婚約破棄? え? そもそも私たち婚約していましたか?
伯爵令嬢パトリシアはサングーマ侯爵夫人主催の夜会に招かれていた。
気乗りのしない招待だったが、両親から「行きなさい」と諭されたので足を運んだのである。
サングーマ侯爵家の嫡男フランコとは昔馴染みである。しかしながら、彼との相性は壊滅的に悪かった。
高圧的で威圧的、貴族の青い血に誇りを持つだけならまだしも、平民を見下し下民と嘲る。
貴族と平民の階級の差に驕る貴族は多い。
パトリシア自身も生粋の貴族として、気づかないうちに壁を作っているかもしれない。
だが、孤児院への訪問などを積極的に行っている彼女は、目に見えて平民を下に見るフランコが好きではない。
(早く帰りたいなぁ)
輝くシャンデリアに磨き抜かれた大理石の床。場に花を添える流行の音楽。
煌びやかな夜会は、楽しげに見えて酷く気を使う場所だ。貴族同士の情報交換の場なので、一瞬たりとも気が抜けない。
弟にエスコートしてもらい会場に入ったが、弟は挨拶回りで傍を離れている。
声をかけてくれる知り合いたちと少しの会話を楽しみつつ会場をぶらついていると、急に流れる音楽が変わった。
主賓の登場を示す音楽にパトリシアが視線を滑らせると、フランコが派手な令嬢を連れて入ってくる。
(あれはクロエ子爵令嬢? 婚約の発表があるのね)
侯爵令息と子爵令嬢では同じ貴族と言え上流貴族と下流貴族で多少の身分の差がある。
とはいえ、器量良しであればギリギリ見逃せる範囲だ。
身分にこだわるフランコはてっきり同じ侯爵家の令嬢と結ばれると思っていたので、子爵令嬢を婚約相手に選んだのは少し意外ではあった。
(これで彼も少しは落ち着くといいわね)
古馴染みゆえにこういうパーティー会場で声をかけられることも多く、そのたびに嚙み合わない会話と価値観のズレに戸惑っていたのだ。
とはいえ、固定の相手が出来たのであれば、むやみやたらと話しかけられることも減るだろう。
(それに、どのみち私は明後日には――)
思考はそこでいったん中断された。
華やかに入場してきたフランコの得意げな視線が、なぜかパトリシアに注がれていたからだ。
「?」
なぜかクロエ子爵令嬢も彼女をまっすぐ見ている。
その瞳に蔑みの色を見て取って、わずかに眉を寄せた彼女の名をフランコが高らかに呼んだ。
「パトリシア・ヴェルガン! 貴様との婚約を――破棄する!!」
ぱち。ぱちぱち。瞬きを繰り返す。
いつの間にか傍から人が距離をとっていたので、ぽっかりと空いた空間で、パトリシアは眉を顰めた。
「フランコ様、それはどういう」
「しらばっくれるか! 貴様は可憐なクロエに醜い嫉妬をし、酷い嫌がらせをした! まごうことなき悪女だ! 由緒ある我が侯爵家の妻として相応しくない。よって婚約は」
「私たち、いつ婚約していたんですか?」
「――は?」
パトリシアはフランコと婚約を結んだ記憶など、欠片もない。
どんなに昔の記憶をさかのぼっても、そんな事実は存在しない。
ため息を吐いて、彼女はなにか盛大に思い違いをしているらしい古馴染の勘違いを訂正するために口を開いた。
「私の婚約者は別にいらっしゃるはずなのですが」
「え?」
「辺境伯のアンドレ・ディアール様です」
「なに?!」
驚愕を露わにするフランコにパトリシアはにっこりと微笑む。貴族の令嬢としての極上の笑み。
フランコの隣で戸惑っているクロエに視線を滑らせると、彼女はびくりと肩をすくめた。
派手な外見に似合わず肝は太くないらしい。
「フランコ様をよろしくお願いしますね、クロエ様」
癖がある方ですけど。と内心で付け加える。
「では、私はこれにて。どうやら呼ばれた理由も理由のようなので」
ちらりと観衆に紛れて事態を見守っている弟を見ると、彼は小さく頷いた。
弟とはいえ、次期当主だ。許可をもらったので、堂々と退場できる。
「ま、まて! パトリシア!!」
「お話は終わりましたよ?」
「僕は!!」
婚約破棄を突き付けた相手と、そもそも婚約していないのだから面倒な書類の処理がなくなったことを喜べばいいものを。
なぜか引き留めてくるフランコにパトリシアは内心でため息を吐く。
昔から、彼は天邪鬼な性格だった。
きっと、この断罪劇擬きにも彼には彼の思惑があるのだろうが、そんなものはパトリシアの知ったことではない。
「私は明後日にはディアマール領に嫁ぎます。貴方と会話を交わすのも、これが最後です」
先日、十六歳の誕生日を迎えたパトリシアはこの国では成人扱いで、いつでも結婚できる。
彼女より三年早く成人している先方からなるべく早く嫁いでほしいと繰り返し打診されているのもあって、明後日には国境沿いの辺境伯領へと赴き、ディアール家の女主人になる予定だった。
「なんだと?!」
声音に焦りを見せるフランコが、パトリシアを糾弾するようにヒステリックに叫ぶ。
「僕と結婚の約束をしておきながら! とんだ尻軽だ!!」
「……はぁ。結婚の約束、ですか?」
怪訝な表情を隠しもしないパトリシアにフランコはさらに言い募る。
「七歳の頃! 我が家の庭園だ!!」
「――ああ! そんなこともありましたね。子供の口約束を本気にしておられたのですか?」
暫しの沈黙の末に該当する記憶を掘り当てたパトリシアは長年の執着の理由を知って得心した。
一方で、だからといっていくらなんでも、と思う部分も大きい。
「とはいえ、あれは貴方が勝手に告白して立ち去った、と記憶していますが」
「な、な……!」
了承した記憶もないし、サングーマ侯爵家とヴェルガン伯爵家の間で正式に婚約に関するやり取りがあったわけでもない。
貴族の婚約や結婚は契約だ。書面で残っていないものは意味がない。
特に、幼い子供の口約束を本気にするなど論外だ。
その上、口約束というか、当時も一方的に言い募られて困惑した記憶しか彼女には残っていない。
彼の中でどんな美しい記憶に仕立て上げられているのか知らないが、全てはフランコの早とちりだ。
「僕が傍においてやろうというんだ! 喜べ!!」
「お断りします。私の心はアンドレ様のものですので」
アンドレを呼ぶパトリシアの声音には愛がこもっている。
それもそのはずで、彼とは幼い頃に母親同士のお茶会で一度会ったきりだが、以来十年近くずっと手紙でこまめにやり取りをして愛を育んだのだ。
近くにいたとはいえ粗野で横柄なフランコと、遠くにいても真摯で優しく育ったアンドレ。
彼女がどちらを選ぶかなど、火を見るより明らかだった。
「さようなら、もう会うこともないでしょう」
綺麗な淑女の礼をして欠片も未練を見せず背を向けたパトリシアに、フランコが手を伸ばしていたことを彼女だけは知らなかった。
▽▲▽▲▽
「坊ちゃま、少し落ち着かれてくださいませ」
朝からそわそわと落ち着かない。
先ほどから部屋の中をぐるぐると歩き回っているアンドレに、彼の幼少期からディアール家に仕えている老齢の執事が少しだけ呆れたように告げた。
「やっとパトリシアがきてくれるんだ! 落ち着いてなどいられない……!」
拳を握りしめて反論した途端、屋敷の前に馬車が止まる微かな音を拾い上げ、彼は顔を輝かせた。
「パトリシア!」
ぱっと表情を明るくしたアンドレは貴族として辛うじて許される勢いで部屋を飛び出した。
馬車から降りてくる可憐な姿を見つけ、アンドレは足早に駆け寄る。
「パトリシア!」
「アンドレ様。出迎えていただきありがとうございます」
ぺこりと頭を下げたパトリシアの肩に手を置く。
顔を上げたパトリシアが花開くように美しく笑う。
彼の記憶の中の幼くて愛らしい笑みも愛おしいが、成長したいま目の前で微笑まれるとあまりの胸の高鳴りに心臓が破裂しそうだ。
「抱きしめてもいいだろうか?」
「もちろんです。私は貴方の妻としてきたのですから」
くすくすと微笑む華奢な体にそっと手を回す。
十年近く恋焦がれた女性を腕の中に閉じ込める幸福は、他で得られるものとは比べ物にならない。
とはいえ、強く抱きしめすぎればガラスのように壊れてしまいそうで怖い。
恐る恐る力を籠めると、パトリシアが彼の背に手を回してぎゅうと抱きしめ返してくれる。
「アンドレ様、もっと力を入れていただいて大丈夫ですよ」
「だが」
「私、結構丈夫です!」
ドレス越しとはいえ、柔らかな胸元が触れている。
口から心臓が零れ落ちそうだが、同じくらい幸せだった。暫く二人、そうやって抱きしめあっていた。
アンドレとパトリシアの出会いは、彼が八歳、彼女が六歳まで遡る。
基本的に後継ぎ教育で忙しく領地から出ないアンドレだったが、母の実家がある王都に祖父母に会いに行ったことが一度だけある。
その際にアンドレとパトリシアの母親同士に交流があり、お茶会の席に招かれたのだ。
母についていったお茶会で、アンドレはパトリシアと出会った。
端的に言うなら一目惚れだった。
彼女はまだまだ幼かったけれど、心を射抜かれる可憐な愛らしさがあって、笑う姿は花が咲くようだった。
愛おしい、と思った。守りたい、と強く感じた。
緊張しながらも丁寧に話した。
彼女の好みに耳を貸し、自分の好きを押し付けにならない程度に語った。
宝石のように輝く瞳と、無邪気にからころと笑いながら話す姿にますます魅了されたのだ。
だから、祖父母の屋敷に帰ってすぐ母に「パトリシア嬢と婚約したい」と告げた。
母は驚いていたが、同じくらい喜んで、すぐに夫人に連絡をとってくれた。
母親同士はすぐに了承したが、ディアール伯爵が「娘の意思を尊重したい」とパトリシアがもう少し成長するまで待つよう告げた。
領地に戻ってからはずっと手紙でやり取りをつづけた。
あまりに頻繁にやり取りをしすぎて、どれがどれに対する返事か混乱してしまうことがあったので、執事の助言を受けてトランプのカードを入れることにした。
スペードのエースのカードが入った手紙には、同じくスペードのエースのカードを封入して返信する。
そうしたら、手紙のやり取りはスムーズになっていった。
少しずつ愛を育んで、彼女が十歳の時に婚約を結べたのだ。
(山のような手紙は一通も捨てずに保管している、といったらパトリシアは驚くかな)
手紙専用の保管庫の部屋があると告げたら、彼女はどういう反応をするだろう。
結婚式も終わり、この半年ほど穏やかな日々を過ごしている。
ソファに腰を下ろしてワインを飲みながら、アンドレはパトリシアが湯浴みから戻ってくるのを待っていた。
就寝前のひと時を、互いに一日の報告に使うのは彼ら夫婦の約束の一つである。
円満な夫婦生活にはコミュニケーションが欠かせない、と結婚する少し前から口を酸っぱくして母に教えられていた。
パトリシアを絶対に手放したくないアンドレは、忠実に母の教えを守っている。
「お待たせいたしました、アンドレ様」
「お帰り、パトリシア」
ネグリジェの上からショールを肩にかけた彼女の姿には、まだ心臓が可笑しくなる。
しかし、顔に出してはいけない。これも母の教えの一つだ。すました顔で微笑んで、隣に座ったパトリシアに用意していた紅茶を淹れる。
本来なら執事かメイドの仕事なのだが、二人で寛ぐときは出来るだけ他のものの介入を減らしたくて、アンドレは紅茶の淹れ方を覚えた。
プロである執事やメイドに比べると手際も悪いし味も多少落ちているが、彼女はいつも「美味しいです」といいながら飲んでくれる。
今日もまた、領地でとれた茶葉を使った紅茶を振る舞うと、彼女は嬉しそうにカップとソーサーを手に取った。
「アンドレ様の淹れてくださる紅茶はほっとする味がします」
「ありがとう。そういってくれると嬉しいよ」
自身の分もティーカップに紅茶を注ぐ。
パトリシアの隣に座りなおすと、彼女は微笑んで一口紅茶を口に含む。
他愛のない雑談をしながら二人きりの時間を楽しんでいると、ふと話が途切れたタイミングでパトリシアが思い出したように「そういえば」と小さく笑った。
「婚約破棄をされたのです」
「?!」
かろころと笑いながら紡がれた言葉は、アンドレにとって笑い話ではない。
ぎょっと目を見開いた彼は動揺からがちゃんと貴族にあるまじき音を立ててカップをソーサーの上に置いた。
震える指先に気づかれないように、ローテーブルにティーカップを戻して、意識して声音を作りながら問い直す。
「私は婚約破棄をした覚えはないが」
「いえ、別の方に」
「別の? 君の婚約者はずっと私だったはずだが」
思わず低い声が出た。唸るように告げたアンドレに気づいているだろうに、パトリシアは相変わらず可憐に鈴が転がるような声音で心底可笑しげに笑っている。
「仰る通りです。私の婚約者はずっとアンドレ様だけでした。なのに、なぜか古馴染が私のことを婚約者だと思い込んでいたらしく。ここに来る前に婚約破棄を告げられたのです。いまでも可笑しくて仕方なくて」
くすくすと笑う声に嘲りの色はない。
ただ本当に「おかしい」と思っているだけなのだと伝わってくる。
特別な感情が見えなかったことで、アンドレも幾分か冷静さを取り戻せた。
彼は妻のことが大好きで仕方ないのだ。
彼女のことになると、冷静沈着が取り柄のアンドレもすぐに取り乱してしまう。
「そうか。……ずいぶん変な話だな」
「そうですよね」
「ああ、可笑しすぎて――詳細が気になってしまうな」
暗にもっと情報が欲しいと告げたアンドレに、彼女はぱちりと瞬きをして。
とろけるような笑顔で「アンドレ様が望むのであれば」と婚約破棄を言い渡されたという夜会での出来事を詳細に語ってくれた。
曰く「悪女」としてクロエという子爵令嬢を虐めたことを咎められた。
曰く「本気で婚約している」と勘違いしていた。曰く「最後にはすがろうとしてきた」
(放置できない)
パトリシアから話を聞けば聞くほど、アンドレの内心は荒れ狂う。
このまま知らぬふりなどできるはずもない。
(明日、調べてみるか)
彼女が口にした『フランコ・サングーマ侯爵令息』と『クロエ・マーロウ子爵令嬢』の名前を脳裏に刻む。
話し終わったパトリシアが気遣うように見上げてきたので、優しく頭を撫でて「そろそろ寝よう」と抱き上げてベッドに向かいながらも、彼の内心は荒ぶっていた。
翌日、辺境伯としての権力を使って昨日名前が挙がった二人の身辺の調査を部下に命じた。
王都から離れた土地柄、どうしても情報は遅れてしまう。
だが、優秀なアンドレ直属の部下は速やかにフランコとクロエの情報を彼に届けた。
調査を命じて一週間が経つ頃には、十分な資料を手に入れることが叶ったのだ。
(婚約者だと勘違いしていたフランコは、やはりパトリシアに未練を残している、か)
婚約破棄を告げたという夜会で、フランコはどうやらパトリシアに縋りついてほしかったらしい。
心を入れ替えるから貴方の傍に置いてください、そんな言葉を期待しての横暴であったと推測できた。
(パトリシアが虐めなどするはずがない。彼女の悪評を立てたことも許しがたい)
アンドレの元に嫁いだことで婚約は最初からなかったと証明されたが、クロエを虐めていたという虚偽は訂正されないままよくない噂が王都に住む貴族たちの間で広がっているという。
パトリシア自身がその場で反論しなかったことも一因だろうが、彼女からすれば『虚偽の虐め』より『婚約していると勘違いしている』ことのほうが大事だったのだと分かる。
ばさりと届けられた資料を机に放る。
深い溜息を吐いて、アンドレは人を殺せそうな鋭い眼光で資料を睨んだ。
「……後悔させてやる」
人の婚約者に手を出したことも、ありもしない虚偽で名誉を傷つけたことも。
必ず後悔させると誓った。
彼らを告発する、そのための証拠もまた、同時に彼の元に届けられていたから。
▽▲▽▲▽
ディアール夫人となったパトリシアは女主人として屋敷の一切を任されている。
実家にいた頃より忙しくはあるが、それでも時間にゆとりのある生活を送れていた。
最近は昼間は庭園を散歩するのが日課の一つだ。
健康な子供を生むためにも、日々の運動が大事だと実家の母に送り出される際にこっそりと伝えられていたからだ。
庭師が丹精込めて作り上げた庭園をゆっくりと歩く。
彼女の傍には侍女が控え、日差しを遮るための日傘をさしていた。
時折、侍女にも話しかけながら庭園での散歩を楽しんでいると、ふいに騒がしい声が鼓膜を揺らした。
「~~! ……っ」
正門の方から小競り合いの声が聞こえてくる。
眉を顰めたパトリシアが視線を滑らせると、普段話しかけない限り口を開かない侍女が控えめに言葉を発した。
「奥様、お屋敷に戻りましょう」
侍女としてもっともな提案だ。だが、彼女は首を横に振る。
「様子を見に行きます」
「しかし……」
「私はこのお屋敷の女主人ですから」
パトリシアが芯のある笑みを浮かべると、侍女は「差し出がましいことをいたしました」と頭を下げた。
大丈夫よ、と言葉を送り正門へと歩き出し。
侍女はつかず離れず、日傘をさしたままついてくる。
「なんの騒ぎですか」
庭園から正門に向かうにつれて、騒ぎの声は大きくなっている。
彼女が鋭い声を発すると、門兵が慌てたように一人の男を取り押さえた。
「パトリシア!!」
彼女の名を叫んだ男に門兵がすぐに「不敬だぞ!」と怒鳴る。
「……? まさか、フランコ様……?」
すぐにはわからなかった。
まるで浮浪者のようなボロボロの服を身に纏っているフランコからは貴族の威厳など感じられない。
顔も薄汚れ、ずいぶんと痩せていた。別人のようだった。
「パトリシア! 僕を助けろ! 褒美に僕の妾にしてやる!!」
「なにをわけのわからないことを仰っているのです」
唖然とする彼女に、なおもフランコだったはずの人物が言い募る。
顔がよく似た別人ではないか、と思う程度にはその言動は切羽詰まっていて余裕がない。
「ちょっと儲けを跳ねただけで! 貴族籍のはく奪だと?! くそっ! 誰かが密告した!!」
(アンドレ様だわ)
フランコから婚約破棄をされた話をしたのは一か月ほど前のことだ。
静かに怒っているな、とは思ったが裏でここまで手を回しているなんて考えなかった。
夫の自身への執着の仕方を見誤った、と彼女は内心で頭を抱えてしまう。
とはいえ、そんなことを口に出せば火に油どころではない。
冷静な仮面を被って、パトリシアは声だけは少し強張ったままフランコに告げた。
「貴方にはクロエ様がいるではありませんか」
「あんな女、とっくに娼館に落とした!」
「っ」
女性にとってあまりにもなことを言われて、流石の彼女も絶句してしまう。
言葉を失ったパトリシアになにを感じたのか、フランコがにやにやと下卑た笑みを浮かべる。
生理的嫌悪を覚える笑い方に、思わず一歩足が下がった。
「中古だろうと傍においてやる。お前は僕がいれば幸せだろう」
「なにを、いって」
「お前は僕の言うことを黙って聞いていればいい!」
(話が通じない)
あまりに無茶苦茶な言い分に唇を噛みしめる。
侮辱された事実より、貴族としての誇りを失っている様子が痛ましい。
彼女がおぞましいものから遠ざかるようにさらに一歩足を後ろに下げると、とん、と何かにぶつかった。
顔を上げれば、そこには凛々しい表情をしたアンドレがいる。
彼は彼女の肩に手を回して、安心させるように微笑む。
「元侯爵令息が我が妻に何の用だ」
「貴様……!」
「没落した程度で腐った性根は変わらないのだな」
凍てついた眼差しを送るアンドレの言葉に、フランコが顔を真っ赤に染め上げて暴れだす。
だが、門兵に押さえつけられている彼は、どんなに足搔いてもアンドレを殴ることは出来ない。
「連れていけ。その男はもはや貴族ではない。手加減は無用だ」
「離せ!!」
暴れるフランコを門兵たちが引っ立てていく。
最後まで抵抗していた彼が、救いを求めるように伸ばした手を取ることは、パトリシアにはできない。
姿が見えなくなり、声も届かなくなって、やっと息を吐き出した彼女をアンドレが強く抱きしめる。
背後から抱きしめられ、腹に手を回される。彼女の肩口に顔をうずめたアンドレが細く息を吐く。
「アンドレ様」
「あの男に、未練があるだろうか」
迷子の子供のような、先ほどまでの堂々とした態度からは考えられない力のない声音だった。
パトリシアはそっとアンドレの手に手を重ねた。ぴくりと動いた指先に、愛おしさを感じてしまう。
彼はなにより、彼女からの拒絶を恐れるのだ。
「私は、アンドレ様のことを愛しています。――でも、できれば次からは行動に移す前にご相談くださいね」
「……善処する」
多分次があっても相談はされないのだろう。
パトリシアは仕方のない人、と内心で小さく呟く。
だが、口元には自然と笑みが浮かんでいた。どうしようもないほど愛されている。
それを知っているから、強くは咎められない。
(結局、私も同罪ね)
クロエの娼館の件だけ後で相談すると決めて、パトリシアは穏やかに微笑む。
「アンドレ様、お屋敷に戻りましょう。政務の途中でしょう?」
「君を補給したい」
「まあ」
くすくすと笑みが零れ落ちる。穏やかな日差しに目を細めて、パトリシアは愛される幸せを嚙みしめた。
読んでいただき、ありがとうございます!
『婚約破棄? え? そもそも私たち婚約していましたか?』のほうは楽しんでいただけたでしょうか?
面白い! 続きが読みたい!! と思っていただけた方は、ぜひとも
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