夢の中でだけでも彼と一緒にいられるポーションが欲しい
カラン。
乾いたベルの音が、夕方の店の中に響いた。
カウンターの奥で、店主は乳鉢を使って琥珀色の結晶をすり潰していた。
リヒャルトは届いたばかりの羊皮紙を分けていて、メテスは入口の横の棚を静かに磨いている。
「彼に恋をしたの。でも、既婚者なのよね……。だから、夢の中でだけでも彼と一緒にいられるポーションが欲しいわ」
女はカウンターにすがるようにして言った。
上等な外套を着ている。
でも、その目にあるのは余裕ではなく、深い疲れと、現実から逃げたい気持ちだけだった。
店主は手を止めず、低い声で言う。
「……夢の中で、ね」
一拍。
「うちは夢を売る店じゃない。だが、頭に都合のいい夢を見せる薬ならある」
その声で、羊皮紙を整えていたリヒャルトの手が止まった。
メテスも棚を磨く手を止め、女を見る。
責めるでもなく、ただ危ういものを見る目だった。
店主は乳鉢を置き、三本の瓶をカウンターに並べた。
コト。
コト。
コト。
一本目。淡い乳白色の液体。
「『白昼夢の枕』。深く眠らせて、今日あったことを少しぼかす薬だ。……ただ休むだけだな。明日になれば、また同じつらさで目が覚めるが」
二本目。冷たい色の蒼い液体。
「『清冽なる鏡面』。熱くなりすぎた気持ちを冷まして、自分の今の状態を落ち着いて見られるようにする薬だ。……彼への気持ちが本当に恋なのか、それとも、心の寂しさを埋めたいだけなのか、見えやすくなるだろう」
店主は三本目、毒々しいほど鮮やかで、星屑が渦を巻く紫の液体を指先で軽く弾いた。
「最後はこれだ。『極楽浄土の種』。自分の好きな夢を作って、その中で『彼』とずっと一緒にいられる」
一拍。
「……ただし、夢が綺麗なら綺麗なほど、目が覚めた後の現実は泥みたいに汚く見えるようになるがな」
女の喉が、小さく鳴った。
店主はそのまま、容赦なく続ける。
「どれにする。夢の中で愛されたいのか、それとも、現実で少しでも息をしやすくしたいのか」
女は三本目の、美しく光る紫の瓶を食い入るように見つめた。
手が震え、指先がその硝子に触れかける。
その時。
「わふ(……夢は、食い尽くされるぞ)」
ルゥが、低く重い声で鼻を鳴らした。
「きゅ……(おなかすいちゃうよ)」
クリムも悲しそうに首を振る。
女の指が、止まった。
リヒャルトが、そっと羊皮紙を脇へ置いた。
「……失礼ですが」
声はやわらかい。
でも、言葉は逃がしてくれない。
「“彼と一緒にいたい”というより、“彼がいる夢の中なら、自分を嫌いにならずに済む”のではありませんか」
女が、はっとしたように顔を上げる。
「それは……」
「彼そのものよりも、“彼を想っている自分”にしがみついているように見えます」
店の中が静まった。
言われてしまえば、否定できない。
そんな沈黙だった。
メテスが、低く短く口を開く。
「……夢は、帰ってこない」
女がゆっくりと彼を見る。
「え……?」
「入り続ければ、そっちが居場所になる」
短い。
でも、それで十分だった。
「目が覚めるたびにつらいなら、また飲む。次も飲む。最後には、起きてる方がおかしいように思えてくる」
女の唇が、かすかに震えた。
「……目が覚めた後、私はどうなるの?」
「決まってるだろ」
店主は鼻で笑った。
「その『彼』がいない現実が、昨日よりもっとつらくなる。……そしてまた、この瓶を買いに来る。自分の人生を、少しずつ夢に売りながらな」
沈黙が店を支配した。
リヒャルトが、いたたまれなくなったように目を伏せる。
メテスもそれ以上は何も言わず、棚に置いた手を引いた。
女はやがて、力なく三本目の瓶から手を離した。
そして、震える声で言った。
「……二本目を。……私、自分がどうしてこんなに苦しいのか、もう分からなくなっているの」
チャリン、と銀貨が置かれる。
店主は蒼い小瓶を指先で押しやった。
「こいつは夢を見せない。代わりに、見たくないことまで見せるぞ」
「……ええ。たぶん、今の私にはそっちの方が必要ね」
女は小瓶を握りしめた。
そのまま飲もうとして、ふと手を止める。
そして、小さく息を吐いた。
「……私、彼を好きなんだと思っていたわ」
リヒャルトが静かに顔を上げる。
「ですが、今は言い切れない」
「ええ。彼を好きだったのか、“彼を好きでいる自分”にしがみついていたのか……もう、分からない」
「それで十分です」
リヒャルトは静かに言った。
「分からないと認められるなら、まだ完全には自分を見失っていません」
女は、ほんの少しだけ笑った。
泣きそうで、情けなくて、でも少しだけ力の戻った笑みだった。
それから、栓を抜いて二本目を飲み干した。
数秒。
濁っていた瞳に、冷たいほどのはっきりした光が宿る。
女は目を閉じて、ひとつ息を整えた。
「……ああ」
その声は、さっきよりずっと静かだった。
「苦しい理由が、全部“彼”じゃなかったって分かるだけで、こんなに息がしやすいのね」
店主は鼻を鳴らす。
「恋って便利な名前はな、自分の足りないところをごまかす時にも使えるから厄介なんだよ」
メテスが、ぽつりと言う。
「……名前がつくと、安心する」
「でも、その名前が本当に合っているとは限りません」
リヒャルトが続けた。
女はその二人を見て、それから小瓶をそっと胸元へ抱えた。
「……ありがとう」
今度の礼は、さっきみたいにすがる声ではなかった。
「夢を見せてくれなくて、ありがとう」
店主は肩をすくめる。
「そりゃどうも」
女は踵を返し、店を出ていった。
カラン。
扉が閉まると、店主はまた乳鉢を引き寄せた。
「……店主。彼女は、これで救われるのでしょうか」
リヒャルトの問いに、店主はすぐには答えなかった。
琥珀色の結晶が、乳棒の下で細かく砕ける。
「……さあな。だが、夢で溺れ死ぬよりは、冷たい水で目が覚める方がまだマシだ」
一拍。
「人生ってのはな、夢の中で作り替えるもんじゃない。……ボロボロの現実を、なんとか繕いながら歩いていくもんだ」
「……夢は、腹の足しにならない」
メテスが短く言う。
「ですが、お腹が空いている時ほど、夢の方へ逃げたくなる夜もあります」
リヒャルトが静かに返す。
「……あるな」
店主はそれだけ言って、また乳棒を動かした。
クリムが「きゅ……(だいじょうぶ)」と鳴き、
ルゥが「わふ(……明日の朝のスープが、美味いといいな)」と静かに目を閉じる。
店主は最後に、低く独りごちた。
「……惚れ薬より、現実をちゃんと見せる劇薬の方が、よっぽど慈悲深いってことさ」




