すべてが優しかったころ
かつて、わたしは侯爵令嬢だった。
もう八年も前の話だ。
朝起きれば、部屋は花の香りに包まれていた。
天蓋つきのベッドに、刺繡入りの白リネン。今では考えられないほどの贅沢だ。
目覚めの紅茶を差し出してくれるのは、若いメイドのエルシーだった。
「お嬢さま、おはようございます。今朝の紅茶はダージリンにいたしました。お好みでしたら、あとでミントもお持ちしますね」
にこやかな声とともに、ほのかに香る温かな紅茶が差しだされる。
わたしが起きあがるより早く、彼女はそっと枕もとのクッションを整えてくれた。
「エルシー、いつもありがとう」
「とうぜんの務めですわ。お嬢さまの朝は、気持ちよく始まらねばなりませんもの」
くすくすと笑いながらも、彼女の動作は無駄がなかった。
銀盆に香油を垂らし、指先で印を描く。
「〈洗浄〉――」
光が立ちのぼり、わたしの体を包んでいく。身を清めるための浄化魔法だ。
たちまち眠気とともに、夜の気配が拭い去られていく。
今日の予定にあわせて選んだドレスは、肌ざわりすら魔法で調整されていた。
「お嬢さま、今日の髪型はいかがいたしますか?」
「うーん。それじゃあ、後ろでひとつにまとめてちょうだい」
「かしこまりました。では、お召し物にあわせて、こちらのリボンはいかがでしょう?」
香油を使い、エルシーは手際よく髪を結いあげてくれる。
その腕に、薔薇のように赤いやけどの痕を見つけるたび、わたしは胸がしくしく痛んだ。
「ごめんなさい、エルシー。その、やけどの痕……」
「もう、お嬢さま。何度目でしょう。お気になさらないでくださいと、いつもお伝えしておりますのに」
「でも、女の子の肌にやけどの痕だなんて……」
当時、エルシーはまだ十六歳だった。
この国において、特に若い女性の傷あとは、瑕疵と見なされることも多い。
かつて屋敷でボヤ騒ぎが起きた時、わたしをかばってできた傷だった。
「これは、お嬢さまを守った名誉の証。おかげでこうして取り立てていただいて、むしろ感謝しているくらいです」
「……エルシーほどすごいメイドさんなら、あんなことがなくたって、今ごろ偉くなっていたと思うわ」
「まあ、お嬢さまったら」
エルシーは花のようにくすくす笑った。
彼女はもともと、親を亡くした孤児だったらしい。
孤児院から奉公先として、この屋敷にきたのだ。いわば道徳教育の一環だった。
下級メイドは、主人の家族と話してはならず、目も合わせられない。
もしあのボヤ騒ぎがなければ、わたしはずっと彼女の存在を知らないままだったろう。
だから、不謹慎だけど、嬉しかった。こんなこと、言ってはいけないのだけれど。
きょうだいのいないわたしにとって、彼女は姉のような存在だった。
◇◇◇
父の仕事が休みの日は、わたしにとって一番嬉しい時間だった。
書斎にこもりがちな父に、読み聞かせをねだりに行く。
なにせ遺跡好きが高じて、王立研究局の局長にまでなった、筋金入りの考古学者だ。古い物語をたくさん知っていた。
「じゃあ、今日は『春の娘』のお話をしてあげよう」
「春の娘?」
父の膝の上に座りながら、わたしはワクワクした。
低くて心地のいい声が、物語を紡いでいく。
「むかしむかし、あるところに、〈春の娘〉がいました。
春の娘は、花のつぼみがふくらむころになると、いつも丘のうえでひとり遊んでいました。
風が吹けば、『今日はおだやかですね』とあいさつし、木々が揺れれば、『なにかお困りごとですか?』とたずねました。
春の娘の言葉に、風も木も花も、嬉しそうにうなずきます。
そのうち、娘は〈賢者の木〉に出会いました。
その木はとても古くて、とても賢くて、たくさんのことを知っていました。
『春の娘よ。どうしておまえは、わたしたちの声が聞こえるのだい?』
春の娘は笑って言いました。
『だって、誰にだって、心はあるでしょう?』
木はその言葉を気に入りました。
それから娘は、毎日、木とお話しをしました。
木は娘に、草の育てかたや、虫とのつき合いかたを教えてくれました。
娘はお礼に、花の歌を風にのせて届けました。
けれど、ある年のこと。
村に大きな病がはやりました。
人々は、『呪いだ』と言い合い、木を切ってしまおうとしました。
人々には木の声が聞こえません。
娘が話しかけるこの木を、『悪魔がついている』と気味悪がったのです。
春の娘は泣きながら言いました。
『この木は悪くありません。どうか切らないで』
けれど、人々は耳を貸しません。
とうとう木は切られてしまいました。
村には薬も祈りも届かず、病が広がるばかりでした。
その年、春はきませんでした。
花は咲かず、草木は芽吹かず、鳥も歌いません。
ようやく人々は気づきました。
『春の娘は、ほんとうに精霊と話をしていたんだ』と。
それからというもの、人々はもう二度と、草木を軽んじなくなりました。
そして今でも、あの丘には一本だけ木が立っています。
その根もとにある石碑には、こんなことが書かれていました。
――『すべてのものに、心はある』と」
「なんだか、木がかわいそう」
子どものころのわたしは、そう言って泣いたのだったか。
父はわたしを抱きあげ、笑った。
「イザベルは〈春の娘〉みたいだね」
「わたしが?」
「そうとも。優しいところなんか、そっくりだ」
どう考えても親の欲目ではあったけれど。
大好きな父に褒められたことが、子ども心に嬉しかった。
「それに、イザベルは〈春の娘〉と同じように、木や風の声が聞こえるだろう? きっと〈賢者の木〉からの贈り物だよ。大切にしなさい」
……ああ、そうだった。
あのころのわたしは、自然と対話するのが好きな子どもだった。
よく〈エディンの森〉に遊びにいっては、精霊の声を聴いたっけ。
成長するにつけ、いつの間にか聴こえなくなってしまったけれど。
変わり者の娘を、しかし両親は〈村人〉のように気味悪がったりしなかった。
「神さまの祝福だから、大事になさい」
なんて言ってくれたっけ。
いい人たちだった。
いつでも明るくて、優しくて。
領民にも愛されて、毎年春分と秋分の祭りの日になると、花を贈られたりもしたっけ。
あんなふうに殺されていい人たちじゃなかった。
忘れもしない、あの夜。
――あの日は、わたしの七歳の誕生日だった。
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