何が食べたいのか、最近まったくわからない
「……何が食べたいのか、最近まったくわからないんだ……!」
カウンターに突っ伏して、若い職員が頭を抱えていた。
目の下にはくっきりと疲労の隈が刻まれ、その背中は絶望に打ちひしがれている。
「腹は減ってるはずなんだ! なのに、肉の焼ける匂いを嗅いでも、甘い菓子の前を通っても、ちっともそそられない! 本当に迷子だ。自分の身体が求めてる味がわからないんだよ!」
「……」
店主は、すり鉢で乾燥したトカゲの尻尾を粉砕しながら、顔を上げることもなく無言だった。
「聞いてる!? 俺、真剣に命の危機を感じてるんだけど!」
「きゅ……(うるさい)」
クリムが耳を塞ぐように前足で顔を覆い、
「わふ(……過労だな)」
ルゥが呆れたように鼻を鳴らしてあくびをした。
リヒャルトが、流麗な手つきで棚の整理をしながら、ふんわりと冷ややかな微笑みを浮かべる。
「お客様。当アトリエはポーション屋であり、本日の献立を決めるお悩み相談窓口ではありませんよ。……ですが、解決策を提示する用意はあります」
店主は深くため息をつき、すりこぎを置いた。
そして、コト、コト、コト、と三つの品をカウンターへ並べる。
「お前が『食欲』という迷子を無理やり連れ戻したいなら、選べ」
ひとつめ。毒々しい赤色をした、どろどろの液体。
「物理補助。『暴食の劇薬』だ。胃酸を強制的に分泌させ、極限の飢餓状態を脳に錯覚させる。これを飲めば、その辺の木の皮や生肉だろうが、涎を垂らして食いつきたくなるぞ」
職員が「ひっ」と喉を鳴らした。
ふたつめ。一切の匂いを持たない、灰色の粉末。
「心理補助。『無味無臭の完全食』だ。水に溶かして飲むだけで、一日に必要な栄養が完璧に補給できる。……『何を食べるか迷う』という苦痛から永遠に解放される代わり、二度と食事に喜びを感じなくなるがな」
職員は、赤い液体と灰色の粉末を交互に見比べ、顔を青ざめさせた。
「ど、どっちも嫌だ……! 俺は、ちゃんと『ああ、あれが食べたいな』って思って、美味しくご飯を食べたいだけなんだよ!」
「そうか」
店主はみっつめとして並べていた小瓶ではなく、素焼きのマグカップを男の前へ押し出した。
「なら、これを飲め」
マグカップの中には、うっすらと湯気を立てる透明な液体。
ほんの少しの岩塩と、胃の粘膜を保護する薬草を一枚だけ浮かべた白湯だった。
「え……なにこれ。お湯?」
店主の目が、職員の疲れ切った顔を見透かす。
「お前の身体は迷子になってるわけじゃない。ストライキを起こしてるんだよ」
「ストライキ……?」
「毎日毎日、書類仕事に追われて頭を酷使して、ろくに寝てないだろ。脳が疲労で焼き切れてるから、本能の『これが食いたい』って信号を受信できなくなってるんだ。おまけに、ストレスで胃は荒れ果ててる」
一拍。
「身体が求めてる味がわからないんじゃない。お前の身体は今、『何も食べたくない。休ませろ』って悲鳴を上げてるんだよ」
アトリエに、静かな湯気の匂いが漂う。
「メシの味がわからなくなるのは、心が削れてる証拠だ。……その温かいお湯をゆっくり飲んで、胃を温めろ。今日は水以外何も口に入れず、泥みたいに十時間寝ろ」
店主は、灰色の粉末を棚へしまいながら背を向けた。
「明日、目が覚めて一番最初に『食べたい』って頭に浮かんだものが、お前の身体の正解だ」
職員はマグカップを両手で包み込んだ。
じんわりとした温かさが、こわばっていた手のひらから伝わってくる。
一口飲むと、かすかな塩気と薬草の香りが、荒れた胃の腑にやさしく染み渡っていった。
「……あ、あったかい……」
張り詰めていた糸が切れたように、職員の目からぽろりと大粒の涙がこぼれた。
「……ありがとう、店主。俺、今日はもう帰って……死んだように寝るよ……」
リヒャルトが、ちょうどよい間で微笑む。
「でしたら、ゆっくり眠れるように『泥眠ポーション』をぜひお買い求めください」
職員が涙の跡を残したまま顔を上げた。
「……じゃあ、それも」
「ありがとうございます」
すかさず、奥で様子を見ていたレッターが動いた。
まだ少しぎこちない手つきで、棚から泥眠ポーションを取り出し、紙袋へ入れて職員へ差し出す。
「あ、あの……どうぞ」
「お、おう。ありがとう」
職員が受け取ったその横で、メテスが無言で手を差し出す。
「……銀貨二枚」
「追加で取るのかよ!」
「睡眠は高級品ですので」
リヒャルトがにこやかに補足した。
職員は半泣きのまま銀貨を追加で置き、結局、マグカップを空にして紙袋を抱え、憑き物が落ちたような顔で帰っていった。
背中は相変わらず丸まっていたが、足取りは店に入ってきた時よりもずっと軽い。
カラン、と扉が閉まる。
しばらく静かになった店内で、店主は大きくため息をついた。
「……お疲れ様です。見事な処方でしたね」
リヒャルトが銀貨を金庫へしまいながら、くすりと笑う。
「……あいつ、絶対明日の朝起きたら『こってりした肉が食いたい』って胃もたれするようなこと言い出すぜ。反動でな」
店主はそう言って鼻を鳴らし、乱暴に自分の頭を掻き回した。
それから、何か言う代わりみたいに、まずリヒャルトの頭をわしゃりと撫でた。
「わ、店主。急ですね」
次に、店主の横を通り過ぎようとしたメテスの頭も、ぽん、と大きな手で叩くように撫でる。
「……」
メテスは一瞬だけ目を瞬かせた。
最後に、ちょっと俯いていたレッターの頭にも、無骨な手がぐしゃぐしゃと落ちてきた。
「ひゃ……っ」
レッターは慌てて両手で頭を押さえ、そのままおそるおそる店主を見上げる。
「……手際は悪くなかった」
それだけ言って、店主はふっと鼻を鳴らす。
「で。お前らはどうなんだ」
店主が振り返ると、リヒャルト、レッター、メテスが一斉に店主を見た。
「何が食いたいのかわからないなんて、ふざけたことは言わねえだろうな。……今日の夕飯、何が食いたい?」
その問いに、弟子たちの答えは早かった。
「僕は、あっさりした白身魚の香草焼きがいいですね」
と、リヒャルト。
「……肉。塊のやつ」
と、メテス。
「あ、あのっ……! ぼ、僕は……昨日の、野菜がたくさん入ったスープが、もう一度食べたい、です……!」
と、レッター。
「きゅ!(リンゴ!)」
「わふ(……干し肉がいい)」
店主は大きくため息をついた。
「……見事にバラバラじゃねえか。誰か一人に合わせろっての」
悪態をつきながらも、もう手は止まらない。
昼下がりだというのに、店主はさっさと厨房の棚から大鍋を下ろし、塩漬け肉の塊を切り分け、根菜の皮を剥き始めた。
まな板の上に、玉ねぎと人参が小気味よく転がる。
別の台には白身魚が並べられ、香草と岩塩、柑橘の皮まできっちり用意されていく。
「店主、まだ少し早いのでは?」
リヒャルトが呆れ半分、笑い半分で尋ねる。
「うるせえ。肉の煮込みは先に火を入れた方がうまいんだよ」
店主は振り向きもせず言い捨てた。
「レッター、野菜を洗え。リヒャルト、メテスは店番だ」
「は、はいっ!」
「承知しました」
「……了解した」
「きゅっ!」
「わふ」
文句を言いながら、段取りだけはやたらと早い。
「白身魚のソテーに、ゴロ肉と野菜の煮込みスープだな。
まったく……手間が掛かる弟子どもだ」
アトリエ・くぼ地に、今日も温かい、
確かな『日常の味』が漂い始めていた。




