プロローグ.少女、大貴族に買われる
太陽が陰り始めた夕暮れ時、ある立派な屋敷の門前で、見るからに高貴な一人の女性と、見るからにみすぼらしい一人の少女が何やら話していた。
「さて、お前さんは私に買われた訳だが、何か言いたいことはあるかね?」
威風堂堂という言葉が似合いそうなこの女性は、齢四十くらいだろうか、馬の尾のような美しい黒髪を一つに束ねている。美しい貴族とも、麗しい武人とも見える鍛え抜かれた身体には、簡素だが仕立ての良い服が似合っている。
その彼女が問いかける先には、体のあちこちに土をつけたみすぼらしい少女がいた。手入れをすれば美しいであろう甘栗色のまっすぐな髪は雑に束ねられ、伸びきった前髪の隙間からは切れ長で鋭い眼光が覗く。
齢十六にしてすでに苦労が見て取れる哀れな少女は、その名を荻原 怜といった。
「いえ、何もございません」
少女は顔色一つ変えずに答える。
「ふむ。買主である私に気を遣っているのか?私はお前さんの正直な気持ちを聞きたいのだが」
女性が試すように少女の土だらけの顔をまっすぐ射貫くと、少女は、ほんの少しだけ悩んだように瞳を揺らし、「では…」とためらいながら口を開いた。
「人を金で買うような人間には罰でも当たればいいのに、と思います」
静かな声色でただ淡々とそう言い放った。
女性は一瞬真顔になった後、空気が割けそうなほどの大声で笑い、「嗚呼、本当にいい買い物をさせてもらったよ」などとつぶやきながら目じりに溜まった涙を拭った。
ひとしきり笑い終えた後、少女に向かって手を差し伸べながら続ける。
「改めまして、私は鷲津 響。お前さんは確か、怜といったね。今日からは、鷲津 怜と名乗りなさい。鷲津家へようこそ、我が娘よ」
土だらけの少女の手を、まったく躊躇することなく両手で強く握りしめた。
先ほどまで顔色一つ変えなかった少女は、目を大きく見開き、思わず口から心の声が飛び出した。
「はいはい、下僕ですか?奴隷ですか?……って、娘?ええええええええ!?」
そこには、なすがままに両手を勢いよく振られながら、呆然とした一人の少女の姿があった。
――まさかこのみすぼらしい少女が、今後この国で巻き起こるさまざまな事件を解決することになろうなど、誰も夢にも思うまい。
そもそも、事の起こりは一週間前、大貴族である鷲須が少女の家を訪ねたところから始まったのである。