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錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


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220/289

夢の中でだけでも彼と一緒にいられるポーションが欲しい

カラン。


乾いたベルの音が、夕方の店の中に響いた。


カウンターの奥で、店主は乳鉢を使って琥珀色の結晶をすり潰していた。

リヒャルトは届いたばかりの羊皮紙を分けていて、メテスは入口の横の棚を静かに磨いている。


「彼に恋をしたの。でも、既婚者なのよね……。だから、夢の中でだけでも彼と一緒にいられるポーションが欲しいわ」


女はカウンターにすがるようにして言った。


上等な外套を着ている。

でも、その目にあるのは余裕ではなく、深い疲れと、現実から逃げたい気持ちだけだった。


店主は手を止めず、低い声で言う。


「……夢の中で、ね」


一拍。


「うちは夢を売る店じゃない。だが、頭に都合のいい夢を見せる薬ならある」


その声で、羊皮紙を整えていたリヒャルトの手が止まった。

メテスも棚を磨く手を止め、女を見る。

責めるでもなく、ただ危ういものを見る目だった。


店主は乳鉢を置き、三本の瓶をカウンターに並べた。


コト。

コト。

コト。


一本目。淡い乳白色の液体。


「『白昼夢の枕』。深く眠らせて、今日あったことを少しぼかす薬だ。……ただ休むだけだな。明日になれば、また同じつらさで目が覚めるが」


二本目。冷たい色の蒼い液体。


「『清冽なる鏡面』。熱くなりすぎた気持ちを冷まして、自分の今の状態を落ち着いて見られるようにする薬だ。……彼への気持ちが本当に恋なのか、それとも、心の寂しさを埋めたいだけなのか、見えやすくなるだろう」


店主は三本目、毒々しいほど鮮やかで、星屑が渦を巻く紫の液体を指先で軽く弾いた。


「最後はこれだ。『極楽浄土の種』。自分の好きな夢を作って、その中で『彼』とずっと一緒にいられる」


一拍。


「……ただし、夢が綺麗なら綺麗なほど、目が覚めた後の現実は泥みたいに汚く見えるようになるがな」


女の喉が、小さく鳴った。


店主はそのまま、容赦なく続ける。


「どれにする。夢の中で愛されたいのか、それとも、現実で少しでも息をしやすくしたいのか」


女は三本目の、美しく光る紫の瓶を食い入るように見つめた。

手が震え、指先がその硝子に触れかける。


その時。


「わふ(……夢は、食い尽くされるぞ)」


ルゥが、低く重い声で鼻を鳴らした。


「きゅ……(おなかすいちゃうよ)」


クリムも悲しそうに首を振る。


女の指が、止まった。


リヒャルトが、そっと羊皮紙を脇へ置いた。


「……失礼ですが」


声はやわらかい。

でも、言葉は逃がしてくれない。


「“彼と一緒にいたい”というより、“彼がいる夢の中なら、自分を嫌いにならずに済む”のではありませんか」


女が、はっとしたように顔を上げる。


「それは……」


「彼そのものよりも、“彼を想っている自分”にしがみついているように見えます」


店の中が静まった。


言われてしまえば、否定できない。

そんな沈黙だった。


メテスが、低く短く口を開く。


「……夢は、帰ってこない」


女がゆっくりと彼を見る。


「え……?」


「入り続ければ、そっちが居場所になる」


短い。

でも、それで十分だった。


「目が覚めるたびにつらいなら、また飲む。次も飲む。最後には、起きてる方がおかしいように思えてくる」


女の唇が、かすかに震えた。


「……目が覚めた後、私はどうなるの?」


「決まってるだろ」


店主は鼻で笑った。


「その『彼』がいない現実が、昨日よりもっとつらくなる。……そしてまた、この瓶を買いに来る。自分の人生を、少しずつ夢に売りながらな」


沈黙が店を支配した。


リヒャルトが、いたたまれなくなったように目を伏せる。

メテスもそれ以上は何も言わず、棚に置いた手を引いた。


女はやがて、力なく三本目の瓶から手を離した。


そして、震える声で言った。


「……二本目を。……私、自分がどうしてこんなに苦しいのか、もう分からなくなっているの」


チャリン、と銀貨が置かれる。


店主は蒼い小瓶を指先で押しやった。


「こいつは夢を見せない。代わりに、見たくないことまで見せるぞ」


「……ええ。たぶん、今の私にはそっちの方が必要ね」


女は小瓶を握りしめた。


そのまま飲もうとして、ふと手を止める。

そして、小さく息を吐いた。


「……私、彼を好きなんだと思っていたわ」


リヒャルトが静かに顔を上げる。


「ですが、今は言い切れない」


「ええ。彼を好きだったのか、“彼を好きでいる自分”にしがみついていたのか……もう、分からない」


「それで十分です」


リヒャルトは静かに言った。


「分からないと認められるなら、まだ完全には自分を見失っていません」


女は、ほんの少しだけ笑った。

泣きそうで、情けなくて、でも少しだけ力の戻った笑みだった。


それから、栓を抜いて二本目を飲み干した。


数秒。


濁っていた瞳に、冷たいほどのはっきりした光が宿る。

女は目を閉じて、ひとつ息を整えた。


「……ああ」


その声は、さっきよりずっと静かだった。


「苦しい理由が、全部“彼”じゃなかったって分かるだけで、こんなに息がしやすいのね」


店主は鼻を鳴らす。


「恋って便利な名前はな、自分の足りないところをごまかす時にも使えるから厄介なんだよ」


メテスが、ぽつりと言う。


「……名前がつくと、安心する」


「でも、その名前が本当に合っているとは限りません」


リヒャルトが続けた。


女はその二人を見て、それから小瓶をそっと胸元へ抱えた。


「……ありがとう」


今度の礼は、さっきみたいにすがる声ではなかった。


「夢を見せてくれなくて、ありがとう」


店主は肩をすくめる。


「そりゃどうも」


女は踵を返し、店を出ていった。


カラン。


扉が閉まると、店主はまた乳鉢を引き寄せた。


「……店主。彼女は、これで救われるのでしょうか」


リヒャルトの問いに、店主はすぐには答えなかった。


琥珀色の結晶が、乳棒の下で細かく砕ける。


「……さあな。だが、夢で溺れ死ぬよりは、冷たい水で目が覚める方がまだマシだ」


一拍。


「人生ってのはな、夢の中で作り替えるもんじゃない。……ボロボロの現実を、なんとか繕いながら歩いていくもんだ」


「……夢は、腹の足しにならない」


メテスが短く言う。


「ですが、お腹が空いている時ほど、夢の方へ逃げたくなる夜もあります」


リヒャルトが静かに返す。


「……あるな」


店主はそれだけ言って、また乳棒を動かした。


クリムが「きゅ……(だいじょうぶ)」と鳴き、

ルゥが「わふ(……明日の朝のスープが、美味いといいな)」と静かに目を閉じる。


店主は最後に、低く独りごちた。


「……惚れ薬より、現実をちゃんと見せる劇薬の方が、よっぽど慈悲深いってことさ」


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