自分の存在を、この街の誰の記憶からも消したい。
ガラン。
乾いたベルの音が、午後の淀んだ空気を切り裂いた。
西に傾き始めた太陽が、低く鋭い光を店内に投げ入れている。
舞い上がった埃が、光の柱の中で金色の砂のように踊り、棚に並ぶ無数の瓶が、その影を床へと長く引き摺っていた。
リヒャルトはカウンターの端で、西日に目を細めながら、届いたばかりの乾燥根の重さを量っていた。
フェアシュメテスは入り口の影に身を潜めるように立ち、開いた扉から流れ込む外の喧騒を、無機質な視線で迎え撃つ。
入ってきたのは、仕立てのいい服を着た、だが肩の線が酷く崩れた男だった。
彼は店の中を一度も見渡さず、吸い寄せられるようにカウンターへ歩み寄った。
「店主……消したいんだ。自分の存在を、この街の誰の記憶からも」
男は震える指先をカウンターの縁に掛け、縋るように言った。
「……存在消去か。それとも、ただの夜逃げの準備か」
店主は真鍮のピンセットを使い、小瓶の口を脱脂綿で丁寧に拭っていた。
「違う! 俺は、完璧な人間だと思われてきた……。だが、昨日、たった一度の失敗をした。それだけで、あいつらの目が変わったんだ。憐れみ、蔑み、嘲笑……。耐えられない。俺を知るすべての人間から、俺という情報を剥ぎ取りたいんだ」
リヒャルトが天秤を止め、静かに男を観察した。
「……他人の評価という鏡を、自分の顔だと思い込んでしまったのですね」
フェアシュメテスが影の中から、感情を削ぎ落とした声で呟く。
「……戦場じゃ、死んだ奴から順に忘れられる。生きていながら忘れられたいというのは、死ぬより贅沢な望みだ」
「うるさい! お前らに何が分かる! 俺の積み上げてきたすべてが、あの瞬間に崩れたんだ!」
店主はピンセットを置き、男の虚ろな瞳を正面から見据えた。
「……崩れたのはお前のメッキだろ。中身は最初から、そんなもんだ」
店主は棚を見上げ、三本の瓶をカウンターに並べた。
コト。
コト。
コト。
一本目、透明な液体。
「認識阻害ポーションだ。他人の視界に入っても、ただの背景として処理されるようになる。……もっとも、誰からも声をかけられない孤独に耐えられるならだがな」
二本目、薄紫色の液体。
「視線鈍化ポーション。周囲の視線を鈍らせ、お前の失敗を必要以上に大きく見せなくする。……安っぽい延命措置だが、今のお前にはちょうどいいかもな」
店主は三本目、濁った灰色の液体を前に押し出した。
「最後はこれだ。……自己受容ポーション」
男が眉をひそめる。
「自分を受け入れる……? そんなことで、あいつらの目は変わるのか」
「変わらない。……だが、お前が自分の失敗を笑えるようになれば、あいつらの目はただの景色に変わる」
一拍。
「他人の記憶をいじって得た平穏なんて、砂の城だ。……失敗した自分を、潔く抱えて歩け」
男は三本の瓶を見つめ、やがて金貨を一枚置いた。
チャリン。
「……一番目を。……今はまだ、誰の目にも触れたくない」
カラン。
扉が閉まり、店の中に再び西日の沈黙が戻る。
リヒャルトが、どこか切なげに呟いた。
「……店主。彼は、いつか自分の足跡を誇れるようになるでしょうか」
店主は返事の代わりに、再びピンセットを手にした。
「……消えたいと願ううちは無理だ。……影が消えるのは、光の中に飛び込んだ時だけだ」
クリムが「きゅ!(恥ずかしくないよ!)」と鋭く鳴き、
ルゥが「わふ(完璧な人間なんて、剥製にでもなるしかないな)」と、静かに目を閉じた。
店主は最後の一瓶を棚に戻すと、独りごちた。
「……他人の記憶を気にする暇があるなら、自分の足元を固めるこった」




