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冷蔵庫の奥行~買っていない食材が増えるたび、家族の寿命が減る。

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/10/28

冷蔵庫の奥行


——台所の所有者:あなた


 引っ越し初日の夜、冷蔵庫が長すぎることに気づいた。


 備え付けの古い冷蔵庫。白い樹脂の表面は、薄いひびを光でごまかしていた。取っ手を引くと、庫内灯はまぶしいくらいに白く、棚板はプラスチックのはずなのに、手を置くと氷の板みたいにきしむ。ドアポケットのマヨネーズを戻そうと腕を伸ばした瞬間、手首がするすると吸い込まれ、肘のあたりでひやりとした。


「奥、さわらないで」


 背後で、朝陽が言った。八歳の息子は、引っ越し疲れで眠そうなのに、目だけが冴えている。


「なんで」


「匂いがする。金属舐めたあとみたいな。からっぽの味」


 私は笑って、指先で棚のいちばん冷たい部分をつついた。そこから、すっと何かが押し返す。指でつまむと、バターが出てきた。銀紙の角が霜で白くなっている。ラベルに青い油性ペンで「4/23」。


「……買ってないよ、これ」


 誰の字だろう。私は保証書を探し、取説のポケットを開いた。名前欄は空白。紙の縁だけが、冷蔵庫の中より湿っていた。


 翌朝、朝陽は寝汗で髪をはりつかせ、微熱を出した。病院では熱は下がって、血液検査だけ念のため取った。医師は結果を見て首をひねる。


「年齢からすると、少しだけ“古い”。失礼な言い方だけど、セルフケアをがんばりすぎてる高齢の方みたいな数値が混じってる」


 古いって、何が? 帰宅して冷蔵庫を開けると、あのバターのラベルの日付は「4/24」になっていた。油性ペンで書いたはずの数字は、昨日から一日進んでいる。


 私は桐生理栄、三十二歳。給食センターを辞め、事務パートを転々としながら、朝陽と二人で暮らしている。前の家は近所トラブルで出た。今度は家賃が安く、築三十七年の集合住宅。北向きのキッチンは薄暗く、排水口のS字トラップがときどき“吸い込む”音を立てた。


 古い家にありがちな不具合、のつもりで、バターは手前の棚に移した。最奥の一列は空けておく。だが翌日、その列は何かで埋まっていた。見覚えのない「ニラ」。青いラベル。「4/25」。


「捨てよっか」


 私は口にしたが、朝陽が首を振った。「捨てたら怒る」。


「誰が」


「奥の人」


 子どもの比喩と決めつけ、私はラップにくるまれたニラをつまんでゴミ袋に落とした。捨てるとき、ラベルが指に貼りついた。ふちが湿っている。ぺり、と剥がして指をこする。ゴミ出しの夜、胸のあたりが凝りのように痛んだ。寝つけず、夜半にトイレに起きると、台所の暗がりで冷蔵庫がかすかに鳴いていた。霜のきしみとは違う、筆圧の音に似ている。紙にペン先を立てる、あの音。


 翌朝、私は熱を出した。体温計の数字は三十七度四分。パートを休み、朝陽を学校に送り出す。横になっても、息を吸うたび胸の内側で薄い裂け目が引っかかる。昼、梶祐真にメッセージを送った。高校の同級生で、今は呼吸器内科の医師だ。


〈立て続けに、変なことが起きてる。検査って今日やってもらえる?〉


〈時間ある? 夕方なら。連れておいで〉


 病院で採血をした。梶は数値を見て眉を上げる。


「炎症反応は軽いけど、末梢血管の反応が悪い。疲弊のマーカーがちょっとだけ進んでる。理栄、最近、無理してる?」


「引っ越しはした。あと、冷蔵庫が……いや、変なこと言うから笑わないでよ」


 説明しながら、自分でも滑稽だと分かった。買っていない食材が最奥の一列に現れる。ラベルの日付は毎日一日ずつ進む。賞味期限が切れると、うちの誰かが具合を崩す——そんな都市伝説めいた話。


 梶は笑わなかった。代わりに、白い紙に線を引く。


「もし仮説として、『未購入品の期限が切れると、台所の住民から“期限”が同数削れる』とする。ニラは捨てたんだよね?」


「うん」


「捨てる行為は、所有者の拒絶だ。怒りの反動で削れが倍化する、みたいなパターン、昔からの禁忌にある。たとえば墓じまいのときに——って、ここで民俗の話する状況じゃないか」


「民俗でいいよ。理屈なら飲み込める」


「じゃ、いったん最奥を封鎖しよう。触らない。テープ貼って、上にトレー乗せて。数日、様子を見る。捨てない。食べない。見るだけ」


 帰宅して、最奥の列に養生テープを貼り、上に古いガラス製のバットを置いた。青いラベルは三つに増えていた。バター、ニラ、それから知らないメーカーの卵十個入り。卵のラベルには黒いペンで「5/1」。


 夜、私は奥を見ないよう努めて夕食を作った。朝陽が鼻をひくひくさせて言う。「奥、冷えすぎてる」。


「見なくていい」


「見ないほうが、来る」


 意味がわからない言い方に、私は少し苛立った。食器を洗い、テープの上にそっと手を置く。冷たい。皿を拭き、リビングに戻る。テレビの音が低く響く。夜半、眠りが浅くなったころ、ガラスがきしむ音がして目が覚めた。台所に行くと、バットはずれて、テープが内側から押し上げられていた。テープの中央に、指の腹ほどの膨らみ。中から押している。私は息を殺し、そっと手で押さえつけた。指先に伝わるのは冷たさではなく、湿り気だった。息を吐く音が、庫内から返ってくる。


 翌朝、テープはきれいに剥がれ、最奥は再び満杯だった。知らないジャムの瓶。手書きの黒い「5/2」。


 その夜、私は胸痛に襲われ、二時間ほど動けなくなった。朝陽の頬は白く、唇が少しだけ紫がかる。救急に行くほどではないが、ふたりとも**“期限を削られた”**感じがした。


 梶に電話をすると、彼は淡々と言った。


「捨てるのは最悪だ。食べるのも、等価で奪われるリスクがある。所有をめぐって争うと、相手が見えないぶん、こちらの負担が先に立つ。……未購入品に、理栄のラベルを貼ってみては?」


「私のラベル?」


「所有の宣言。こちら側の『持ち物』として一時的に振る舞わせる。負担の配分を変えられるかもしれない。もちろん、ただで済むとは思わないけど」


 私は青いペンを取り出し、「桐生」と書いた小さな白ラベルを作った。最奥に指を入れ、出てきたジャムの瓶のラベルの端に、私のラベルを重ねて貼る。めくれあがるかと思ったが、瓶はしずかに受け入れた。庫内灯がふっと暗くなり、最奥の霜がざわつく。耳鳴りがした。ジャムのフタを開けると、香りは弱いが腐敗臭はない。おそるおそる、朝陽と二人で小さじで味見した。酸っぱく、遠い味。


 その夜、胸痛は来なかった。朝陽の熱も出ない。成功だったかもしれない。ただ、翌朝、朝陽が「匂いが変わった」と言った。「うちの匂いになった」。


 私はラベルを観察した。青い私の字の横に、黒い細い字が重なっている。外国の文字のように角ばった線。「交換、受領」。


 誰かが、向こうで読んでいる。向こうには、向こうの台所がある。そう思うと、背筋が冷えるのに、同時に妙な安堵があった。相手がいるなら、交渉できる。


 交渉。私は給食センターで働いていた頃のクセを思い出し、ノートに在庫表を作った。最奥の一列に現れる物を、日付と品名で記録する。こちらから貼るラベルの文言も整理する。たとえば——


〈こちらの所有である〉


〈こちらの所有に移す代わりに、同量の食品を渡す〉


〈交換条件:均等〉


 青いペンで丁寧に書き、白いラベルを用意する。最初は小さなものから始めた。こちらに現れた向こうの鶏もも肉五百グラムに対し、こちらの漬物パック二つ。ラベルに「交換」と書いて貼る。翌朝、最奥の霜の向こうに、黒い字が浮いた。「受領」。鶏肉はこちらの冷凍室に移し、火を通していただいた。味は普通だった。ありがたく、怖い。


 その日、203号室のドアの前に、小さな水たまりができていた。廊下は乾いているのに、そこだけ湿っている。住人の女は、私が通りかかると、すっと体を横に寄せ、ほほえんだ。


「生ごみ、出さないんですか?」


 ふいに口から出ていて、我ながら驚いた。女は首を傾げる。


「出さなくても、減るから」


「どこに?」


「家の奥に」


 笑っているのに、歯が冷たい。彼女の部屋の前の空気は、冷蔵庫の奥の匂いに似ていた。私は黙礼して、その場を離れた。


 夜、最奥の温度が一瞬ゼロ度に跳ね上がった。デジタルの表示ではなく、指の感覚がそう告げる。棚板が、まるで鏡のように平らになり、向こうの光がうっすら差し込む。向こうの台所は、こちらとよく似た間取りだった。ステンレスの流し台、白いタイル、古い三口コンロ。違うのは、冷蔵庫のドアの色。向こうは黒い。黒いドアに、細い白字で何か書いてある。文字は読めない。霜が、息をする。


 私は、青いラベルを指先に挟み、棚の奥に滑らせた。指先が冷たさを通り抜け、湿った空気に触れる。向こうからも、指が伸びてきた。白い、節の細い指。私の指先に触れる。軽く握り、ラベルを受け取る。同時に、黒い細いラベルがこちらに押し返される。


 そこに書かれていたのは、読める言葉だった。


〈台所の所有者:あなた〉


 私は手を引っ込め、心臓を落としたみたいに深呼吸した。朝陽が背後で見ている。


「ね。前から言ってた」


 私の背中に、冷たい汗が貼りついた。


 交渉は続けた。こちらが所有を主張するたび、向こうは一度、静かになる。黙礼のように。受領の表示が出ると、しばらくは最奥が空く。空白の棚は、安心ではなく、空腹のように不安だった。空腹の棚が空気を吸い込むように、やがてまた何かが現れる。こちらで購入したはずのない品。誰かの家の余り物。半分使ったバター。見覚えのない瓶詰め。ラベルの字体は二種類。青い太い字は、こちら。黒い細い字は、向こう。


 ある晩、朝陽が眠れず、キッチンの椅子に座っていた。


「なんで、奥はそんなに冷たいの?」


「冷たいほうが、長持ちするから」


「長持ちさせたいのは、食べ物?」


「……それもあるし、時間かな」


「時間は冷やしても固まらないよ。冷やすと、割れやすくなる」


 子どもの言い回しのくせに、胸の中心に刺さる。私は朝陽の頭を撫で、眠りを促した。彼は目を閉じながら言った。


「奥は、持ってる人のとこに行く。持ってるってことは、払えるってこと」


 翌朝、私のスマホに、見慣れない通知が来ていた。QRコードの読み取りアプリが、履歴にないはずのスキャン結果を保存している。開くと、小さな黒い正方形の画像と、文字列。


〈台所の所有者:あなた〉


〈負担:期限〉


 どうして私のスマホに。昨夜、何もスキャンしていない。朝陽の手首を見ると、薄く、インクがにじんだような斑点の集まりがあった。QRコードに似ている。私が指で触れると、彼はくすぐったそうに笑った。「そこ、冷たい」


 梶に会い、話した。彼は深く息をつき、机上のカルテを閉じた。


「所有権の移転が、契約の成立と同時に、『負担者』を表示させる仕組み。電子的じゃなく、概念的な表示。……理栄、法務局に行ったほうがいいかもしれない」


「え?」


「いや、半分冗談。でも、所有を巡るトラブルは、最終的には名義の問題になる。名義は、責任とセットだ。君が『所有する』と書いた瞬間、向こうは安心して負担を押しつけられる。君はそれを、家族を守るためにやった。責めない。けど、長くは続かない」


「じゃあ、どうするの」


「所有を薄める。共同所有にする。もしくは、そもそも所有の線引きを曖昧にする。理栄はなんでも管理したがる。台所も在庫も、きっちり並べたい。でも、曖昧にするのが、ここでは安全かもしれない」


「曖昧にすると、余計に飲み込まれる気がする」


「そうだね。だから、別の方法。交換だ。所有は渡さない。交換だけする。こちらの食品を最奥の手前に置き、相手のラベルを待つ。受領の合図が来たら、こちらも相手の食品を受け取る。所有の宣言はしない。書くなら、『一時預かり』にして」


 私は頷いた。帰り道、203号室の前で足が止まる。ドアの隙間から、冷風が漏れている。ノブのあたりに、小さな白いラベルが貼ってあった。「所有者」。名前は、空欄。


 その夜、私は「一時預かり」という青いラベルを作り、最奥の手前に貼った。向こうから返ってきた黒いラベルには、「返却予定日」の欄があった。日付は、明日。棚の霜が、控えめに息をする。私は、朝陽の寝息を聞きながら、眠った。


 翌朝、最奥は静かだった。未購入は現れず、代わりに、向こうから小さな紙袋が手前に押し出されていた。犬の散歩のときにもらうサイズの紙袋。中には、子ども用のゼリーが二つ。ラベルの色は向こうの黒で、「返礼」とある。


 私はそのゼリーを見て、手を止めた。「返礼」は、受け取ってよい返しだろうか。受け取れば、何かがこちらから減るかもしれない。梶の言葉がよぎる。所有しない。交換だけ。私は紙袋ごと最奥に戻し、青いラベルで「受領拒否」と書いて貼った。


 その夜、朝陽は吐いた。軽い胃腸炎のような症状。病院に行くほどではない。私は冷蔵庫に向き合い、声に出した。


「こちらは、所有しない。交換だけする。返礼は要らない」


 向こうから、黒いラベルが一枚、静かに押し出された。そこには、こうあった。


〈所有者は、だれか〉


 私は答えられなかった。誰か。私か。朝陽か。この家か。冷蔵庫か。台所そのものか。


 203号室の女に、廊下で出くわした。ゴミの収集日。彼女は手ぶらで、並んだ生ごみ袋を眺めていた。


「出さないんですか」


「出せば、戻るから」


「どこに」


「奥に」


 彼女は私の目を真っ直ぐ見た。瞳は薄い灰色で、光を凍らせる。


「あなた、奥に名義を置いたでしょう。保証書」


「なんの話」


「冷蔵庫の取説。名義欄、空白だった?」


 私は息を飲んだ。彼女は笑った。


「空白は、誰のものでもあり、誰のものでもない。だから、奥はより強い管理者を選ぶ。奥に手を入れた人。ラベルを貼った人。交換条件を書いた人。所有の文章を組み立てられる人。あなたは、奥にとって、良い管理者」


「良いって、どちらにとって」


「奥に」


 彼女は、ゴミ袋の列を目でなぞった。


「捨てる行為は、奥にとって不作法。怒る。食べる行為は、奥にとって対価の支払い。引き落とし先を探す。所有する行為は、奥にとって安心。あなたの期限から支払う口座ができる」


「口座?」


「見たでしょう。青いラベルの横に、黒い記帳が増える」


 私は黙った。彼女は両手をポケットに入れ、軽く会釈した。


「台所は、食べ物のためにあると思ってる? 違うよ。台所は、支払う場所。毎日、何かの期限が小さく決済されていく。あなたは、それをきれいに管理できる人。だから、奥はあなたを選ぶ」


 彼女は自室に戻り、ドアが静かに閉まった。ノブのラベルの「所有者」は、やはり空欄のままだった。


 私は、朝陽に正直に話した。奥は、こちらの所有の意思に反応する。所有すれば安心だが、こちらの期限口座から引き落とされる。だから、所有しない。交換だけする。あなたの体に、印が浮いたら教えて。


「もうあるよ」


 朝陽は手首を差し出した。薄いQRの斑点は、線がさっきより濃くなっている。スマホをかざすと、また同じ文言が表示された。台所の所有者:あなた。負担:期限。下に、小さな進捗バーのような青い線が伸びていて、右端に「今日」の文字。私は頭の中の血が引く音を聞いた。


「これは、消える?」


「消えない。薄くなることはあるけど」


「どうしたら薄くなる?」


「食べたら」


 朝陽の答えは、恐ろしく、合っている気がした。食べることは、所有の主張を伴わない支払いだ。こちらが受け取って消費すれば、奥は満足する。だが、その代わりに、何かを等価で奪う。視力、嗅覚、記憶。私は思わず、朝陽の鼻筋に触れた。


「嗅覚は、なくなってほしくない」


「僕の匂いのこと、好き?」


「好き。あなたが『まずい』って言って、笑うときの顔が好き」


「じゃ、食べない。交換だけ」


 私たちは、そう決めた。


 しばらく、平衡が続いた。最奥に現れる未購入品は、こちらからの小さな礼と、向こうの静かな受領でまわった。私は冷蔵庫の掃除をきちんとし、手前の棚だけを使い、奥には触れない。朝陽のQRの斑は、濃くなったり薄くなったりしながら、消えはしなかった。


 ある朝、パートに出る前、最奥に小さな紙片が滑ってきた。黒い細字で、短い文。


〈期限が切れる〉


 どれのこと? 最奥を見ると、手前に一つだけ、こちらが買った覚えのない子ども用のゼリーが置いてある。透明なカップ。表面にうっすら霜。ラベルはない。包装の隅に、熱で押したような薄い刻印があり、そこに「本日」と読めた。


 私は息を呑んだ。朝陽はすでに玄関で靴を履いていた。呼び戻すのは違うと思った。私は青いラベルに「受領拒否」と書き、ゼリーに貼った。ゼリーは、棚の奥にするりと滑っていった。


 その日、職場で、私は二度、立ちくらみを起こした。帰宅すると、朝陽が居間で眠っていた。手首のQRは、濃い青に変わっている。私はスマホをかざした。アプリが読み取り、表示を出す。


〈台所の所有者:あなた〉


〈負担:期限〉


〈今日支払い予定:1日〉


 私は冷蔵庫の前に立ち、深呼吸した。青いラベルと黒いラベル、白い紙片、ペン。私は奥の手前に、紙を一枚差し込んだ。文言は、シンプルに。


〈交換:私の期限1日⇄未購入ゼリー返却〉


 霜が静かにざわめいた。黒いラベルが一枚、返ってきた。


〈受領。返礼:ゼリー2〉


 手前に、小さな紙袋が滑り出す。中には、昨日見たのと同じ子ども用ゼリーが二つ。私は震える手で袋を受け取り、テーブルに置いた。朝陽は眠ったままで、呼吸は安定している。胸の奥で、見えない秤がわずかに傾く音がした。支払ったのは、私の期限。一日。


 夜、私は眠れず、台所で椅子に座った。霜の呼吸。排水口の吸い込む音。203号室のドアの前で、水がまた小さくたまっている。私はふと、彼女の言葉を思い出す。台所は、支払う場所。


 翌朝、朝陽の手首のQRは薄くなっていた。私は安堵して抱きしめ、それから薄い罪悪感を押し込んだ。私の期限は、どこで削られたのだろう。梶のところで検査をすれば、数値に出るかもしれない。けれど、検査をしても、奥は奥のままだ。


 雨が続いた。北向きのキッチンはさらに冷え、床のタイルが体温を奪う。私はスリッパを履き、椅子に座って最奥を見ないように料理をした。見ないほどに、奥は深くなる。朝陽は宿題をし、私にわからない計算を教えてくれる。夜、彼は言う。


「今日、203の前、濡れてた」


「いつも濡れてる」


「でも今日は、濡れてるのが、うごいてた」


 私は笑い飛ばした。笑いながら、喉の内側が冷える。翌朝、203号室のドアの上の換気口から、白い息のようなものが出ていた。冷気は、階段を降りていく。


 その日、梶から連絡が来た。


〈検査、来られる? この間のデータ、気になるところがあって〉


 病院で、彼はモニターを見せた。私の血液データ。前回と比べ、テロメア関連のマーカーが、少しだけ短い傾向を示している。説明は簡素だったが、要するに、時間が一日ぶん削れた指標が、数値の端に揺れている。


「理栄、これ以上は、本当に危ないかもしれない」


「交換をやめる?」


「やめると、未購入はまた溢れる。削れが無差別に来る。……最後の手段だけど、名義を手放すこと」


「名義?」


「台所の所有者、という名義。君が台所の保証書に名前を書いた覚えは?」


「ない」


「でも、奥は君を選んでいる。だったら、逆に、台所の所有者を移す。家電の名義じゃなく、概念の名義。たとえば、台所の所有権を『共同名義』にするとか」


「誰と共同にするの」


「台所、という場所そのもの。あるいは——」


 彼は言いよどんだ。


「朝陽」


「ダメ」


「だよね」


 私は深呼吸した。名義を薄める。所有の宣言をしない。交換だけ。これ以上何を差し出せば、奥は満足するのか。私は、帰り道、203号室の前で立ち止まった。ドアのラベルは空欄。私はポケットの青いペンを取り出し、衝動的に、空欄に一文字だけ書いた。


「—」


 横棒。名前ではなく、線。無内容。所有者名の欄に、意味のない線。


 その夜、最奥は静かになった。霜の息は浅く、棚板はただのプラスチックに戻った。私はほっとした。朝陽はよく眠った。手首のQRは、薄い灰色になった。


 けれど、翌朝、冷蔵庫を開けると、最奥の手前に、小さな白いカードが立っていた。名刺ほどの大きさ。黒い細字で、簡潔な文。


〈台所の所有者:あなた〉


〈管理能力:高〉


〈負担配分:最大〉


 私は、カードをつまんで、ゴミ箱に落とした。落ちる音は、紙より重かった。


 もはや、逃げ道はなかった。私は最後の手段に出ることにした。奥に手を入れる。所有を捨てるのではなく、所有の起源に触れる。向こうの台所に、直接、交渉に行く。行く——という言葉は誇張だ。手首まで入れるだけ。けれど、越境には違いない。


 夜更け、朝陽が眠ったのを確かめ、私はシンクを磨き、手を洗い、指の水を拭った。最奥の棚板に手を触れる。冷たさが、薄皮一枚でやわらぐ。私は、呼吸を整え、ゆっくりと腕を伸ばした。肘まで入る。指先が、向こうの空気に触れる。湿って、少し甘い。手探りで、ラベルの束をつかんだ。黒い細字のラベル。そこに、震えない手で、青いペンで書く。


〈共同所有者:台所〉


〈負担:台所〉


〈管理:台所〉


 向こうの空気が、かすかに笑った気がした。棚板が震え、奥の霜がすっと吸い込まれる。向こうから、別の手が伸びてきた。見覚えのある、白い、節の細い指。彼女だろうか。203号室の女か、それとも、向こうの台所の持ち主か。指が、私の手に触れ、ラベルを受け取る。返すように、黒いラベルがこちらに押し出される。


〈受領〉


〈返礼:所有者表示〉


 私は手を引き抜いた。冷気が腕にまとわりつく。手首の内側に、薄いインクのような斑点が広がった。スマホをかざすと、読み取れる。表示は、変わっていた。


〈台所の所有者:あなた〉


〈共同所有者:台所〉


〈負担:期限(台所優先)〉


 台所優先。私は肩の力が抜けた。今夜は、私ではなく、台所が先に支払う。どういう意味だろう。冷蔵庫の中で、霜が静かに沈黙した。私は電気を消し、寝室に戻った。


 翌朝、台所が少し古くなっていた。蛇口の付け根に青い錆が浮き、床のタイルの角が欠けている。排水口のS字トラップは、ふうふうと細い息を吐き、冷蔵庫のドアのゴムは硬くなっていた。台所が、期限を払ったのだ。交換の代価は、台所の老い。私は、胸の内側で何かがほどけるのを感じながら、朝陽にパンを焼いた。彼はよく笑い、よく食べた。手首のQRは、ほとんど見えない。


 私は、台所に向かって、頭を下げた。


 それから、季節がひとつ変わった。私は交換のルールを守り、台所はときどき古び、私はときどき、梶のところで検査を受けた。数値は、悪くない。203号室の女は、相変わらずゴミを出さない。彼女のドアのラベルは、いつのまにか剥がれ、空欄も消えた。


 ある晩、台所の蛍光灯が瞬き、冷蔵庫の庫内灯が一瞬、青から白に変わった。最奥に、小さな紙片が現れた。黒い字。


〈名義、移転〉


 私は、紙片を指先で押し返した。向こうから、さらに短い紙片が来た。


〈所有者:あなた〉


〈共同所有者:——〉


 横棒。私が203号室のラベルに書いたのと同じ線。私は、寒気に背を伸ばした。台所は、共同所有者の欄に、無内容の線を入れた。空欄ではない。空欄より、たちが悪い。意味がない意味。責任の空洞。


 その夜、朝陽は悪夢で泣いた。私は抱きしめ、背をさすった。キッチンから、排水口が吸い込む音がする。霜が静かにざわめく。私は、台所に向き合った。


「お願い。私が払う」


 青いラベルを取り、白い紙に書く。久しぶりに、明確な所有の宣言。


〈台所の所有者:私〉


〈負担:期限(私)〉


 向こうから返ってきた黒いラベルは、短かった。


〈受領〉


 翌朝、私は、一日分、古くなっていた。肌の水分が抜け、手の甲に細い線が増え、朝の階段で息が上がる。朝陽は元気だ。私はそれでいいと思い、梶のところに向かった。廊下で、203号室の女とすれ違う。彼女は私の顔を見て、少しだけ眉を下げた。


「優しいね」


「そうでもない」


「奥は、優しさが好き。支払ってくれる人を、好きになる。好きになれば、頼る。頼れば、重くなる」


「あなたは、どうして空欄にしてるの」


「空欄は、誰でもない。線は、何者でもない。どちらも、支払いを逃げる方法。でも、あなたには似合わない」


 彼女は微笑み、階段を降りた。私は、彼女の背中の軽さを、うらやましいと思った。


 最後の出来事は、唐突に来た。秋晴れの土曜日。朝陽と公園に行き、帰ってきて、手を洗い、冷蔵庫を開ける。最奥の手前に、子ども用ゼリーが一つ、置いてあった。ラベルはない。透明なカップ。表面にうっすら霜。刻印は、「本日」。


 私は、深く息を吸った。朝陽はランドセルを片付けながら、こちらを見ている。


「それ、食べないで」


「食べない。交換する」


 私は青いラベルを書いた。


〈交換:私の期限2日⇄ゼリー返却〉


 棚の霜が息をし、黒いラベルが返る。


〈受領。返礼:ゼリー1〉


 手前に、もう一つ、ゼリーが滑り出した。二つ。私は、震える声で、台所に話しかける。


「これは、いらない。返礼、不要」


 黒いラベルが、短く返る。


〈返礼は、慣習〉


 私は、ゼリーを、紙袋ごと最奥に押し戻した。霜はため息をつく。朝陽がそっと近づき、私の手を握る。


「母ちゃん」


「なに」


「僕、これ、好きじゃない味だよ」


 私は笑い、泣きそうになった。ゼリーの味を、彼が嫌うなら、それでいい。私たちは、手前の棚で、普通の夕食を作り、普通に食べた。味噌汁は少ししょっぱかった。パンは少し焼きすぎた。台所は、支払う場所であり、食べる場所だ。


 夜、朝陽が眠ったあと、私はスマホを持って、冷蔵庫の前に立った。手首の内側の斑点は、見えない。アプリを起動し、庫内にかざす。読み取れるものは、何もない。私は、庫内灯の白に目を細め、扉を閉めた。


 そのとき、ポケットの中で、スマホが震えた。画面に、新しい通知。差出人不明。内容は、短い文字列。


〈台所の所有者:あなた〉


〈所有範囲:台所一式〉


〈負担:期限(共有)〉


 共有? 私は廊下に出て、203号室のドアを見る。ラベルは、完全に剥がれていた。床の水たまりは消え、空気は乾いている。私はドアに耳を当てる。奥から、かすかな生活音。誰かの足音、食器の音、冷蔵庫のモーター音。普通の、音。


 私は戻り、台所に立った。冷蔵庫は静かだ。最奥の霜は、呼吸をやめている。代わりに、ドアのゴムが柔らかく、棚板は少し黄ばんでいる。台所は古く、けれど、私のものだ。所有は、負担と一緒にやってくる。それでも、私は台所を持つ。朝陽と食べるために。


 最後に冷蔵庫を開けると、最奥の手前に、薄い白いカードが一枚、置いてあった。黒い細字。丁寧な字。


〈所有者表示を確認しました。おめでとうございます〉


〈台所の所有者:あなた〉


〈負担:期限(台所とあなた)〉


〈返礼:——〉


 横棒。返礼は、何者でもない。返礼に、意味がない。私はカードをそっとドアポケットに挟み、冷蔵庫を閉めた。


 翌朝、朝陽の手首は、きれいだった。私は彼の髪を撫で、パンを焼いた。バターは、私が買ったものを使った。青いラベルに「桐生」と書く。自分の字。自分の台所。自分の負担。私は、パンにバターを塗りすぎて、朝陽に「しょっぱい」と笑われた。


 笑い声が、台所に溶ける。排水口が静かに吸い込む。霜は、ただの霜に戻った。奥行は、もう長くない。手を伸ばせば、届く。届くところだけで、暮らしていける日が、しばらくは続くだろう。


 その日の夕方、ポストに一枚の紙が入っていた。リサイクルショップのチラシ。裏面は、古い保証書のコピー。台所の所有者の欄は、空白。下に、小さなQRが印刷されている。私はスマホをかざした。読み取りアプリは、静かに言った。


〈台所の所有者:あなた〉


 私は、チラシをくしゃくしゃに丸め、資源ごみの袋に入れた。袋は軽く、空気は冷たく、夜は早い。私は、扉を閉め、台所に戻った。


 冷蔵庫の奥は、まだ奥だ。けれど、その奥行きを、私は知っている。持つことの重さと、手放すことの軽さ。そのどちらも、台所は覚えている。私は、青いペンを置き、火をつけ、湯を沸かした。湯気は白く、換気扇はうるさく、生活は続く。


 最奥の棚の上で、子ども用ゼリーが一瞬だけ、ぷるりと震えた。今日は、食べない。明日も、食べない。今日という日付は、パンと味噌汁と、宿題と、濡れた靴下で、静かに消費する。


 台所の所有者:私。


 それでいい。

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