治癒魔術と救急箱。
白亜の要塞――アトリエ・くぼ地の裏庭。
朝靄がまだ白く立ちこめる冷たい空気の中で、鋭い風切り音だけが規則正しく響いていた。
メテスが、その白んだ庭の片隅で片手剣の素振りを繰り返している。
濃く重い魔力が、薄い揺らぎのように彼のまわりに滲んでいた。
その少し離れた場所で、レーベンス・レッターは竹箒を手に、落ち葉を掃き集めていた。
奴隷として買われてから数日。
何も要求されない日々に怯えながらも、掃除くらいは完璧にやらなければ捨てられる、という強迫観念で、彼は毎朝誰よりも早く裏庭に立っていた。
「……ふっ」
メテスが剣を振り下ろした、その時だった。
握りがほんのわずかにずれた。
次の瞬間、指先が刃を深く擦る。
ポタ、ポタ……。
「……あ」
メテスが短く声を漏らす。
手のひらが深く裂け、鮮血が土へ滴り落ちた。
その赤を見た瞬間。
カラン、と。
レッターの手から竹箒が滑り落ちた。
(……怪我だ。血が出てる。戦力が、傷ついた……!)
レッターの脳裏に、凄惨な記憶がフラッシュバックする。
『傷物にしやがって!』
『治せ! お前はそれしか能がないんだからな!』
かつての世界の怒声。
(治さなきゃ。役に立たないと、殺される……!)
「ひっ……!」
レッターは弾かれたように駆け出した。
地面に膝をつき、血を流すメテスの手を両手で包み込む。
「……レッター?」
レッターは震える唇を噛み締め、目をきつく閉じた。
カッ――!!
淡く、しかし太陽みたいに純度の高い、真っ白な光が裏庭を包み込んだ。
それは、詠唱すら必要としない、極限まで洗練された奇跡だった。
ほんの一瞬。
光が収まった後、メテスの手のひらにあったはずの深い裂傷は、血の跡すら残さず完全に塞がっていた。
「…………」
裏庭に、水を打ったような静寂が落ちる。
「……治癒魔術が、使えたんですね」
いつの間にか、勝手口の扉の前にリヒャルトが立っていた。
静かな目が、だが鋭くレッターを見つめている。
「これほど純度の高い光……しかも無詠唱。ただの回復魔法ではありませんね。術式の理解も、それを支える血筋も、並では届かない領域です」
出自の重さを突きつけられ、レッターはびくりと肩を震わせた。
そして、すがるように土の上へ深く頭を下げる。
「……僕が、殺されずに済んだ理由です」
掠れた、ひどく平坦な声だった。
「僕は戦えません。でも、怪我はすぐ治せます。どんな重傷でも、四肢が欠けていなければ繋げます。だから……」
その先を、飲み込む。
だから、捨てないでください。
レッターは土に額を擦りつけるようにして震えた。
「……お前、朝から何やってんだ」
気怠げな声とともに、店主が姿を現した。
寝癖のついた頭を掻きながら、土下座して震えるレッターと、血の消えたメテスの手を見る。
店主は小さくため息をつき、三つの品を庭のテーブルに並べた。
「お前が『便利な治癒の道具』としてこの家に居座りたいなら、契約内容を決めようか」
ひとつめ。青く発光する液体。
「『魔力強制抽出薬』。お前が道具なら、これを飲め。魔力が空になっても寿命を削って治癒魔術を撃ち続けられる。最高の奴隷になれるぞ」
ふたつめ。透明な薬液。
「『感情の忘却薬』。道具に心は要らない。これを飲めば、他人が血を流す怖さも、自分が酷使される痛みも消える。……ただ笑って魔術を放つ機械の完成だ」
レッターの顔から完全に血の気が引く。
だが、店主がみっつめとしてテーブルに置いたのは、ポーションの瓶ではなかった。
ゴト。
それは、使い古されているが手入れの行き届いた救急箱だった。
「みっつめ。……俺の仕事だ」
店主はレッターを見下ろした。
「魔法は便利だ。奇跡みたいに傷が消える。……だがな、レッター」
一拍。
「ここは、俺のポーション屋だ。大切な家族用の、傷によく効く薬なら最初から揃ってる。……そいつの出番を、お前の奇跡で奪うんじゃねえよ」
レッターは目を丸くした。
「血が出たら、俺の作った薬を塗る。痛いなら、俺の作ったポーションを飲む。……お前が必死に切り売りしてるその“価値”なんて持ち出さなくても、ここには最初から傷を治すための備えがあるんだよ」
「あ……」
店主は腰を屈め、レッターの頭を無造作に、だが確かな温度を込めてガシガシと撫で回した。
「自分が生きるための価値を、そんな安売りするな。そんなもん、飯を食って掃除してるだけで十分だ」
メテスが静かに歩み寄り、レッターの前にしゃがみ込んだ。
「……驚かせた。すまない」
メテスの謝罪が向けられた瞬間、レッターの身体は反射で強張った。
「……ったく。メテス、お前もだ。自分の体を雑に扱うなと言っただろうが。後で特製の軟膏を渡す。腰のマジックポーチに常備しておけ」
メテスはわずかに目を瞬かせ、それから、ほんの少しだけ口角を上げた。
「……了解した」
リヒャルトが、ふんわりと微笑んで歩み寄る。
「店主の言う通りですよ、レッター。奇跡なんて起こさなくても、この家には最初から手当てする手段があるんですから」
「きゅ!(おなかすいた!)」
クリムがレッターの膝に飛び乗り、
「わふ(……騒がしい朝だ)」
ルゥがレッターの頬を優しく舐めた。
店主は大きく欠伸をして、背を向けた。
「掃除が終わったら、手を洗ってこい。……今日の夕飯、お前の好きなもんにしてやるって昨夜言っただろ。それまでしっかり働けよ、レッター」
パタン、と。
勝手口の扉が閉まる。
裏庭に残されたレッターは、自分の手のひらを見つめた。
今までは、この手で治癒の光を出さなければ、自分は生きていけないと思っていた。
光らない手には、価値などないと思っていた。
でも。
(……家族用の、薬)
自分は、もう、金貨一枚で買い叩かれる道具ではない……のかもしれない。
傷を治さなくても、怒られなかった。
むしろ、店主の薬の出番を奪うなと、そんな理由で叱られた。
「……っ」
レッターは、急いで目元を袖で乱暴に拭った。
まだ、信じきるのは怖い。
それでも、落ちていた竹箒を拾い上げ、いつもより少しだけ強い力で握りしめた。
店主が置いていった救急箱の薬草の匂いと、朝のやさしい風が混ざり合って頬を撫でていった。




