002.駆け出す
振り返ると、文字通りの地獄絵図が広がっていた。
レッドドラゴンのブレスで天まで伸びる炎と煙。
山にも引火し、辺り一帯が炎に包まれている。
目の前の惨状を信じたくても信じられない。
俺は膝から崩れ落ちて、ただ数十秒間見つめることしかできなかった。
「なんだ、これ……」
「ちょっとお母さん! 大変なことが!」
妹が大声で母を呼ぶ。
状況を理解していない母は呑気に鼻歌を歌いながらこっちへ歩いてくる。
しかし、玄関の扉から見える光景に言葉を失った。
「……逃げるよ」
母は冷静を装ってそうポツリと呟いた。
声が震えていて、今にも泣き出しそうだ。
母の手を借りて俺は何とか立ち上がる。
手は驚くほど冷たかった。
「逃げるって……街の人たちはどうするの?」
「いいから逃げるの! 自分の事を優先!」
俺の疑問に母は食い気味に答える。
初めて大声を出しているところをみて、体がビクッと震え上がった。
それだけ子供たちの命を守りたいのだろう。
でも……本当に見捨てるのか?
あの街を俺は愛しているんだ。
武器屋のデブなおっちゃんもケーキ屋さんの美しいお姉さんも、
そしてギルドマスターをしている父さんも。
——父さんも。
その時、俺は気づいてしまった。
気づかない方が幸せだったのに、判断できたのに。
「なあ母さん……」
母の手を強く握って目を合わせる。
目に映る炎に巻かれた街の様子を見て、絶望した。
街の人たちはもう助からないと思ったからだ。
「父さんって、今、どこにいるの?」
「っ……!」
妹の息を飲んだ音が聞こえた。
母さんは目を逸らさずに俺を見つめ続ける。
聞きたくなかった。
トイレからいつものように陽気に飛び出てきて欲しかった。
「……職場。あの街のギルドに出勤したはず」
「そう、だよね」
家にいるはずがなかった。
今、父さんはあの街にいる。
炎に巻かれて、焼き焦げてしまっているかも。
あんな状況じゃ助かるわけないから。
「……早くして! 逃げ遅れたら死ぬんだよ!」
「父さんはどうするんだ! 父さんを!」
「いいから! 父さんは……もう避難したでしょ?」
無理矢理な笑顔を使って俺を宥める。
父さんが避難したなんて幻想を語っても、自分の心は騙せないというのに。
▼ ▼ ▼ ▼
「ハル、父さんはな、めちゃ強い剣士なんだ」
「すげえ! 俺に勝てるの?」
「へっ! ハルが父さんに勝つなんて100年早いべ!」
「じゃあ100年後だね!」
「……そのまんまの意味で受け取られてもなあ」
「うーん……とりあえず10年後?」
「そうだな。10年後のお前が16歳になった時に戦おうか」
▼ ▼ ▼ ▼
6歳の頃の記憶が頭に流れた。
父さん、まだ10年もたっていないよ。
あなたがいたから俺は剣術を続けられたんだ。
だから、死なれちゃ困るんだよ。
母の声がなんとなく聞こえる。
何か叫んでいるかのような声で、俺を説得しているのだろう。
しかし、今の俺にはそんなもの聞こえなかった。
気づけば足に力を入れていた。
地面を勢いよく蹴って、俺は家から飛び出した。
ごめんなさい。身勝手な息子で。お兄ちゃんで。
それでも俺は、これ以上何かを失いたくない。
「ハル! ハル! 待ってよ……」
「お兄ちゃん……やだよ……やめてよ、」
ようやく耳に入ってきた母と妹の言葉が、俺の胸を締め付けた。
それでも、俺の決めたことだから。
迷わず俺は炎の中を目指して駆け出した。
道場を横切り、緩やかな坂を猛ダッシュで下る。
何回か小石に躓いて、膝は血だらけになった。
早く、早く向かわないと。
そう心の中で囁かれているような気がして、より一層俺の足は早くなっていった。
この街特有の巨大な門の前に到着した。
炎で視界が悪く、近づくだけで体が溶けそうだ。
でも早く街のみんなを助けないと。
父さんを助けないと。
自分を奮い立たせて、目を瞑り炎の中に飛び込む。
「おいちょと待てそこのガキンチョ! 俺の姿が見えてないのかよ!」
意を決した瞬間、後ろから男の声が聞こえた。
振り返ると縄で手を縛られた男性が、門の前に座り込んでいた。
こんな目の前にいたのに気づけなかった。
少し我を失っていたかもしれない。
「何で気づかねえんだよ! お前の目は節穴か?」
「あ、あのー……ほどきましょうか?」
「お願いします。先ほどの無礼はお許しください」
服装はスーツで、営業マンか商人みたいだ。
見慣れない顔だから今日が初めての訪問だろう。
それにしても、なぜ手を縛られているんだ?
営業がしつこくてウザかったからとかかな……
門に立てかけてある、男の物と思わしき剣で縄を切った。
切れ味が半端なく良い。
これで営業失敗ってどんだけ下手なんだ。
「ふーっ……やっと自由に動けるようになったぜ。ありがとなガキンチョ」
「……あの、おじさんは何の仕事をしているんですか?」
「27歳はお兄さんだけどな? まあいいや。助けてもらったお礼に教えてやるよ」
男は立ち上がると切れ味の良い例の剣を手に取った。
俺相手に営業するのかと思ったが、違う。
じゃあこの人は剣士か?
それともただ単に剣コレクターとか……
「水月」
男がそう呟いた瞬間だった。
剣の先に水の塊が現れて、一瞬にして剣が水の膜に覆われた。
見たことも聞いたこともない技だった。
あったとしても、魔術師と剣士のコンビ技。
それを一人でやってしまっているのか。
「男は魔術師に、女は剣士になってはいけない」
悪寒が走った。
この男はこの世界の常識から外れている。
弾劾されるべき対象、つまり犯罪者。
だから捕らえられていたんだ。
男はニヤニヤしながら剣を肩に担いだ。
そして彼は言う。
「俺ってさ"異端"って存在らしいよ」