壊れたものを、元に戻すポーションが欲しい。
カラン。
「……壊れたものを、元に戻すポーションが欲しい」
「アトリエ・くぼ地」の扉を押し開けた男は、髪をぐしゃぐしゃに掻き回し、今にも膝をつきそうな顔で俺を見た。
俺は乳鉢を回す手を止め、死んだ魚みたいな目で男を一瞥する。
「うちはポーション屋だ。修繕屋か、魔道具の修理工房へ行け」
「そうじゃない……」
男は喉を鳴らした。
「物じゃないんだ」
カウンターの縁にかけた指先が、小刻みに震えている。
「信用を失って……しまって……。どうしても、元に戻したいんだ」
「……誰のだ?」
男はすぐには答えなかった。
口を開きかけては閉じる。
視線が泳ぐ。
逃げ場を探している目だった。
「……嫁の」
俺は乳棒を作業台に置いた。
背後で薬草を仕分けていたリヒャルトの手が止まり、棚の影で剣を磨いていたメテスが、氷みたいな視線を男に向ける。
「何をやってそうなった?」
「……その……」
男の唇が引きつる。
「酒の席で、ちょっと……魔が差したというか……」
俺は黙って出入り口の方を指した。
「出口はあっちだ。二度と来るな」
「きゅっ!(最低!)」
クリムが毛を逆立てて威嚇し、ルゥは汚物を見るような目で男から距離を置いた。
「ま、待ってくれ! 追い返さないでくれ!」
男が半歩踏み出す。
「本当に、もう終わりかもしれないんだ……! 家に帰っても、あいつ、俺の顔もまともに見ない。謝っても黙るだけで……それが余計に怖くて、俺も、何を言えばいいかわからなくなって……」
「……浮気、しました」
最後は、吐くみたいに言った。
店の空気が冷えきる。
「……最低だ。斬るか?」
メテスが音もなく男の背後に立ち、柄に手をかけた。
男が「ひいっ」と短い悲鳴を上げる。
「待てメテス、床が汚れる」
俺はため息をついた。
「……おい、あんた。錬金術を何だと思ってる? 割れた硝子を元の形に戻す呪文なんてねえんだよ。ましてや人の心だ。失った信用を『なかったこと』にする薬なんて、この世に存在しねえ」
「でも、何か……何か方法があるはずだ! 怒りを鎮めるとか、許してくれるようになるとか、そういう――」
「ねえよ」
俺は棚の最下段から、どろりと濁った茶褐色の小瓶を取り出した。
「……それは?」
「『鉄の沈黙薬』だ。あんたが欲しがってる『魔法の解決』とは程遠い代物だがな」
小瓶をカウンターに置く。
乾いた音がした。
「いいか。信用を壊した側にできるのは、綺麗な謝罪を並べることじゃない。相手の怒りも、軽蔑も、泣き声も、沈黙も、逃げずに受けることだ」
男が息を詰める。
「だが、今のあんたは逃げ腰だ。責められりゃ逆ギレする。耐えきれなくなれば、嘘を混ぜて話を薄める。あるいは、自分も辛いんだと被害者ぶる。そうだろう?」
男の肩がびくりと跳ねた。
図星だった。
「この薬は、あんたの舌の根を物理的に強張らせ、胃の腑に鉄の重みを沈める。喉まで出かかった見苦しい言い訳は、その重みで押し潰される」
俺は男の顔をまっすぐ見た。
「あんたは、嵐みたいな怒りの前で黙って立つしかなくなる。どれだけ罵倒されても、どれだけ泣かれても、逃げずに聞き切る。その体力だけを、無理やり持たされる薬だ」
「そんな……」
男の顔が歪む。
「それは、拷問じゃないですか」
「そうだ」
俺は即答した。
「信頼を壊した奴に与えられるのは、拷問みたいな時間だけだ。甘い言葉で許してもらえると思うな。あんたが欲しがってるのは、許しじゃない。苦しい時間を飛ばす抜け道だ」
男が唇を噛んだ。
「……違う」
「違わねえよ」
俺は切った。
「本当に腹を括ってるなら、『元に戻したい』なんて言葉は先に出てこない。まず『何年かかっても受ける』って言うもんだ」
静かになった。
男は小瓶を見つめたまま動かない。
情けない顔だった。
見苦しいくらい、怯えていた。
だが、逃げなかった。
「……ください」
声は掠れていた。
「俺、あいつに怒鳴られるのも、泣かれるのも、正直怖いです。黙られるのはもっと怖い。……でも、それでも逃げたくないんです」
俺は小瓶を指先で押し出した。
「ほらよ。銀貨五枚だ。……二度と、こんなことでうちの敷居を跨ぐなよ」
男が銀貨を置く。
指先が汗で濡れていた。
小瓶を掴んで、しばらく離さない。
それからようやく、深く頭を下げた。
「……行ってきます」
その背中は、格好悪かった。
みじめで、頼りなくて、どうしようもなく遅い。
だがさっきまでみたいに、逃げ場だけを探している背中ではなかった。
カラン。
扉が閉まると、店内にはまた静けさが戻った。
「……店主。あの薬、本当は胃の粘膜を保護して、吐き気を抑えるだけの苦い水ですよね?」
リヒャルトが、呆れたように尋ねる。
「……ああ。あんな奴に本物の貴重な素材を使うのはもったいねえ。要は『腹を据えて、黙って聞いてこい』ってだけの話だ」
「……自業自得だ」
メテスが短く断じ、再び剣を磨き始める。
俺は乳鉢を引き寄せ、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……ったく。壊すのは一瞬、直すのは一生。錬金術の基本もわかってねえ奴が多すぎるな」
「店主」
リヒャルトが冷めた紅茶を片付けながら、ぽつりと口を開く。
「彼はなぜ、あんなに手放したくないものを、自分で壊すような真似をしたのでしょうね」
「……さあな」
俺は汚れた乳鉢を脇へ除け、カウンターに背を預けた。
「そんなもん、煮詰めたところでロクな成分は出てこねえよ」
一拍。
「あえて錬金術師的に言うなら、『日々のメンテナンス不足』だ」
棚の隅にある、古びて煤けた小瓶を指差す。
「どんなに上等なポーションも、蓋を開けっ放しにすりゃ気化するし、澱も溜まる。人間関係も同じだ。当たり前にある安心に胡坐をかいて、手入れをサボる。そうして中身が鈍ってるところに、外の刺激が入る」
俺は鼻で笑った。
「すると、安っぽい劇薬が、やけに効きそうな特効薬に見えるんだよ」
「……目移り。集中力不足だ」
メテスが短く断じ、研ぎ澄まされた剣を鞘に収めた。
パチン、と硬い音が店内に響く。
「……そういうことだ」
俺は再び乳鉢を引き寄せる。
「目の前にある一番大事な素材の価値を忘れて、不純物の混じった『新しさ』に手を出す。何を失うかも考えずに動く馬鹿のやることだ」
薬草を擂る。
さっきより少しだけ、丁寧に。
「さて。説教はこれぐらいだ。次の客が来る前に、床でも拭いておけ。毒気が残ってちゃ、いい薬は作れねえからな」




