いつもすぐ返信が来るのに…浮気かも
カラン。
扉が開き、目の下に酷いクマを作った若い男が、ふらつく足取りで入ってきた。
彼の手には、淡く文字が光る小さな水晶板――
通信魔道具が、指の関節が白くなるほど強く握りしめられている。
「店主……っ。彼女が、浮気してるかもしれないんだ。それを暴くポーションをくれ……!」
男は血走った目で、カウンターにすがりついた。
「俺よりいい男を見つけたのかも……!
一緒に過ごしたいから結婚しようって話も、はぐらかされたんだ! いつもすぐ返信が来るのに、今はもう三時間も……」
店主は乳鉢で薬草を擂る手を止め、冷ややかな視線を男の手元に落とした。
「心配なら会いに行けばいいだろう?」
「遠距離恋愛なんだ……」
男は通信魔道具をぎゅっと胸の前で抱いた。
まるで、それだけが彼女との繋がりだと言わんばかりに。
「……ちなみに、どこで知り合った女だ」
「ああ。通信魔道具の婚活網で……っ。
まだ直接会ったことはないけど、毎日やり取りしてるんだ!」
ぴたり、と。
リヒャルトの羽ペンが止まった。
「……失礼ですが」
リヒャルトが、完璧な笑顔のまま、一切笑っていない目で男を見た。
「一度も触れたことのない『文字の羅列』に対して、ご自身の人生を懸けた求婚をなされたと? それは少々、踏むべき手順を大きく見誤っておいでではないでしょうか」
「うるさい! 俺たちは文字だけでも深く繋がってるんだ!」
「……見えない敵に怯えるのは、ただの自滅だ」
メテスが店の隅から、短く重い事実を落とす。
「……触れられない距離は、守れない」
男が言葉に詰まる。
店主は深く、心底呆れたようなため息をつき、カウンターの下からコト、コト、と三本の小瓶を並べた。
一本目。赤黒い液体。
「『遠隔読心』の劇薬だ。これを飲めば、遠く離れた相手の悪意や嘘が文字から透けて見える。……もっとも、相手の些細な不満まで全部拾っちまうから、三日で精神が焼き切れるがな」
二本目。どろりとした紫の液体。
「『返信強要』のインクだ。これで手紙を書けば、相手は呪いに縛られてお前以外見えなくなる。……ただの操り人形と結婚したいなら、これを使え」
男が息を呑み、魔道具を握る手を震わせた。
店主は最後に、一番地味な小瓶を前に押し出した。
三本目。淡く透き通る液体。
「『文字ぼやけポーション』だ」
男が、赤く充血した目を瞬かせる。
「……なんだ、それは」
「目のピントを合わせる筋肉を、一時的に強制弛緩させる薬だ。これを飲めば、お前はしばらくの間、手元の小さな文字がブレブレになって一切読めなくなる」
「なっ……!? そんなことしたら、彼女からの返信が……!」
「読めなくていいんだよ」
店主が冷徹に言葉を遮る。
「お前が恋してるのは、生身の女じゃない。手のひらの中で都合よく光る『文字』だ。結婚ってのは、魔道具の中じゃなく、同じ床の上で同じ飯を食うことだろうが」
一拍。
「小さな水晶板の向こう側を疑って、目を血走らせてる暇があるなら、そのポーションで手元の視界をぶっ潰せ。……そして文字が読めない間に、荷物をまとめて自分の足で会いに行け。相手が本物かどうかは、お前の目で直接見て決めろ」
男は三本の瓶を見つめ……やがて、震える手で三本目のポーションを手に取った。
一気に飲み干す。
やがてゆっくりと目を開けた男は、慌てて手元の通信魔道具を覗き込んだ。
「あ……!? 見えない、文字がぼやけて……っ!
どうしよう、今、彼女から大事な連絡が来てたら……!」
男は血相を変え、通信魔道具を顔に近づけたり遠ざけたりと、滑稽なほど必死にピントを合わせようとする。
しかし薬効によって、文字はただのぼやけた光の線にしか見えない。
数分間、無反応の水晶板と格闘した末に――
男の手が、ふっと止まった。
「……あれ」
男は、ただ光るだけの冷たい水晶板と、それに縋り付いている滑稽な自分の姿に気づいたように、ぽつりと呟いた。
「俺、こんな魔道具に向かって……何やってんだ……?」
強張っていた男の肩から、憑き物が落ちたように力が抜ける。
男は自嘲気味に苦笑し、通信魔道具をポケットの奥深くにねじ込んだ。
「……ありがとう、店主。俺、直接会いに行ってくるよ。ちゃんと顔を見て、自分の目で確かめてくる」
男は銀貨を置き、入ってきた時の暗さが嘘のような、すっきりとした足取りで店を出ていった。
カラン。
扉が閉まると、リヒャルトが上品な手つきで帳簿を閉じた。
「……失礼ですが、便利な道具も、使う人間の足まで止めてしまっては本末転倒なのですね」
メテスが、カウンターの銀貨を無言で引き寄せる。
「……距離は、足で縮めるものだ。……水晶板では走れない」
「きゅ!(いってらっしゃい!)」
クリムが元気よく鳴き、
ルゥは扉の方を一瞥してから、静かに目を閉じた。
「わふ(まずは会ってこい)」
店主は再び乳鉢を引き寄せながら、鼻を鳴らした。
「……ったく。顔も見てねえ相手にプロポーズなんざ、錬金術の釜に目隠しで素材を突っ込むようなもんだってのにな」




