職場へ向かう通勤時間がキツい
朝。
まだ空気が完全に起ききっていない時間帯。
店の扉は開いているが、客が来るには少し早い。
棚の前で俺が瓶の残量を確認していると、
外からため息を引きずるような足音が近づいてきた。
――この音は、分かる。
ガラッ。
入ってきたのは、仕事着のままの人。
鞄を肩から外す力もなく、椅子に腰を落とす。
開口一番、ぽつり。
「……職場へ向かう通勤時間が、キツいんです」
怒りじゃない。
愚痴でもない。
ただの事実報告みたいな声。
俺は頷き、まず確認する。
「長い?」
「長いです」
「混む?」
「地獄です」
「早い?」
「早いです」
即答。
ああ、これはもう条件が揃いすぎている。
「……身体が辛いか、心が辛いか」
少し考えてから、首を振られる。
「両方です」
正直だ。
こういう人は、もう限界が近い。
俺はカウンターの下から箱を引き出し、小瓶を三つ並べる。
「まず言っとく」
視線を合わせる。
「“通勤を楽しくするポーション”はない」
相手が苦笑する。
「ですよね……」
「でもな」
一本目を前に出す。
◆一本目
【出発前の抵抗感を下げるポーション】
「これ」
瓶はごく薄い色だ。
「通勤がキツい理由の半分は、
“移動そのもの”じゃなくて
“行かなきゃいけないという重さ”だ」
相手の指が、無意識に鞄の持ち手を握り直す。
「家を出る瞬間、
身体が一瞬だけ固まるだろ」
「……します」
「その“止まり”を、
少しだけ滑らかにする」
説明を続ける。
「元気になるわけじゃない。
気合が入るわけでもない。
ただ、出るまでの摩擦が減る」
◆二本目
【移動時間用・思考散らしポーション】
次の瓶を置く。
「通勤中、頭の中どうなってる?」
相手は目を伏せる。
「仕事のこと。
今日やること。
失敗したらどうしようとか……
まだ始まってもないのに」
「だろうな」
頷く。
「このポーションは、
“考えるな”じゃなくて
“一点に集中しすぎるのを防ぐ”」
瓶を軽く揺らす。
「音、景色、人の流れ。
現実の情報に、
意識がちゃんと分散する」
少し間を置いて。
「結果、
“まだ起きてない仕事”に
心を持っていかれなくなる」
相手の表情が、ほんの少し緩む。
◆三本目
【帰還前提ポーション】
最後の一本。
色は、あたたかい。
「これが一番大事だ」
相手を見る。
「通勤がキツい人ほど、
“帰ること”を考えてない」
「……え?」
「いや、考えてる。
でもな」
言葉を選ぶ。
「“ちゃんと戻れる”って感覚が、
心の奥で薄れてる」
瓶をそっと置く。
「このポーションは、
“今日は帰る日だ”っていう前提を
身体に残す」
相手が息をのむ。
「行くための薬じゃないんですか……?」
「違う」
首を振る。
「戻る前提で行くためのやつだ」
しばらく、沈黙。
それから、ぽつり。
「……通勤って、
戦いの始まりだと思ってました」
「だからキツい」
即答する。
「戦いは職場でやれ。
移動まで戦場にするな」
クリムが棚の上で丸くなり、
ルゥが入口をちらりと見てから伏せた。
俺は最後に、少しだけ声を落とす。
「通勤が辛いってのはな、
甘えじゃない」
相手が顔を上げる。
「毎日、自分を削って
“同じ場所に向かい続けてる”ってことだ」
少し笑う。
「それ、十分しんどい」
相手は、深く深く息を吐いた。
「……誰にも、
分かってもらえないと思ってました」
「分かるやつは、分かる」
瓶を包みながら言う。
「今日はな、
全部効かせなくていい」
鞄に渡す。
「一本でもいい。
“今日を越える分”だけ使え」
立ち上がるその人の背中は、
来たときよりほんの少し軽い。
扉が閉まる。
朝の光が、店に戻る。
俺は棚を見て、独り言。
「……通勤は、
冒険の前の準備段階だ」
クリム「きゅ(前哨戦つらい)」
ルゥ「わふ(でも帰還前提、大事)」
この店は、
人生を変える場所じゃない。
今日を行って、帰ってくるための場所だ。




