ぎっくり腰に効く、強いポーションが欲しい
ガラン……。
昼下がり。
アトリエの扉を、くの字に腰を曲げた初老の男が、痛みに顔を歪めながら押し開けた。
「……すまん。ぎっくり腰に効く、強いポーションが欲しい……」
「……」
カウンターで帳簿をつけていた店主は、客の様子を一瞥し、淡々と返す。
「……怪我や痛みの治療なら、薬師の店か治癒院へ行け。うちは錬金術のポーション屋だ」
「違うんだ。……なら、ついでに頼む」
客は腰を押さえたまま、すがるような目で店主を見た。
「物忘れを遅らせるポーションを、くれ……」
店内の空気が、ふっと変わる。
薬草の仕分けをしていたリヒャルトが手を止め、
剣の手入れをしていたメテスも静かに客を見つめた。
「最近、どうにも忘れっぽくてな。昨日も、大事な納品の約束をすっぽかしかけた。……頭の中から、記憶がぽろぽろこぼれ落ちていくみたいで、怖いんだ」
店主はペンを置き、客の不自然に強張った肩と、震える指先をじっと観察した。
「……お前、その腰をやったのはいつだ?」
「え? 今朝だ。床に落ちたメモ帳を慌てて拾おうとして、ピキッと……」
「メモ帳、だと?」
「ああ。絶対に忘れないように、何でも書いてポケットに入れてる。寝る時も、常に確認できるように枕元に置いて、いつでも手が届くように力んでる……」
「……やっぱりな。お前の腰の痛みは、ただの老化や不注意じゃない」
客が、きょとんと目を瞬かせる。
「『忘れることへの恐怖』だ。四六時中、記憶を逃すまいと脳をフル回転させ、全身の筋肉を極限まで緊張させてる。そんなガチガチに強張った状態で急に動けば、背骨を支える筋肉が悲鳴を上げるに決まってるだろうが」
「……っ」
店主はため息をつき、カウンターの下から淡い銀色の液体が入った小瓶を取り出した。
「……『脳髄の余白拡張薬』だ。海馬の血流を強制的に促進し、凝り固まった脳神経の過緊張を魔術的に解きほぐす」
「これを飲めば、物忘れが治るのか?」
「治らん。一度こぼれ落ちた記憶を蘇らせる魔法なんてない」
冷酷な事実の宣告に、客の顔が絶望に沈みかける。
だが、店主は小瓶を客の前に突き出した。
「だが、お前が今やってるのは『記憶を保つ』ことじゃない。ただ『忘れることに怯えている』だけだ。脳みその容量には限界がある。古い情報や、どうでもいい日常のノイズを捨てないと、新しい記憶を入れる『余白』が作れないんだよ」
「余白……」
「忘れることは、脳が正常に働いてる証拠だ。すべてを握りしめようとして身体を壊すくらいなら、この薬で脳の緊張を解け。……『忘れても死にはしない』と、腹を括れ」
客は銀色の小瓶を見つめ、やがて震える手で栓を抜いた。
一気に飲み干す。
その瞬間。
「……あ」
常に上がりっぱなしだった客の肩が、ふっと下がる。
強張っていた顔の筋肉が緩み、張り詰めていた呼吸が、深く長く吐き出された。
「……なんだ。俺、こんなに……全身に力が入ってたのか……」
「……腰の痛みは?」
無言で客の背後に立っていたメテスが、ぽつりと尋ねる。
「……嘘みたいに、軽い。もちろん痛みはあるが、さっきみたいに息が詰まるような苦しさはない……」
「脳の過緊張が解けて、全身の筋肉が弛緩した副産物だ。……メモ帳は、必要な時だけ見ろ。寝る時は引き出しの奥にしまえ」
客は深く、本当に深く息を吸い込み、穏やかな顔で銀貨を二枚置いた。
「……ありがとう、店主。俺、今日はもう、メモを見ずに寝てみるよ」
客は入ってきた時よりも、ずっと背筋を伸ばして店を出ていった。
ルゥが「わふ(ゆっくり休め)」と鼻を鳴らし、
クリムが「きゅ(お大事に)」と見送る。
「……店主。また『ついで』の方の病を、見事に治してしまいましたね」
リヒャルトが、薬草の束を棚へ戻しながら微笑む。
「勘違いするな。俺はただ、脳の血流改善薬を売っただけだ。……腰の治療費はもらってない」
店主はそっぽを向きながら、銀貨を帳簿の脇へ引き寄せた。




