幻のレシピと、胃薬の使い道
ガラン……。
昼下がり。
アトリエの扉を這うように開けたのは、げっそりと頬をこけさせた若い男だった。
「店主……一番強い、胃薬をくれ……」
「……いらっしゃい。随分と顔色が悪いな。腐ったオークの肉でも食ったか」
カウンターの奥で、店主が帳簿から顔を上げる。
「嫁の、手料理だ……っ」
「……毒劇物の類ですか? 中和剤を出しますよ」
薬草を刻んでいたリヒャルトが、すかさず解毒薬の棚へ手を伸ばす。
「違う! 毒じゃないんだ! 嫁の料理は普通に美味いんだよ! ……ただ、俺が『お袋の味』をリクエストしてしまったせいで……っ」
客はカウンターに突っ伏し、涙ながらに語り始めた。
「お袋が直接、嫁に実家の味――秘伝の煮込み料理を教えてるんだ。分量も手順も、隣でつきっきりで。なのに、嫁が作ると……どうしても、あの味にならないんだよ!」
「……それで?」
「『なんか違う』って俺が正直に言ったら、嫁が泣きながらキレて……『どこが違うのよ!』って、失敗作の鍋を三日連続で俺に食わせ続けてるんだ……胃が、限界だ……」
「……自業自得だ」
剣を磨いていたメテスが、一切の慈悲もない声で切り捨てる。
「頼む店主! 嫁の味覚を正確に調整して、お袋の味を完全再現できるポーションをくれ! このままじゃ家庭崩壊だ!」
店主は深くため息をつき、カウンターの下から淡い緑色の液体が入った小瓶を取り出した。
「……ただの胃薬だ。味覚を弄るポーションなんか売らねえよ」
「なんでだよ!」
「あのな。同じレシピ、同じ分量でも、同じ味になるわけがないだろうが」
「なんでだよ! 錬金術だって、レシピ通りに作れば同じ薬ができるだろ!?」
「馬鹿かお前は。鍋の微細な焦げ付き具合、火を焚く薪の湿気、かき混ぜる時の手の温度……。素人が『同じ』だと思ってる条件なんて、俺たちプロから見れば穴だらけだ」
一拍。
「それに、何より一番のノイズは……お前自身の『思い出補正』だ」
「思い出、補正……?」
「お袋の味ってのはな、ガキの頃の安心感とか、腹を空かせて帰ってきた時の記憶とか、そういう『情報』が全部乗っかって完成してるんだ。今の嫁さんが塩加減も火加減も完璧に真似たところで、お前の脳内にある『美化された思い出の味』には一生勝てねえよ」
客が、はっとして言葉を失う。
「……嫁さんは、お前を喜ばせようとして、慣れない味を必死に真似ようとしてくれてるんだろ。その努力を『昔と違う』の一言で切り捨てるから、胃を痛めるんだ」
客は緑色の小瓶を見つめ、ごくりと喉を鳴らした。
「思い出は思い出のままにしろ。
……『新しいお前の家の味』を、
これから二人で作っていけばいいだろうが」
静まり返る店内。
客は震える手で胃薬の栓を抜き、一気に飲み干した。
「……店主。俺、帰って、嫁に謝ってくる。今の料理でも十分美味いって、ちゃんと伝えるよ」
「ああ。……銀貨一枚だ。次からは胃が荒れる前に口の利き方に気をつけろ」
客は代金を支払い、入ってきた時よりはずっとしっかりした足取りで帰っていった。
ルゥが「わふ(学べよ)」と鼻を鳴らし、
クリムが「きゅ(奥さんが可哀想)」と鳴く。
「……店主。なんだかんだで、素晴らしい人生相談でしたね」
リヒャルトが静かに言う。
「……いい話だった」
メテスも小さく頷く。
「お前ら、手を動かせ。俺はただ、不可能を可能にしろとゴネる馬鹿に、物理法則と脳科学の現実を叩き込んだだけだ」
店主は鼻を鳴らし、帳簿へ視線を戻した。
アトリエ・くぼ地には、今日も平和な胃薬の香りが漂っている。




