捨てても、捨てても、気が付いたら手元に返ってくる
雨が降りしきる、ひどく肌寒い夜だった。
ガラン。
鈍いベルの音とともに、ずぶ濡れの男がアトリエに転がり込んできた。
目の下には真っ黒な隈が落ち、焦点の合わない目で店内をぎょろぎょろと見回している。
「……助けてくれ。捨てても、捨てても、気が付いたら手元に返ってくるんだ……!」
カウンターの奥で薬草を刻んでいた店主は、手を止めることなく淡々と応じた。
「……解呪はうちではやってない」
「神殿にも相談したが、呪われたアイテムじゃないと言われた……!」
男はカウンターにすがりつき、引きつった声で叫んだ。
「……ほう。それで?」
「帰還魔術が組み込まれてるかどうか、魔塔にも行ったが……組み込まれてなかったんだよ!」
その異様な剣幕と、男から発せられる“魔物とは違う種類の生臭さ”に、アトリエの空気がぴんと張り詰める。
「きゅっ……!(何それ怖い)」
クリムが毛を逆立て、カウンターの陰へさっと隠れた。
「グルル……わふ……」
ルゥでさえ尻尾を股の間へ巻き込み、警戒するように店主の足元へぴたりと寄る。
魔獣たちは本能で悟っていた。
男に憑いているのは、幽霊でも呪いでもない。
もっと得体の知れない、人間の狂気だと。
「…………」
メテスが無言で男の死角へ回り、いつでも首を刎ねられるよう剣の柄に手を添えた。
リヒャルトが静かに、ひどく冷ややかな声で口を開く。
「……お客様。ひとつお伺いしますが、最後にその“呪物”を遠くへ投げ捨てたのは、いつですか?」
「け、今朝だ! 街外れの深い谷底に向かって、思い切り投げ捨てた! なのに……!」
「……そうですか。では、なぜあなたの靴と、その指先の爪の間には、谷底の湿った赤土がべっとりとこびりついているのですか?」
「え……」
男が、自分の汚れた手元を呆然と見つめる。
リヒャルトの視線が、男の腰のポーチを冷酷に射抜いた。
「それに、あなたのポーチはやけに重そうです。……投げ捨てたというのなら、その中でぶつかり合っている音は何ですか?」
男は震える手で、自分のポーチを開けた。
中からごろごろとこぼれ落ちたのは、その辺で拾ったような石ばかり。
そして、男の手の中に、ずっと大事に握りしめられていたように現れたのは――黒い石がはめ込まれた、女性物のネックレスだった。
「ひっ……! あ、ああああっ!!」
男がネックレスを見て悲鳴を上げる。
店主はナイフを置き、ひどく冷めた目で男を見下ろした。
「……呪いでも魔術でもねえよ。お前が自分で、捨てた場所へ拾いに行ってるんだ。……いや、最初から谷底に投げたのは石の方で、そいつはずっと自分のポーチにしまってたんだろ」
男は頭を抱え、がちがちと歯を鳴らして震え始めた。
「ち、違う! 俺は捨てた! 捨てなきゃいけないんだ! だってこいつは……こいつは……!」
店主はため息をつき、コト、コト、コト、と三本の瓶を並べた。
「お前が“呪い”のせいにしたいなら、選択肢をやろう」
ひとつめ。青いポーション。
「物理補助。『強制泥眠の薬』だ。無意識に歩き回るお前の肉体を、物理的に三日間シャットダウンする」
ふたつめ。透明な液体。
「心理補助。『忘却の香水』。ネックレスへの恐怖と執着を薄める」
店主はみっつめ、淀んだ鏡みたいに鈍く光る銀色の液体を前に押し出した。
「三本目。本音と認識の劇薬――『真実の鏡面』」
店主の声が、男の心の奥底を容赦なく抉る。
「お前が本当は何から目を逸らしているのか、自分の脳髄に無理やり見せる薬だ。……なぜ、それを捨てられない? なぜ、それが手元にあると“怖い”んだ?」
男は三本目の瓶を見つめた。
やがて、ネックレスを握りしめたまま、ぼろぼろと涙をこぼし始める。
「俺は……俺は、あいつを愛してた……!」
堰を切ったように、口からどろどろとした真実が溢れ出した。
「でも、あいつは他の男と笑って……だから、このネックレスを贈ったその夜に……俺の手で、あいつの首を……! 絞めて、絞めて……!!」
自分が愛した女を、自ら殺した。
その事実を心が直視できず、
“呪われたアイテムが自分を苦しめている”
という妄想へ逃げ込んでいたのだ。
捨てようとしても、殺した女への執着が捨てさせない。
自分で拾いに行きながら、その記憶を消していた。
「ああ……あああ……俺が、俺が殺した……!!」
男は床に崩れ落ち、自分の罪の重さに泣き叫んだ。
――解決した。
自分の罪を認めた。
これで終わる。
リヒャルトもメテスも、そう思った。
その、次の瞬間だった。
「…………あれ?」
男の顔から、ふっと表情が抜け落ちた。
絶望も、悲哀も、殺意も、何もかもがすっぽり抜け落ちたような、無垢で空虚な顔。
男は床に転がったネックレスを拾い上げると、何事もなかったみたいに立ち上がり、困り果てたような、ごく平凡な声で言った。
「……店主さん。困ってるんだよ」
一拍。
「捨てても捨てても、気が付いたら手元に返ってくるんだ。この呪物を、どうにかしたいんだけど……」
ぞわり、と。
アトリエの温度が、一気に氷点下まで下がった。
リヒャルトが息を呑み、一歩後ずさる。
メテスが音もなく剣を半ばまで引き抜いた。
自らの罪に耐えきれなくなった脳が、たった今告白した真実を丸ごとリセットし、再び
“自分は呪いに苦しむ被害者だ”
という都合のいい場所へ戻ってしまったのだ。
何度真実を突きつけても、同じように絶望し、同じように忘れる。
この男は、永遠にそこを回り続ける。
店主は、感情の一切消えた目で、ループする男を見つめていた。
「…………そうか」
店主は並べていた三本のうち、三本目を引き出しへ戻し、ひとつめの『強制泥眠の薬』だけを男の前へ滑らせた。
「なら、これを飲め。呪いの進行を止める薬だ。……飲んだら、そこで倒れるからな」
「本当かい!? ありがとう、店主さん!」
男は疑うこともなく薬を煽り――
その瞬間、糸が切れたように床へ崩れ落ちた。
大きないびきが響き始める。
店主は無言のままカウンターから出ると、男の手からネックレスをもぎ取り、ポーチの中へ乱暴に押し込んだ。
「……メテス。こいつを縛って衛兵の詰め所に放り込んでこい。自白調書の手間は省けるように、ギルド経由で書類も回しておく」
「……了解した」
メテスが無造作に男の襟首を掴み、引きずっていく。
ガラン、と。
男が連れ出され、静寂が戻ったアトリエで、クリムがぶるぶる震えながら店主の袖を引っ張った。
「きゅ……(こわかった……)」
店主は乱暴に自分の頭を掻き回した。
「……気分のいい話じゃねえな」
リヒャルトが、ひどく青ざめた顔で呟く。
「……彼は、牢の中でも、自分がなぜ捕まっているのか理解できないのでしょうね。永遠に、呪いのせいだと言い続けて……」
「だろうな。真実って劇薬に耐えられなかった、壊れた器だ」
店主は冷めた茶を一口飲み、小さく息を吐いた。
「……ポーションは、人生を変える魔法じゃない」
一拍。
「……最初から中身がこぼれ落ちてるような壊れたコップには、どんな特効薬を注いでも意味がねえんだよ」
雨の音だけが響く、夜のアトリエ。
そこには、魔物や幽霊よりも遥かに恐ろしい
“人間の心の残骸”が、ひっそりと冷たい影を落としていた。




