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もう誰も信じない

 孤児院の朝は早い。

 まだ日も昇りきらぬうちから、年長の子らは掃除や薪割り、炊き出しの準備に追われている。


 彼らに交じって生きる。侯爵令嬢だったころには考えられない日常だ。

 わたしにはもう、なにもないから。立場も、家も、名前も。


 すっかりあかぎれだらけになった指が痛む。

 ――けれど、なんてことない。両親の受けた苦痛に比べれば。

 彼らはもう二度と、痛みすら感じることができないのだから。


「ベル、そうじゃないよ。床の拭き方はもっと、こう」

「……わかってるわ」


 ――違う、わたしの名前は『ベル』じゃない。


 そんな反発から、ついそっけない言い方になってしまう。

 それなのに、孤児院の子たちはなにも言わない。それがかえって居たたまれなかった。


 セラが言っていた。ここにいる子たちは、みな誰かを亡くしたり、なにも持っていない子たち。

 だから、ここに来たばかりの時は、傷つき、心を閉ざしている子が多い。

 それがわかっているから、誰もなにも言わないのだと。


 ……わたしばかりつらいわけじゃない。それはわかってる。

 わかっていても、心は暗い影を落とした。


 もう誰とも関わりたくはなかった。誰かに心を許すのが怖かった。

 だから、わざと距離を取るようになった。


 掃除の時間、はしゃぎ回っていた子のひとりが、わたしにぶつかる。


「ご、ごめん!」

「……気をつけて」


 自分で思ったより冷たい声が出た。わたしより年下のその子が、泣きそうな顔になる。

 居たたまれなくて、背を向けた。


 本当は誰も傷つけたくない。けれど、自分から近づくこともできない。


 このままでは孤児院に居場所がなくなってしまう。

 ――わたしにはもう、ここしかないのに。


 周りの視線から逃げたくなって、わたしはセラのもとへ向かった。


「……買い物にいきたい?」


 セラは怪訝(けげん)な顔をした。


「うん。ちょっと外の空気を吸いたくて」

「気分転換なら散歩でもいいでしょう? 買い物ならわたしが……」

「いいの。ひとりで行きたい」

「でも……最近は物騒なのよ。誰か年長の子でもつけ――」

「大丈夫だってば!」


 わたしはセラの手から買い物リストと財布の入った麻袋を強引にひったくって、外に飛び出した。


「――イザベル!」


 後ろのほうでセラが誰かに「追って!」と言っているのが聞こえたが、振り切るように走った。



 ◇◇◇



 王都の朝市はにぎやかだった。

 魚や野菜、果物に薬草、布や日用品までが所狭(ところせま)しと並んでいる。


 季節は春。

 一年でもっとも活気のある時期だ。

 石畳(いしだたみ)の道を風が吹き抜け、どこからか甘い花の香りがただよっている。


 あちこちの店で呼びこみや笑い声が行き交う。

 だが、わたしにはその雑踏のすべてが、どこか遠いできごとに思えた。

 まるで、わたしの周りだけ春に忘れ去られたかのような。


 誰とも目を合わせたくなくて、下を向きながら歩く。

 やがて市場の露天で、お目当ての乾燥薬草を見つけた。


「ミントとセージとタイム、フェンネルをひと束ずつ。それと、カモミールはふた束ください」

「あいよ」


 白ひげを生やした商人が、にこにこと愛想よく袋づめしてくれる。


「ミントが四ピンギン、セージが六ピンギン、タイムが八ピンギン、フェンネル六ピンギン、それからカモミール十二ピンギン。合計三十八ピンギンだよ」

「……三十六の間違いでは?」


 商人の顔がピクリと引きつる。

 ……おおかた、孤児と見てふっかけようとしたんだろう。この歳の孤児は計算ができない者も多い。

 だが、おあいにくさま。こっちは元貴族だ。計算くらいできる。


「す、すまんすまん。間違えちまった。三十六ピンギンな」


 ふん、と鼻を鳴らして、わたしは無言で財布を取り出した。


「お嬢ちゃん、その値段はぼったくりだよ」


 後ろから低い声がした。

 振り返ると、杖をついた初老の男が立っていた。


「どれも高すぎるよ。倍額じゃないか? ミントは二ピンギン、セージは三ピンギン、タイムは四ピンギン、フェンネル三ピンギン。カモミールだって、いくらこの時期は流通が少ないからって、ひと束あたり三ピンギンが限度だろう。だから、ふた束六ピンギン」

「つまり、本当は合計十八ピンギンと」


 ずいぶんぼってくれようとしたじゃないか。

 わたしがギッと睨みつけると、商人は気まずそうに目をそらした。


「……悪かったよ。ほら、これもつけるから」


 店主はそう言うと、細いローズマリーの枝を一本、袋につめた。


 こんなに外面のいい商人だって、騙そうとしてくるんだ。

 やはりおとなは信用できない。


「災難だったね、お嬢ちゃん」


 助け舟を出してくれた初老の男が、同情したように言う。


「……どうも」


 商品のつまった麻袋を胸に抱き、わたしは軽く会釈してその場を立ち去った。


 ……この優しさにだって、なにか裏があるかもしれない。

 そう簡単に信用するものか。



 その後は、まず店先で客と店主のやり取りをしばらく観察してから買うようにした。

 令嬢だったころは買い物などしたことがなかったから、計算はできても相場がわからない。

 また足もとを見られるのは嫌だった。

 時間がかかってしまったが、まだ孤児院に帰るのが気まずいわたしにとっては、かえって都合がいい。


 黒パン一斤と卵六個、簡易石鹸一個、それと春蜂蜜の瓶一本。

 肩に食いこむ麻袋の重み。

 だが、泣き言は吐かない。このくらいなら、わたしでも持てる。


 振り返ることも、助けを求めることもせず、わたしは黙々と歩き続けた。


 ふと、向こうに一台の馬車が見えた。

 家紋の刺繍入りカーテンが、わずかに揺れる。

 ――その紋には見覚えがあった。


 間違いない、エインズワース伯爵家の紋だ。

 それなら、あの馬車の中にはクラリッサがいるかもしれない。


 クラリッサ・エインズワースは、王立エトワール礼法学舎でできた友人だ。

 わたしたちはいつも、まるで姉妹のように仲がいいと評判だった。


 彼女なら、わかってくれるかもしれない。

 両親の無実を。そして、わたしの気持ちを。


 わたしは思わず、馬車に歩み寄っていた。

 護衛の騎士が接近に気がつき、顔をしかめる。


「物乞い風情が! 下がれ!」


 強く払いのけられて、わたしは転倒した。

 麻袋から薬草とパンがバラバラと転がり落ちる。

 卵はいくつか割れていた。


 わたしは呆然と顔をあげる。

 馬車のカーテンの隙間から、令嬢が顔をのぞかせる。


 ――クラリッサだ!


 わたしは期待に胸を膨らませた。


 ……だが、それだけだった。

 クラリッサとは、たしかに目があった。

 しかし、顔をこわばらせた彼女は、すぐにカーテンを閉じてしまった。


 ……ああ。


 わたしの胸に絶望が押しよせる。

 なにを夢見ていたんだろう。

 サントレアは罪人の家。もはや、伯爵令嬢と仲よくできるような身分じゃないんだ。


 わたしは立ちあがる気力もなかった。

 ただ、遠くなっていく馬車を、じっと見つめていた。


 地面に散らばった品物を拾う気にもなれず、ただぼんやりと眺める。


「……っとと」


 すぐそばで、誰かが足をかばいながらゆっくりと膝をついた。

 先ほどの初老の男だった。

 彼は散らばった物を拾いあつめると、「ほら」と麻袋に入れて手渡してくれた。


 助けてくれたのに。

 わたしは、その顔をまともに見れなかった。

 お礼さえうまく言えなかった。

 彼はなにも言わず、そっとその場を後にした。


 胸の奥で、静かに冷たい声が響く。


 もう誰も信じない。

 優しさも、愛情も、友情さえも。

 すべては幻だった。


 ひとりで生きるしかない。

 誰にも期待しない。誰も頼らない。


 座りこむわたしを無視して行き交う人々の中。

 わたしはただ、にじむ空を見あげていた。


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