今の勤め先を辞めたい。でも、辞めたら次があると思えない
「……今の勤め先を辞めたい。でも、辞めたら次があると思えない。ここを乗り越えるためのポーションある?」
カウンターに突っ伏した女が、掠れた声で言った。
どこかの商会の事務員だろうか。
衣服は整っている。だが袖口は擦り切れ、表情には長い年月をかけて蓄積した諦めが、薄く染みついていた。
「それで?」
俺は奥の棚から、乾燥させた青い花弁をすり鉢に入れながら尋ねた。
足元では、クリムが「きゅ……」と悲しげに鳴き、
ルゥが「わふ」と、重苦しい空気を払うみたいに低く鼻を鳴らす。
少し離れた棚の前で帳面を整理していたリヒャルトが、手を止めた。
店の奥で荷を運んでいたメテスも、無言で顔を上げる。
「辞めたいなら辞めればいい。再就職が不安なら、腕を磨くか、別のツテを探せ。ここは人生相談所じゃない」
「それができないから困ってるのよ……」
女は指先で自分の袖口を握った。
「私には何の取り柄もない。この場所を離れたら、ただの『何者でもない塊』になっちゃう気がするの」
建前は将来への不安。
だが、その裏にあるのは、長年自分を縛りつけてきた環境への依存と、自分自身の価値を見失った自己嫌悪だ。
「で、お前はどうしたい。その泥沼の中で呼吸を続けたいのか。それとも、一度溺れてでも外へ出たいのか」
俺は作業を止め、三つの小瓶をカウンターに並べた。
「一本目。『沈黙の盾』。感情の起伏を平坦にする。上司の怒号も、同僚の嫌味も、雑音にしか聞こえなくなる。今の場所で耐えることに特化したいならこれだ」
女は力なく首を振った。
「……それは、もうやってるわ。心を殺して働くのは、もう限界なの」
「そうか」
俺は二本目を指で示す。
「二本目。『他者の瞳』。認識の転換薬だ。自分を『自分』としてではなく、一人の労働力として客観的に見ることができるようになる。お前の持っている技術や経験が、外の世界でどう見えるか、霧が晴れるみたいに理解できるだろう」
一拍。
「ただし、自分が思っていたより大したことないと知る可能性もある」
女の指先が、わずかに震えた。
「三本目。『灰の門出』。強力な衝動の増幅薬だ。理性も恐怖も一時的に焼き切り、『今すぐ全部捨てて飛び出す』勇気だけを与える。明日、目が覚めた時には、お前はもう退職届を叩きつけてるだろう。その後の保証は一切ないがな」
女の視線が、三本目の激しく泡立つ紅い液体に吸い寄せられた。
現状を壊したい。
その危うい欲が、顔に出ている。
「……きゅきゅ」
クリムが、女の袖を小さく引いた。
女がはっとして視線を落とす。
クリムは、まるで「そっちは熱いよ」とでも言うみたいに、紅い瓶ではなく二本目の方を見上げていた。
「わふ」
ルゥも短く鳴く。
低く、落ち着いた声だった。
飛び出す前に、一度立ち止まれ。そう聞こえる声だった。
店の隅で本を読んでいたリヒャルトが、顔を上げずに口を開く。
「……籠の鳥は、扉が開いていても外へ出ないことがあります。外が怖いからではなく、籠の中の餌の取り方しか知らないからです」
重い荷を抱えたまま、メテスも短く言葉を添えた。
「……羽があるなら、一度くらい、折れるまで使ってみればいい」
女は長い沈黙の後、震える手で二本目の小瓶――『他者の瞳』を手に取った。
「……三本目を飲んで、全部壊してしまえたら楽でしょうね」
掠れた声だった。
「でも、それじゃまた別の籠を探すだけになる気がする。私が本当に何を持っていて、何を持っていないのか……それを知るのが、一番怖いけど、必要な気がするわ」
「賢明だな。人生はポーションじゃ変わらない。お前を雇うかどうかを決めるのは、ポーションを飲んだお前じゃない。お前の腕そのものだ」
俺は銀貨を受け取り、小瓶を押しやった。
女は栓を抜き、覚悟を決めたように飲み干した。
数秒後。
濁っていた瞳に、冷徹なほどの透明感が宿る。
女は自分の手を見つめ、それから頭の中で履歴を並べ直すみたいに、静かに目を閉じた。
「……あ」
小さな声が漏れる。
「私、思っていたより、無能じゃないかもしれない」
「切れるのは一晩だ。その間に、自分という道具の使い方を考えろ」
女は立ち上がった。
最初に来た時より、ほんの少しだけ背筋が伸びている。
扉へ向かう、その足元にクリムがちょこんと寄る。
「きゅ」
女は一瞬だけしゃがみ込み、クリムの頭をそっと撫でた。
「……ありがとう。危ない方を選ばずに済んだわ」
ルゥがその横で、静かに尾を一度だけ振る。
「わふ」
今度の声は、送り出す声だった。
女は小さく笑って、店を出ていった。
カラン、と扉が閉まる。
「……わふ」
ルゥが、少しだけ軽くなった足音を見送って鼻を鳴らす。
「ああ。次は『新しい職場のストレスに効く薬』を買いに来るか、あるいは……全く別の顔をして、冒険者にでもなるか。どっちにしろ、あいつ次第だ」
俺は再び、すり鉢で青い花弁を磨り潰し始めた。
クリムは、女が座っていた場所に落ちた細かな粉を前足で集めながら「きゅ」と鳴く。
ルゥはその横で、もう怒鳴り声の残り香が消えたことを確かめるように、ゆっくり伏せた。
「クリム、こぼした粉を片付けておけ。リヒャルト、お前もいつまでも読んでないで、次の調合の準備だ」
「きゅ!」
「……はいはい。店主の『お休み』が必要な顔、まだ治ってませんよ」
「……怪しい」
メテスが短く足した。
「うるさい。仕事だ」
窓の外では、風が、古い街並みを静かに通り抜けていた。




