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忠義は闇に消えて

 月明かりに照らされて、ベルトラムのロマンスグレーの髪が、にぶい光を放っていた。

 歳月を刻んだ面差しは、しかしこれまでに見たこともない険しさが宿っている。


「……ベルトラム……?」


 震える声で名前を呼ぶ。

 けれど、それ以上なんと言葉を続けるべきか、わたしはとっさに迷った。

 物心つく前から世話になっている家令としてのベルトラムと、わたしたちを裏切ったというベルトラムとが、頭の中でうまく結びつかなかったからだ。


 そうやってわたしがまごついているうちに、彼はイライラとため息をついた。


「まったく、やってくれましたね。まさか、あの隠し通路を使うとは」


 ……怖い。

 たしかに顔はベルトラムなのに、まるで中身が別人になってしまったかのようだった。

 そのくらい、ふだんの彼とは雰囲気が違った。


「……なぜ、ここが?」


 なにも言えないわたしに代わって、エルシーが問いかける。


「わたしは長年このサントレア家に仕えてきたのですよ。あの秘密通路のことを、知らないとでも?」


 その言葉は、わたしの心をえぐった。


 ……そんな、では。

 父と母は、こんな人を信頼してしまったのか。

 家族だけの秘密だった、あの脱出口のことも、教えてしまうほどに。


 一瞬、冷え冷えとした静寂がおりる。

 それをやぶったのはエルシーだった。


「……信じておりましたのに」


 エルシーは毅然とした声で言った。


「まさかグレイヴズさまが、そのような真似をなさるはずがないと」

「なんだと?」


 ベルトラムがピクリと眉をあげる。

 わたしを背中にかばって、エルシーは彼に立ち向かった。

 その手がわずかに震えているのを、わたしは見逃さなかった。


「ごまかさないでください」

「……」

「わたくしは、すでに存じております。あなたが――サントレア侯爵家を裏切ったことを」


 その瞬間、ベルトラムの瞳に烈火のような怒りが走った。


「……バカな!」


 低くうなるような声だった。


「イザベルさま、こんなやつの戯言(ざれごと)に耳を傾けてはなりませんぞ!」


 焦ったようにベルトラムが手をのばしてくる。

 わたしはとっさに後ずさった。

 ――(さと)る。もう、彼を信じることはできないと。


「お嬢さま、こちらへ!」


 エルシーが(なか)ば引きよせるようにして、わたしの手を引く。


「ご安心を。わたくしが必ずお守りいたします。……さあ、お急ぎください!」


 彼女の顔は必死だった。

 その強い意志に導かれるまま、すがりつく。


 しかし――


「……やむを得まい」


 ベルトラムが静かに杖をかまえた。

 月光に照らされて輝くのは、銀黒色の〈ヘマタイト〉。

 守護と勝利の石が、今は痛烈な皮肉に思える。


 彼の表情からは、冷酷さも、激情も感じ取れなかった。

 ただ、深い覚悟だけは伝わった。


「ここで止めさせてもらう。小賢しいドブネズミめ……。あなたのことは、一番に警戒していたのですがね」


 ピシリ、と空気が張りつめた。

 ベルトラムの足もとから魔力の波動が広がる。


 ……嘘だ。

 まさか、ほんとうに呪文をとなえる気なの?


「――〈束縛せよ(ガヴァール)〉!」


 するどい声が、夜の静寂を引き裂いた。

 ベルトラムの影は無数の縄となり、こちらに襲いかかってくる。

 だが、エルシーも一歩も引かなかった。


「〈解き放て(スカイル)〉! 〈炎よ(ティーネ)〉!」


 即座に解除呪文をとなえ、カウンターをしかける。

 彼女の〈レッドスピネル〉が紅の閃光を放った。炎が渦となって、ベルトラムに襲いかかる。


「〈風よ(ガエス)〉!」


 それをまた、ベルトラムが風圧で返す。

 両者、一歩も引かぬ戦いだった。

 ふたりの魔力が激突する。


 わたしは目の前の恐怖に、思わずへたりこんでしまった。

 なにしろ、初めて魔導士同士の決闘を見たのだ。

 間近で攻撃魔法がぶつかり合うのが、どれほどの迫力なのかを思い知った。


「――お嬢さま! お逃げください!」


 エルシーの叫び声が背中を押す。

 わたしは必死に立ちあがり、闇の中へと走り出した。



 ◇◇◇



 裏門の外には細い道があった。

 ここを道なりにいけば、村にたどり着ける。

 だが、小道のまわりは森で囲まれていて、月明かりもほとんど届かない。


 この重苦しい闇の中を、わたしひとりで抜けなければならないのだ。

 曲がりなりにも侯爵令嬢だったわたしは、ひとりで出かけたことがなかった。

 いつも使用人が付きそってくれていて、決して不安も寂しさもなかった。


 今、こうして深い森をひとりで歩くことになって、初めて実感する。

 わたしは、こんなにも守られてきたのだと。

 そして、庇護を失ったわたしは、あまりに無力なのだと。


「……お父さま、お母さまぁ……」


 泣きべそをかきながら、恐怖に震える足をぎこちなく動かして、進む、進む。

 ここでくじけたら、命がけで逃がしてくれたエルシーの献身がムダになってしまう。


 だが、虚勢もそこまでだった。

 どこからか人の気配がしたかと思うと、あっという間だった。

 気がつくと、わたしは何人もの黒衣の人間たちに囲まれていたのだ。


「おい、いたぞ! こいつだ!」


 先ほどの査察官が着ていた黒衣とは、まったく違う。

 全員、あきらかに堅気ではない雰囲気がある。

 そのうえ、顔の半分以上をマスクで覆っているせいで、どんな顔をしているかもわからない。

 ただ声からして、ほとんどが男だ。


 伸びてきた腕をかいくぐり、とっさに森の中に逃げこめたのは奇跡だった。


「おい、待て! 逃げるんじゃない!」


 待てと言われて待つ人間がいるものか、と今なら言えるけれど。

 この時のわたしは、とにかく「捕まってはいけない」という一心で動いていた。

 やぶに飛びこみ、木の(うろ)を抜け、がむしゃらに走った。もはやなりふりかまっていられなかった。


 しかし、しょせんはおとなと子ども。

 いつしか命運もつきてしまう。


 疲れに足がもつれたわたしは、その場に倒れこんでしまった。


「ちっ、手間かせさせやがって……」


 黒衣の男のひとりが手をのばしてきた――その時だった。


 ジャララッと金属音がして、男の腕になにかが巻きついた。


「っ、なんだ、これは……っ」


 わたしにも、なにがなんだかわからなかった。

 見れば他の男たちも全員、蛇のように巻きつく鎖に拘束されている。


「――そこまでだ」


 凛と響く女性の声だった。


「この国の法律を忘れたとは言わせない。未成年者への襲撃行為、集団威圧、そして正体を隠しての不審行動――きさまらはこの場で拘束させてもらう」

「何者だ、きさま!」


 男のひとりが誰何(すいか)する。


 彼女は名乗った。

 わたしにとっては運命の名を。


「違法魔術取締官、セラ・フィンレイだ。――抵抗は許さん。全員まとめてお縄につけ」



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