に頷く。


その瞬間、レッターがはっとしたように動いた。

棚から泥眠ポーションを取り出し、特製疲労回復ポーションと一緒に紙袋へ入れる。

まだ少しぎこちない。

けれど、手順そのものは前よりずっと迷いがなかった。


「あ、あの……こちらです」


「……ありがとう」


男は紙袋を受け取った。


その横で、メテスが無言で手を差し出す。


「……銀貨九枚」


「増えたなぁ!?」


男が悲鳴を上げる。


「必要経費です」


リヒャルトが美しく微笑む。


「むしろ、この程度で明日以降の泥が減るなら破格ですよ」


男はしばらく銀貨と紙袋を見比べ、やがて大きく、深く息を吐いた。


「……そうだな」


今度の声には、少しだけ苦笑が混じっていた。


「盾も持つ。糸も持つ。壁を壊す毒も、眠るための毒も持つ。……それでやっと、人並みか」


「少なくとも、死にかけの顔ではなくなります」


リヒャルトがさらりと言う。


男は鼻を鳴らし、銀貨を最後まできっちり並べた。


「……全部買う。全部だ」


「ありがとうございます」


リヒャルトはそれを受け取ると、男が店を出るのをエレガントな一礼で見送った。


カラン。


扉が閉まり、男の背中が夕闇へ消えていく。


「……リヒャルトさん」


レッターが、恐る恐る尋ねた。


「あの人、本当にもう大丈夫なんでしょうか」


「さて」


リヒャルトは店主の椅子にゆったりと腰を下ろした。


「ですが、他人の無能を自分の責任だと思い込む呪いからは、少しだけ解かれたはずですよ」


クリムが満足げに「きゅ!」と鳴き、ルゥが「わふ」と低く応じる。


メテスは棚へ布を戻しながら、ぼそりと呟いた。


「……生き延びろ」


誰に向けた言葉なのかは、もう扉の向こうへ消えた男にしか分からない。


リヒャルトはくすりと笑った。


「……店主が帰ってきたら、今日の“特別授業料”として、僕たちの夕飯も少し豪華にしてもらうよう交渉しなければなりませんね」


悪戯っぽく笑う代理人の目には、どんなポーションよりも鋭い、現実を生き抜くための知恵が宿っていた。


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