買われた命と、毒の入っていないスープ
ふかふかのシーツの感触。
痛みのない呼吸。
微かに香る、清潔な薬草の匂い。
レーベンス・レッターが目を覚ました時、最初に感じたのは安堵ではなく、凍りつくような恐怖だった。
(……息が、できる)
爛れて破棄される寸前だったはずの肺が、嘘みたいに軽い。
身につけているのは血と泥に塗れた襤褸布ではなく、肌触りのいい清潔な寝間着。
そして自分が寝かされているのは、どこかの貴族の館かと錯覚するような、手入れの行き届いたふかふかのベッドだった。
レッターの身体が、びくりと強張る。
(……治された。こんな、清潔な部屋で)
男娼館での記憶と、奴隷商の鞭の痛みが、脳髄の奥で一斉に警鐘を鳴らした。
――投資された分だけ、回収される。
綺麗な服。
高い薬。
柔らかいベッド。
これだけの金をかけられたということは、次に何を要求されるのか。
どんな奉仕が待っているのか。
どんな実験に使われるのか。
「……っ」
レッターは音を立てないよう毛布を握りしめ、身を縮こまらせた。
ベッドの隅から、いつでも床へ降りられるように重心を寄せる。
土下座ができる姿勢。怒らせない姿勢。命令にすぐ従える姿勢。
最適解だった。
怒らせないこと。
要求を先回りすること。
それしか、生き延びる道を知らない。
コン、と。
控えめなノックの音が響いた。
レッターの肩が跳ねる。
扉が静かに開き、一人の少年が入ってきた。
身のこなしから隠しきれない気品が漂う、ひどく整った顔立ちの美少年――リヒャルトだ。
その手には、温かい湯気を立てるスープとパンが載った木盆が握られている。
「……おはようございます。目は覚めましたか」
リヒャルトは、ベッドの隅で強張るレッターを見ると、それ以上は一歩も近づかなかった。
ただ、部屋の入口寄りにある小さな丸テーブルへ、コトンと木盆を置く。
「店主――この家の主からの伝言です。『金貨一枚分の先行投資だ。勝手に死なれると損をするから、さっさと飯を食え』とのことでした」
(……金貨、一枚)
レッターは息を呑んだ。
大金だからではない。
たった金貨一枚だったからだ。
鋼鉄の剣一本と同じ程度の値段。
それが、自分につけられた値札だった。
レッターはその意味を、これまでの経験から正確に理解した。
(僕は、剣一本と同じ値段で買われた安い道具だ)
喉がひりつく。
(……だから、ちゃんと動いて役に立たないと、またすぐに捨てられる……!)
恐怖が胃の腑を締め付ける。
綺麗な服を着せられ、ふかふかのベッドに寝かされたのは、安い道具をなんとか使える形に整えているだけだ。
もしここで食事を拒めば、「手入れの利かない不良品」として、今度こそ本当に破棄される。
リヒャルトはレッターと目を合わせないよう、少しだけ視線を外したまま続けた。
「食事に毒も、眠り薬も入っていません」
一拍。
「……ですが、今は信じられないでしょう。ですから、食べる食べないはあなたの自由です。誰も急かしませんし、残しても怒りません」
それだけ言うと、リヒャルトは優雅な所作で一礼した。
そして、そのまま静かに部屋を出ようとする。
「あ……」
レッターの喉から、掠れた音が漏れた。
(食べないと、怒られる。不良品だと判断される……!)
混乱するレッターの前で、開いた扉の隙間から、もう一人の人影が見えた。
廊下の壁を背にして、大柄な少年――
メテスが床に座り込んでいる。
彼は部屋の中を覗き込むことすらしない。
ただ、膝の上に置いた分厚い片手剣を、布で静かに、淡々と磨き続けていた。
リヒャルトが廊下へ出ると、メテスが短く声を発した。
「……起きたか」
「ええ。ですが、警戒は解けないでしょう。無理もありません」
「……そうだな」
メテスは剣を鞘に収め、
そのまま扉の横で腕を組み、目を閉じた。
「俺はここにいる。……中には入らない」
その言葉はリヒャルトへ向けたものだった。
けれど、部屋の中にいるレッターにも、はっきりと届いた。
パタン、と。
扉が閉められる。
鍵はかかっていない。
部屋には再び、レッターと、温かいスープだけが残された。
誰も彼をベッドから引きずり下ろさない。
「金貨一枚分の働きをしろ」と鞭を打つ者もいない。
監視の気配はある。メテスが外にいる。
それでも、誰も部屋の内側へ踏み込んでこない。
レッターは部屋の隅で膝を抱えたまま、テーブルの上のスープを見つめた。
(……わからない。前のご主人様たちとは、全然違う……)
金貨一枚の道具に、どうしてこんなにも「何もしない時間」が与えられるのか。
温かいスープの匂いが、空っぽの胃を刺激する。
それでもレッターは、すぐには動けなかった。
「何もしない」という優しさが、彼にはまだ、次の要求を釣り上げるための見えない罠にしか思えなかったのだ。
外からは、剣がわずかに擦れ合う音と、誰かが廊下を静かに歩く気配だけが、規則正しく聞こえていた。




