何かキッカケができれば……
乗合馬車と、都合のいい奇跡
「……いつも乗合馬車で一緒になる子がいてさ。何かキッカケができれば……交際できちゃったりしないかなって。どうしたらいいかな?」
カウンターに身を乗り出した若い男が、すがるような声を上げる。
帳簿に向かってペンを走らせていた店主は、顔を上げることもなく無言だった。
「聞いてる!? 俺、真剣に相談してるんだよ!?」
男が声を荒らげると、店主は深く、ひどく面倒くさそうにため息をついた。
「……ここは恋愛相談所じゃない。ポーション屋だ」
その時、二階から階段を下りてきたアルテルナ――ルナが、面白そうなものを見つけた猫みたいに顔を覗き込んできた。
「なになにー? 振られたの?」
その後ろから、中装鎧を鳴らしながらゲッセネス――ネスが慌てて追ってくる。
「ちょっとルナ。玉砕してる人の傷に塩ぬったくっちゃダメだよ……」
「振られてない! まだ一言も喋ったことないんだよ!」
男が真っ赤になって反論する。
その言葉に、ルナは心底呆れたように肩をすくめた。
「えー。一言も喋ってないのに、なんか都合のいいキッカケが降ってきて、そのまま交際したいとか言ってるの? 重い腰上げる気ないなら、諦めなよ」
「うっ……! そ、それは……」
「……ルナの言う通りだ」
店主がようやくペンを置き、カウンターの下から三本の小瓶を並べた。
「キッカケなんていう都合のいい奇跡は売ってない。だが、お前が一歩踏み出すための補助なら出してやる。選べ」
ひとつめ。淡い緑色の液体。
「物理補助。『動悸鎮静のポーション』だ。声をかける時、心臓が飛び出そうになるだろ。これは物理的に心拍数を抑え、声の震えと手汗を止める」
ふたつめ。透明な薬液。
「心理補助。『鋼の自尊心』。これを飲めば、万が一声をかけて無視されようが、冷たくあしらわれようが、心が傷つきにくくなる。恐怖の遮断薬だ」
「傷つきにくく……それなら、俺でも……」
男がふたつめに手を伸ばしかけた、その瞬間。
店主はみっつめ、どろりと淀んだ黒い液体を前へ押し出し、男の手を止めた。
「最後はこれだ。……『運命の輪の劇薬』」
店主の声が、一段低くなる。
「お前は『都合のいいキッカケ』が欲しいんだろ? これを明日の朝、お前が乗る乗合馬車の車輪に投げつければいい。しばらく走れば、車輪は派手にぶっ壊れる」
「えっ……」
「馬車は横転し、あの娘は座席から投げ出されて足を怪我するだろうな。そこで無傷のお前が手を差し伸べれば、見事『運命のキッカケ』の完成だ」
店内が、すっと冷えた。
ルナの目が細くなる。
ネスは無言で腰の剣に手を置いた。
「な、なんだよそれ! 彼女が怪我するじゃないか! 俺はそんなこと望んでない!」
「そうか?」
店主の目が、男の甘えを冷酷に射抜く。
「自分は傷つかず、プライドも賭けず、ただ都合よく世界の方が動いて、キッカケだけ寄越してくれるのを待つ。……そういうことだろ」
一拍。
「奇跡には代償がいる。お前が自分のプライドを差し出さないなら、代わりに誰かが血を流すしかねえんだよ」
男は震える拳を強く握りしめた。
黒い瓶を忌々しそうに睨み、やがて、弾かれたようにひとつめの『動悸鎮静のポーション』を掴み取る。
「……これをもらう。……ちゃんと、自分から『おはようございます』って言うよ」
男は銀貨を一枚カウンターに叩きつけると、真っ赤な顔のまま、逃げるように店を飛び出していった。
ガラン。
扉が閉まり、静寂が戻る。
ルナがカウンターに肘をつき、みっつめの黒い瓶をつんつんとつついた。
「ねえ店主。これ、本当に馬車の車輪が壊れるの?」
「んなわけねえだろ。こいつは、リヒャルトが調合したポーションの失敗作だ」
店主が鼻で笑いながら、黒い瓶を引き出しへ放り込む。
「他人の選択肢や運命を無理やり捻じ曲げるような薬は作らない。うちの禁忌だ」
ルナは「ふーん」と笑うと、背後で立っているネスの方を振り返った。
「でも、あの人えらいよね。自分から声かけるって決めたんだもん。……黙って隣に立ってるだけで、いつまでも自分からは何も言えない臆病者より、ずっと男らしいと思わない?」
「っ……!!」
ネスの顔が、一瞬で爆発したみたいに真っ赤に染まった。
「そ、そう……だね! 声をかけるのは、大事、だよね!」
「……お前ら、いちゃつくなら自分らの部屋でやれ」
店主は再び帳簿を引き寄せながら、面倒くさそうに手を振った。
「……キッカケなんてものはな」
ペン先が、紙の上を走る。
「奇跡で降ってくるのを待つより、自分で転んで泥だらけになってでも掴みに行った方が、よっぽど安上がりなんだよ」
アトリエには、ルナの楽しげな笑い声と、ネスの慌てた足音が響いていた。




