蘭
秋が、怖かった。
夏と冬の間にある秋が、怖かった。
短くて、儚くて、悲しくて、寂しいから、私は秋が怖かった。
でも、短いからこそ、儚いからこそ、悲しいからこそ、寂しいからこそ、秋は懸命に生きる。
だから私は、秋が・・・。
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夏の暑さも和らぎ、秋の音が少しずつ聞こえ始めた頃。
私は御膳を運びながら、廊下をゆっくりと歩いていた。
歩きながら、庭を見た。
庭に植えた桜の木は、少しずつ茜色に変わろうとしていた。
桜は春に咲き、秋に紅葉する。
紅葉する桜の事を『桜紅葉』と言う。
真っ赤な紅葉とは異なり、紅葉した桜は少し赤みがかった橙色や黄色など、まるで夕日の様な色になる。
桜は春には桜色に、夏には緑色に、秋には夕日の色になる。
そして冬には、真っ白な雪の花が咲く。
桜には、色々な色がある。
桜は、もしかしたら一年中咲き続けているのかもしれない。
青い空と『桜紅葉』を眺めながら歩いていると、少し冷たい空気が私を包み込んだ。
折角の温かいお料理が冷めてしまうと思い、私は少し足早に廊下を歩いた。
兄上の部屋の前まで来ると私は廊下に正座し、お膳を自分の横に置いて部屋の中に居る兄上に障子越しに声を掛けた。
「兄上。
お昼の御膳をお持ち致しました。
入っても宜しいでしょうか?」
すると、部屋の中から穏やかな声が聞こえて来た。
「有難う。
入っておいで」
私は障子をゆっくりと開け、お膳を持って立ち上がり、兄上の許へ向かおうとした。
そして兄上の姿を見るなり、小さな声で叫んだ。
「兄上!!
また、そんな薄着で!!
秋とはいえ、今日はとても肌寒いのですよ!!
お身体が冷えて体調を崩されたら、どうするのですか!?」
そう叫ぶなり、私は急いで障子を閉めて、お布団から起き上がって本を読んでいた兄上に小走りで近づいた。
そして御膳を畳の上に置き、掛布団の上に広げて置いてあった濃紺の綿入れ半纏を素早く手に取って兄上の肩に掛けた。
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本来、武家の人間は半纏を着用しない。
庶民と武家の身分を区別する為、庶民は半纏を、武家は羽織を着用すると決められていた。
しかし私の家では、其の様な事は一切気にしていなかった。
お祖母様と母上は私達の着古した着物を半纏用に縫い直し、私達は其れらをいつも着ていた(私はお裁縫が苦手なので、作らない。と言うか、作れない)。
着古した着物を再利用する事は、良い事だ。
無駄にしない事は、良い事だ。
誰が何と言おうとも、良い事は良い事だ。
其れに、お祖母様達が縫った綿入れ半纏は何が入っているのかは分からないけれど(恐らく、綿以外の『何か』も入っているはずだ)、とても暖かかった。
暖かいから、着る。
何も悪い事はない。
道理的で、合理的である。
時々、仕付け糸(仮止め用の糸)を取り忘れている事があったけれど、何の問題もない。
寧ろ、心までもが温まる。
仕付け糸を見る度に、何故かクスクス笑ってしまう。
其れが楽しい。
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私が兄上を睨んでいると、兄上は少しばつの悪そうな顔をしながら「有難う」と言って私に微笑んだ。
私は「全く・・・」と呟きながら、畳の上に置いた御膳から御薬湯の入った湯呑だけを手に取った。
そして其れを少しだけ畳の上に置き、御膳を持ち上げて兄上に手渡した。
兄上は読んでいた本を閉じて私とは反対側の畳の上に置き、私から御膳を受け取った。
兄上が御膳を受け取った後、私は畳の上に置いた湯呑を手に取り、湯呑の中の御薬湯が冷めない様に手の中に包み込んだ。
最近、食が細くなってきた兄上の今日の御昼御飯は、お粥とお味噌汁、茗荷の酢漬けと梅干し、そして芋茎(里芋等の葉柄部分)の煮物である。
私は以前、風邪を引いた時、母上に黒く焼いた梅干しを食べさせられ、種を取り除いた梅干しを練って熱湯を注いだお白湯を飲ませられた事があった。
其の時は他の食べ物との食べ合わせと量のせいで具合が悪くなり、とんでもない目にあったが、本来、梅干しは【一日一粒の梅干しで医者いらず】と言われるほど栄養価の高い食べ物であると言われている。
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私の家では、(主にお祖母様と母上が)お味噌と梅干しを作る。
先ず、お味噌について。
【医者に金を払うよりも 味噌屋に払え】
【医者殺し】
と言われるように、お味噌は非常に身体に良い。
またお味噌は肌を綺麗にする効果や睡眠の改善、冷え性の予防、癌予防、健康増進など、身体に良い事尽くしの食べ物である。
もし、お味噌の塩分が気になるようであれば、加減すれば良い。
如何に加減するかは、自分次第。
塩分を取り過ぎたのなら、其れは自己責任。
お味噌のせいではない。
お味噌の起源は、周(中国。紀元前1046年~紀元前256年)の『醬』と言われている(縄文時代(紀元前1万5000年頃~紀元前3世紀頃と言われているが、不明)に日本で誕生したと言う説もある。縄文時代はとても平和で争いも少なく、高度な文明があったと言われている)。
『醬』とは、お醤油やお味噌の原型である。
『醬』には、四つの種類がある。
『魚醬』『肉醬』『草醬』『穀醬』。
遣唐使(7世紀~9世紀)によって日本に伝えられた『醬』は、『未醬』であった。
『未醬』とは、『未だ醬にならざるもの』と言う意味である。
日本に入って来た『未醬』は、『味醬』⇒『味曽』⇒『味噌』と読み方と漢字が変化していったと言われている。
また『噌』は、『味噌』でしか使われない国訓(漢字に日本の言葉を当てて読む事)である。
『噌』と言う漢字の偏は『口』であり、旁は『甑(蒸し器)から蒸気が発している様』である事から、『噌』には『喧しい』『騒がしい』と言う意味がある。
平安時代(8世紀末~12世紀末)、お味噌はとても高価であった為、貴族階級の人々が料理にかけたり付けたりして食べたり、又は月給として支払われたりもした。
鎌倉時代(12世紀末~14世紀初め)、擂鉢が明(中国。1368年~1644年)の僧によって日本に伝えられ、日本人はお味噌を擂り潰して其れにお水を加えて食べるようになった(お味噌汁の誕生)。
此れが、『一汁一菜(主食・汁物・惣菜(更に、香の物を付け加える事もある))』の始まりである。
室町時代(14世紀初め~16世紀末)、お味噌汁が庶民の間でも広まり、自ら大豆を作ってお味噌を作るようになった。
戦国時代(15世紀末~16世紀末)、戦の際に武士は味噌玉(焼き味噌を一食分ずつ丸めたもの)を兵糧食として戦場に持って行って其のまま食べたり、お味噌をお湯で溶いて即席のお味噌汁を作ったりした。
江戸時代(17世紀初め~19世紀半ば)、日本の中心地であった江戸には様々な地域からお味噌が入って来たので、江戸に住む人々は其れらを融合・改良し、江戸独自の様々なお味噌を作った。
其の結果、お味噌の料理が一気に増えた。
お味噌は、お味噌汁は勿論の事、胡瓜に付けたり、味噌田楽にしたり、お魚の味噌煮に使ったり、茄子を味噌に漬けたり、大根の味噌漬を御飯に混ぜたりなど、様々な料理に使われる。
お味噌の料理方法は、無限である。
またお味噌は、地域によって味も色も原料も異なる。
『津軽(青森)味噌』
味 ・・・辛口・独特の旨味
色 ・・・赤色
原料・・・大豆・米麹
『仙台(宮城)味噌』
味 ・・・辛口・塩味・旨味
色 ・・・赤色
原料・・・大豆・米麹
『越後(新潟)味噌』
味 ・・・辛口・甘味・旨味
色 ・・・赤褐色
原料・・・大豆・米麹
『江戸(東京)味噌』
味 ・・・甘味・独特の香り
色 ・・・赤褐色
原料・・・大豆・米麹
『信州(長野)味噌』
味 ・・・辛口・酸味・さっぱりとした旨味
色 ・・・淡色
原料・・・大豆・米麹
『東海(愛知・三重・岐阜)味噌』
味 ・・・辛口・旨味・渋み・酸味・独特の風味
色 ・・・黒に近い赤褐色
原料・・・大豆・塩
『関西味噌』
味 ・・・強い甘味
色 ・・・白色
原料・・・大豆・米麹
『瀬戸内(愛媛・山口・広島)味噌』
味 ・・・甘味・独特の芳香
色 ・・・赤色・淡色
原料・・・大豆・麦麹
『九州味噌』
味 ・・・甘味・辛口
色 ・・・赤褐色と淡色
原料・・・大豆・麦麹
北海道から中国・四国(除く、東海・関西・瀬戸内)は、主に米味噌。
東海・関西は、主に豆味噌。
瀬戸内・九州は、主に麦味噌。
お味噌は原料や作り手、度合い、気候、風土、熟成期間によって、それぞれ味が異なる。
地域によって特徴があるので、とても面白い。
其れは、お味噌に限らない。
私の家では、毎年如月(二月)にお味噌を作る。
≪お味噌の作り方≫
一. 夜、大豆 約三分の一貫
(一貫=3.75キログラム。
3.75キログラム÷3=1.25キログラム)
を洗って大きな甕に入れ、一晩水に浸けてふやかす
※ 夜に行うのは、時間短縮の為。
夜に準備しておけば、次の日の明るい内に
お味噌作りに取り掛かれるから。
二. 大豆が完全にふやけるお昼頃、指で潰れる位まで
大豆を茹でる
三. 二を冷ます
四. 米麹三分の一貫と塩九分の一貫
(3.75キログラム÷9≒0.4キログラム)を
底の深いお皿に入れ、混ぜておく
五. 三を擂鉢に少しずつ入れ、糊状になるまで
擂粉木で潰す
※ 硬ければ、茹で汁を入れる
六. 五に四を少しずつ入れ、団子になる位の硬さに
なるまで擂粉木で混ぜる
七. お味噌を入れて保存する為の甕を焼酎で拭き、
乾いた布で甕に付いた焼酎を綺麗に拭き取る
八. 甕の中に団子状にした六を、少し敲きつけるように
して入れる
※ 敲きつけて入れるのは空気を入れないように
する為(空気が入ると黴が生える可能性が
ある)、敲き付けた方が容れ易い為、
日頃の鬱憤を晴らす為だと、
母上が言っていた。
九. 八を平らにし、表面に適量の塩を均等に塗す
十. 九に埃一つ入らないように和紙で幾重にも
蓋をして、甕の首を和紙ごと紐で括り
縛って密閉状態にする
※ 出来るだけ真空状態にすると、
黴が生えてき辛い
十一. 二、三年経つとお味噌の色が白色から
濃い色になり、塩辛くなる(食べ頃)
お味噌作りは、労力を使う。
何故なら、お味噌はとても重いからだ。
甕に入れたお味噌の持ち運びは、結構大変である。
だから私の家ではお味噌を三回に分けて作り、それぞれ三つの甕に入れて涼しい場所に保管する。
お祖母様と母上がお味噌の入った甕を運ぶ時は、私と弟が必ず手伝うようにしている。
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梅干しの歴史も古い。
梅については、後漢(中国。25年~220年)の薬物学書〖神農本草経』に書かれている。
また日本に梅を齎したのは応仁天皇の御代(4~5世紀)、百済を通って漢字や〖千字文(漢文の長詩)〗〖論語(儒教の経典)〗を日本に伝えた渡来人である王仁(漢人)、或いは欽明天皇の御代(6世紀)に日本に来た呉(中国)の高僧であるとも言われている。
〖懐風藻(日本最古の漢詩集。751年頃)〗〖万葉集(日本最古の歌集。780年頃)〗にも、梅を詠った歌が多数ある。
奈良時代(8世紀始め~8世紀末)まで『花』と言えば『桜』ではなく、『梅』を指していた。
嵯峨天皇(786年~842年)が『桜の花見』を催してから、詠われる『花』が『梅』から『桜』に変わっていったと言われている。
梅の実は奈良時代には生菓子として食されたり、または『烏梅(真っ黒になるまで燻製した梅を乾燥させて作った解毒薬)』など薬として服用したりもした。
平安時代には、梅は塩漬けされて保存食や薬として食された。
此の塩漬けが、梅干しの起源と言われてる。
疫病に罹った村上天皇(10世紀)は、『大福茶(梅干しと昆布を入れたお茶)』を飲んで回復されたと言われている。
鎌倉武士は出陣の際、縁起が良い(『梅』と『産む』と言う音が近い事から『子孫繁栄』、皴が出来るまで二人で生きると言う意味から『夫婦円満』)とされた梅干しを食べた。
戦国時代、武士は軽くて日持ちも良く疲労回復にも効く梅干しを兵糧食として戦場に持って行った(兵糧丸にも使われたと言われている)。
昔は武士や貴族など限られた人しか梅干しは食べられなかったけれど、今は多くの人々に梅干しは食べられている。
お饂飩やお蕎麦に入れたり、梅干しをお湯に入れて飲む梅湯、そして御飯やお豆腐の上に載せて食べたりする。
梅干しではないけれど、山形藩では『甘露梅』と言う名の梅を使ったお薬もある。
【梅は三毒を断つ】
※ 三毒(『水毒(鼻炎・浮腫み等)』
『食毒(便秘等)』『血毒(頭痛・肩こり等)』)
【梅干しの七徳】
※ 江戸時代に書かれた〖飲膳摘要〗に記載
※ 七徳(『毒消し』『防腐効果』『疫病を避ける』
『味が変わらない』『口に含むと息切れをしない』
『蟀谷に貼ると頭痛が和らぐ』
『梅酢は流行病に効く』)
と言われる様に、また〖医心方(日本最古の医学書。984年)〗にも書かれている通り、梅干しは昔から、とてつもなく身体に良い。
代謝を高め、身体に脂肪が付き難くなり、血液を綺麗にしてくれる。
更に二日酔いにも、疲労回復にも、風邪にも効く。
梅干しは、万能である。
私は梅干しが大好きだけれど、特に『天神様』が大好物である。
『天神様』とは、梅干しの種の中にある白い実『仁』の事である。
菅原道真公は梅を好んでいた為、何時しか「梅干しの『仁』には『天神様』がいらっしゃる」と言われるようになり、『仁』を『天神様』と呼ぶようになった。
梅干しは、身体に良い。
身体に良いけれど、熟していない青梅の『仁』には毒がある。
だから、青梅の『仁』は決して食べてはならない。
青梅の『仁』は食べてはならないけれど、梅干しの『仁』は食べても大丈夫。
大丈夫だけれど、食べ過ぎは良くない。
梅干しは大量の塩に漬けるので、梅干しも『仁』も大量に食べ過ぎると塩分の過剰摂取となる。
【過猶不及】
『過ぎる』と言う事と『及ばない』と言う事は、同じ事である。
だから梅干しも『仁』も、一日一、二粒程度が丁度良い。
私は梅干しを食べた後、使い古した和紙の間に良く洗った梅干しの種を入れ、丁度良い石段の上に載せて金槌で敲いて種の中の『天神様』を取り出す。
「一々金槌で敲くのは面倒だ」と思って、嘗て種を歯で割ってみようとしたが、歯が持って行かれると思って途中でやめた。
私は此の時、【無理はすべきではない】【時には、遠回りも必要だ】と言う事を学んだ。
ただ金槌で敲く時の力加減が重要で、弱過ぎると種は割れず、強過ぎると中の『天神様』まで死んでしまう。
正に、【良い塩梅】が重要なのである。
小さい頃は腕が未熟であったせいか、何度か金槌で自分の指を敲いて痛い目にあった。
しかし此の時、私は【痛い目にあって、人は大人になっていくのだ】と言う事を学んだ。
痛い思いを沢山したお陰で、今は綺麗に梅干しの種を割る事が出来るようになった。
努力の賜物である。
努力した跡は、心と体に必ず残る。
やはり、努力って素晴らしい。
私の家では、毎年皐月(五月)から水無月(六月)に梅干しを漬ける。
≪梅干しの作り方≫
一. 約三分の一貫(1.25キログラム)の熟した
黄色い梅の黒いヘタを
取って洗い、綺麗な布で丁寧に
拭いて甕に入れる
二. 梅三分の一貫に対して一割の塩(但し、一割の
塩の内少量は別のお皿に待機させる)と焼酎適量を
別の甕に入れて混ぜておく
※ 以前お祖母様が梅干しを作っていた時は黴が
生えてしまうのを防ぐ為、三分の一貫に対して
二割の塩を入れていた。
しかし其れでは塩辛いと考えた母上は入れる塩を
梅三分の一貫に対して一割にし、
今まで入れていた塩一割の代わりに焼酎を
適量入れるようにした。
三. 二の中に一を少しずつ入れて混ぜる
四. 三を焼酎で拭いた琺瑯の中に入れ、
二で待機させていた少量の塩と
焼酎一合(180cc)を其の上に覆うように
振りかける
五. 四の梅の上に大きな平皿を被せ、其の上に
ずっと使い続けている
梅干し用の大きな石を重石として載せる
六. 数日経つと白梅酢が上がって来るので、
今まで使っていた半分の重量の
重石に変える(此の重石も長年使っている
梅干し用の石)
七. 茎を取り除いた紫蘇の葉(適量)を洗い、
紫蘇の葉の量に対して一割の塩で
紫蘇の葉を揉んで絞る
※ 紫蘇の葉を絞った時に出て来る黒い灰汁は
捨てる
八. 絞った紫蘇の葉を底の深い器に移し、其の中に
六の白梅酢を入れる
※ 白梅酢を入れると、紫蘇の葉が赤くなってくる
九. 琺瑯の中の梅に八の紫蘇の葉を塗し、其の上に
八の白梅酢も入れて
其の上に再び重石をする
十. 九に雑菌が入らないよう和紙で
幾重にも蓋をして、琺瑯の首を和紙ごと括り紐で
縛って密閉し、梅雨明けまで待つ
※ 万が一黴が生えてしまった場合は、一つも残さず
綺麗に黴を取り除く
十一.梅雨が明けたら晴れの日を見計らって
大きな笊に琺瑯の中の梅を並べ、
約三日間天日干しする(三日三晩の土用干し)
※ 次第に水分が抜けて、梅は皴々になっていく。
満遍なく日の光が当たるように、
機を見て梅をひっくり返す必要がある。
十二.干した梅を焼酎で拭いた琺瑯に入れ其の上に
九の紫蘇の葉を塗し、再び密閉して保存する
※ 一年後位が味が慣れて美味しいので、
私の家で食べる梅干しは去年以前に漬けた
梅干しである
三分の一貫の梅で約四十個位の梅干しが出来るが、どうにもこうにも足らないので私の家では三回に分けて作る。
天日に干した梅干しをひっくり返す事と、雨が降って来た時に外に干した梅干しを救出する事が、私の仕事である。
梅干しをひっくり返す時、時々どこまでひっくり返したのかが分からなくなる時があるので、意外に気が抜けない。
此れにより、私は【集中力】が鍛えられた。
天日に干している梅干しは、絶対に雨で濡らしてはならない。
雨に濡れると、梅干しに黴が生えてしまう。
だから雨が突然降って来た時は、私は裸足で庭に出て、先ず梅干しを家の中に入れて、其の後洗濯物を家に取り込むようにしている。
私にとって梅干しは、自分よりも、洗濯物よりも、大事な存在であった。
私は、雨に濡れても大丈夫。
風邪は自分の為にも家族の為にも断じて引いてはならないが、もし雨に濡れて風邪を引いてしまった場合は気合と根性で治す。
そしてお薬を飲んで、お布団の中で沢山眠る。
但し飲むお薬は一種類に限定し、『沢山飲んだ方が効くであろう』などと言う軽はずみな気持ちで色々な種類のお薬を飲む事など、決してあってはならない。
色々な種類のお薬を一度に飲むと、身体に良くない事が起こる。
私は、身を以て其れを知ったのだ。
洗濯物は雨に濡れても、何れ乾く。
とてつもなく濡れたら、また洗えば良い。
私と洗濯物、此の二つは、どうにかなる。
しかし梅干しは、濡れると黴が生える。
黴が生えたら、取り返しがつかない。
絶対に、梅干しに黴を生やしてはならない。
梅干しは、一人では生きていけない。
私と洗濯物と梅干しの間には、絶対的な【軽重の差】があった。
私 < 洗濯物 < 梅干し
梅干しは、何よりも尊い。
此れにより、私は【優先順位】と言うものを学んだ。
(お祖母様と母上と時々私が)苦労して作ったお味噌や梅干しは、殊の外美味しいと感じる。
苦労って、やはり必要な経験なのだ。
お味噌を作るにも、梅干しを漬けるにも、私の家では異様なほど焼酎を多用する(余った焼酎で梅酒も作る。しかし焼酎やお砂糖は貴重なので、少量)。
母上は消毒の為と言っているが、本当は母上は密かにお酒を欲しているのではないかと思われる。
以前、母上が墨にお酒を入れて磨っている所を見た事があり、「何故、墨にお酒を入れるのか」と聞いたところ「良い色が出るから」と言っていた(「ただ墨にお酒を入れるとお酒が直ぐに蒸発してしまうので、少し書き辛くなってしまう。もしかしたら、生酒が良いのかもしれない。量や頃合い、種類(酒類?)が重要」とも言っていた。【適度・適切・適宜】が大切らしい)。
母上は、香りからもお酒を摂取していた。
母上はお酒が弱いのに、何故こんなにもお酒を使うのか不思議でならない。
至る所でお酒を使用しているので(主にお料理や保存食)、知らぬ間に私の家族はお酒に対する耐性が出来ているのではないかと思う。
私が住む地域はとても寒い地域であり、昼と夜の寒暖差が激しい。
しかし此の気候は、稲の生育にはとても都合が良かった。
また品種改良も進んで安定的にお米を生産する事が出来たから、お米だけでなく酒造りも盛んとなった。
其の為、お米とお酒は私達にとって、とても身近なものであった。
私達の身体は、お米とお酒とその他諸々で作られている。
因みに、昭和の頃に使われるようになった和食を作る際に用いられた調味料を入れる順番『さしすせそ(砂糖・塩・酢・醤油・味噌)』の砂糖には、お酒と味醂も含まれている。
お酒は私達にとって、肉体の一部の様なものである。
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私は兄上が「御馳走様」と言って手を合わせてお昼御飯を食べ終わったのを見計らって、私の手の中で丁度良い温度になった御薬湯の入った湯呑を兄上に手渡した。
兄上が「有難う」と言って湯呑を受け取り、私は兄上の膝の上に置いてある御膳を持ち上げ、自分の横に置いた。
そして兄上が一口御薬湯を飲んで一息ついたところで、私は先程兄上が読んでいた本を指さしながら尋ねた。
「兄上。
何を読んでいらしたのですか?」
兄上は湯呑を両手に包み込み、微笑みながら私の方を向いて答えた。
「〖淮南子〗だよ」
「〖えなんじ〗?」
兄上は湯呑を御膳の上に置き、先程自分の右側に置いた〖えなんじ〗を手に取りながら答えた。
「漢(中国)の頃に書かれた本だよ。
江戸で買って来たものだ」
「漢とは、秦の後の王朝ですね。
今から・・・二千年位前・・・?
秦を亡ぼした後、項羽と劉邦が覇権を争い、確か劉邦が勝って漢を建国した・・・」
「そうだ。
此の〖淮南子〗は漢の中にある淮河と言う川が流れる南の地、淮南国の王・劉安が編纂した本だ。
『淮南』とは、此の様に書く」
そう言って兄上は本の表紙に書かれている『子』のみを手で隠して、私に『淮南』と言う漢字を見せてくれた。
其の漢字を見て、私は疑問に思った。
「何故、『淮南』を『えなん』と呼ぶのですか?」
「〖淮南子〗を呉音で読むからだ」
「ごおん?」
「日本は昔、呉(中国。六朝時代(220年~589年)の国)と交流があり、其の時に呉音が日本に伝わったと言われている。
呉音の後に漢音、唐音が日本に入って来た。
呉音は清(中国)の南方の音であり、漢音は黄河周辺の音である。
唐音は唐土の音と言う意味で、宋・元・明、そして今の清王朝など様々な時代の幅広い地域の音が含まれている。
唐音は宋音とも呼ばれているが、日本ではあまり使われていない。
主に日本で使われている音は、呉音と漢音だ。
〖淮南子〗は呉音では『えなんじ』と読むが、漢音では『わいなんし』と読む。
日本に〖淮南子〗が伝わった時、日本は〖淮南子〗を呉音である『えなんじ』と読んでいたので、今も〖淮南子〗の事を漢音の『わいなんし』ではなく呉音の『えなんじ』と読む」
「なるほど・・・。
『淮南』を『淮南』と読むのは、昔からの名残と言う事ですね・・・。
でも国名である淮南国は、『わいなんこく』と呼ぶのですね」
「確かに、そうだな・・・。
不思議だな・・・。
淮南国は『国名』だから、漢音で読んでいるのか・・・?
私にも分からない・・・。
後で一緒に調べよう」
そう言って兄上は、クスクス笑いながら続けた。
「淮南国の王・劉安は、『高祖』劉邦の孫であった」
「劉邦の孫・・・。
では、劉安は恵まれた方だったのですね」
「いや。
そうでもない」
「そうでもない?
皇帝の孫であれば、何不自由なく暮らせたのではないのですか?
〖淮南子〗も、劉安が暇を持て余して編纂した本なのではないのですか?」
「確かに、民と比べれば劉安の生活は恵まれていたのかもしれない。
しかし劉安は、〚不幸〛であった」
「劉安が、〚不幸〛?」
「うん。
劉安の祖母は自害し、劉安の父・劉長は漢から淮南国を与えられて『淮南王』となったが、謀反を企て露見し自害した。
父の死後、劉安は伯父である『文帝』によって、領地を大幅に削られた淮南国を与えられ、父から『淮南王』を引き継いだが、其の後、父・劉長同様謀反を企み自害した」
「何故、劉安のお祖母様は自害し、父である劉長は謀反を企て、劉安は父親と同様に謀反を画策したのですか?」
「劉安の祖母は元々、趙の女性であった。
劉邦は『韓王信の乱』を平定した帰り、趙に赴いた。
そして趙王は、劉邦に劉安の祖母を差し出した。
劉邦の寵愛を受けた劉安の祖母は、劉長を身籠り生んだ。
しかし其の事を、趙王も劉安の祖母も劉邦に伝えなかった。
其の後、趙国は傍若無人に振舞う劉邦の暗殺を計画した。
しかし其の計画は事前に発覚してしまった為、趙王一族と劉安の祖母は獄に繋がれた。
劉安の祖母は劉邦の妻である『呂后』の側近・審食其に、劉邦と自分の間に生まれた劉長の救済を訴えた。
だが、其の願いは退けられた。
そして劉安の祖母は世を儚み、自害した。
後に其れを知った劉邦は劉長を生かし、淮南国を与えた。
劉長は、母の死と引き換えに生き延びる事が出来た。
しかし淮南国を与えられても、劉長は自分の母親が審食其に見殺しにされた事を忘れなかった。
成長した劉長は母への恨みを晴らす為、審食其を殺した。
殺された審食其は、漢の重鎮であった。
たとえ劉邦の息子であっても、其の様な人物を殺害すれば罪は免れないはずであった。
だが、劉長の異母兄である『文帝』は劉長を許した。
其れが、『文帝』の慈悲が、劉長を傲慢にさせた。
劉長は、次第に増長していった。
劉長は、自分には劉邦の血が流れており、漢の皇帝になる資格があると考える様になった。
自分は『文帝』よりも優れており、自分こそが漢の皇帝になるべきであると考える様になった。
劉長は『文帝』に対して不遜な態度を取り、漢の法を無視し、自ら法を作り、まるで自分こそが漢の皇帝であるかの様な傲岸な態度をとるようになった。
そして自分が皇帝になる為、謀反を企てた。
しかし其の企ては事前に露見した為、劉長は王位を剝奪され、僻地へと運ばれる事になった。
其の途中、劉長は食を絶ち、餓死した」
「お祖母様も父上様も自害されるなんて・・・劉安はお気の毒な方ですね・・・。
只、父上様に関しては自業自得の様な気もしますが・・・。
其れにしても父上様が謀反を起こそうと計画して罪を問われたのならば、劉安は同じ轍を踏むべきではなかったのではないのでしょうか?」
「劉安は、自ら望んで謀反を起こそうとしたのではない」
「劉安は、『自ら謀反を企てたのではない』と言う事ですか?」
「うん。
劉安は心を利用され、謀反へと導かれたに過ぎない。
劉安は『誰か』を、『何か』を犠牲にしてまで、謀反を起こすような人物ではなかった。
〖淮南子〗を読めば、劉安の人となりが分かる。
また〖史記〗や〖漢書〗にも、劉安について記されている。
其れ等を読めば、『劉安は、とても聡明で開明的な人物であった』と言う事が分かる」
「〖史記〗とは、漢の第七代皇帝『武帝』の頃に司馬遷によって編纂された清の歴史書の事ですよね?
〖漢書〗とは、後漢『章帝』の頃に書かれた前漢についての歴史書の事ですよね?
二つを合わせて『史漢』と言い、また『史漢』に〖後漢書(後漢について書かれた歴史書)〗を加えたものを『三史』と言って、確か越後の武将・直江兼続も愛読していた・・・」
「そうだ。
良く知っているな」
そう言って、兄上はとても嬉しそうに笑った。
私は兄上が嬉しそうで、そして兄上に褒められて、とても嬉しかった。
しかし、内緒にしておかなければならない事がある。
此の知識は、嘗て私が風邪を引いた時に、弟が(私への嫌がらせの為に)〖史記〗と〖漢書〗について逐一私に説明した事により得られたものであると言う事を。
私は、兄上に自分が博識であると褒められたかった。
私は、其の知識が弟によって得られたものであると言う事を兄上に知られたくなかった。
事実を知った兄上が、間接的に弟を褒めるのは我慢がならなかった。
何だか悔しい。
そして何よりも、私は私自身が兄上にもっと褒めてもらいたかったし、兄上にもっともっと笑ってもらいたかった。
兄上は、説明を続けた。
「〖漢書〗には、『こう』書かれている。
『劉安は書や音楽を好み、武芸を好まなかった』
『劉安は、淮南国に多くの食客や方士を招いた』」
「しょっかく?
ほうし?」
「食客とは、知性を以て各国に迎えられ仕えた者達の事だ。
方士とは、方術士の事だ。
道士とも呼ばれ、巫術や医術、練丹術を身に付けた者達の事を言う」
「ふじゅつ?
れんたんじゅつ?」
「巫術とは、呪詛などの呪術の事だ。
練丹術とは、『不老不死』の薬である丹薬を製造する術の事だ」
「なるほど。
つまり方士とは、陰陽師の様な方々だったのですね。
ところで方士は、本当に『不老不死』の薬など作る事が出来たのですか?
抑々、『不老不死』の薬など存在するのでしょうか?」
「『不老不死』の薬が存在するのかしないのかは、分からない。
しかし、もし『不老不死』の薬が本当に存在するのであれば、人々に〚希望〛を与えると同時に、人々を堕落させるだろう」
「人々を堕落させる?」
「『永遠に若く生き続ける』・・・『不老不死』と言う言葉は、人の弱さを助長し、誘惑し、人を頽廃させる。
『不老不死』を求め、人々は無節操になり、貪欲に生きようとする。
強欲は人から理性を奪い、人に常軌を逸した行動をさせる。
人々は『不老不死』と言う欲望を満たす為であれば、どの様な犠牲も厭わなくなる。
当時、『不老不死』の薬である丹薬を作る為に、人々は危険を冒してでも『不老不死』の基を手に入れ、利用しようとした。
そして『不老不死』の薬の基として使われたのが、水銀だった」
「水銀?」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
水銀は、毒である。
水銀を飲み続けると吐き気や眩暈、呼吸困難に陥り、やがて死に至る。
しかし水銀は昔、『不老不死』の薬として服用されていた。
赤い固体で採掘される水銀は辰砂、または『賢者の石』と呼ばれた。
辰砂は、何百年も鮮やかな赤色を保ち続ける事が出来る。
辰砂は水銀と硫黄からなる鉱物(硫化水銀)であり、加熱すると水銀蒸気と二酸化硫黄を生じる。
水銀蒸気を冷却すると、液体の水銀(銀色)となる。
液体となった水銀を更に加熱すると酸素と結びついて赤くなり、固まると赤い固体となる。
赤い固体となった水銀を再び加熱すると、再び銀色の液体となる。
此の水銀の特徴である『美しさ』『繰り返し』『再生』『不変性』『永遠性』が、『不老不死』と結びついたと言われている。
古代中国では、水銀は『死』と『再生』の象徴であった。
『不老不死』を求めた秦の始皇帝(紀元前210年~紀元前259年)は、『不老不死』の薬であると言われた丹薬(水銀)を飲み続けた為に水銀中毒となって寿命を縮めた。
死後の世界を模した始皇帝の墓(兵馬俑)には、水銀の川や海があったと言われている。
他にもアメリカ合衆国『第十六代大統領』リンカーン(1809年~1865年)は頭痛薬として水銀を服用し、ヨーロッパでは錬金術師(卑金属(銅や鉛など)を貴金属(金や銀など)に精錬しようと試みた人々)が治療の為に水銀を使用した。
また水銀は、お化粧としても使われた。
肌を白く見せる白粉(軽粉)には水銀が含まれており、持統天皇(645年~703年)や平安時代の貴族、江戸時代の女性は此の白粉を使用したが為に、知らぬ間に水銀中毒となった。
因みに白粉には鉛が使われているものもあり(此れを鉛白と言う)、此方の方が水銀よりも安価であり大量生産されていたので、人々の間で広く普及した。
鉛も、毒である。
鉛中毒に陥ると頭痛や便秘、貧血、嘔吐、痙攣を引き起こす。
将軍や公家の乳母達は顔だけでなく、胸や背中にまで鉛の白粉を塗った。
乳児は授乳の際、乳母の乳房に付いた鉛の白粉を直接摂取した為に鉛中毒となり短命となった。
江戸幕府第十二代将軍・徳川家慶公(1793年~1853年)には二十七人の子供がいたが、成人を迎える事が出来たのは第十三代将軍・徳川家定公(1824年~1858年)だけであった。
しかし家定公は、障害を患っていたとされている。
歌舞伎役者も、鉛の白粉を多用した。
歌舞伎役者は皮膚に塗った白粉を、お風呂に入って落とす。
人気のある役者は一番風呂に入る事が出来たけれど、小者は多くの歌舞伎役者達が入った後のお風呂に入る。
其の為、小者は自身に塗った鉛の白粉を皮膚から直接吸収するだけでなく、多くの白粉が落とされたお風呂に入る事によって、更に多くの鉛を吸収する事になった。
皮膚から吸収された鉛は指先に蓄積され、指は壊死する。
歌舞伎役者の『三代目』澤村田之助(1845年~1878年)は、左手の小指以外の指そして両足と右手首を失った。
鉛の白粉は、昭和9年に製造禁止となった。
『四大公害病』(『水俣病』『第二水俣病』『四日市ぜんそく』『イタイイタイ病』)の一つである『水俣病』は、水銀が原因である。
昭和二十年頃~昭和三十年頃、熊本県の工場がメチル水銀を水俣湾に排出した為、其のメチル水銀を摂取した魚介類を食べた住民が水銀中毒となった。
日常生活に於いて水銀は現在でも使用されている時があるが(血圧計や温度計、乾電池、蛍光灯等)、使用量は次第に減少している。
但し未だに美容の為に使用されている場合もあるので、注意が必要である。
話は変わるが、秦の方士であった徐福は秦の始皇帝に「日本には『不老不死』の霊薬がある」と進言した。
其れを聞いた始皇帝は、徐福や其の子弟数千人を日本に送った。
そして日本に到着した秦の人々は日本に其のまま移り住み、農業や漁業の技術を日本に伝えた。
此れを『徐福伝説』と言う。
各地には、『徐福伝説』が多く残っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
兄上は、私に説明してくれた。
「〖周礼〗には、水銀は『五毒』の一つであると記されている」
「〖しゅうらい〗?
『ごどく』?」
「〖周礼〗とは、儒家の文献である経書の一つだ。
『五毒』とは、水銀や砒素を含む五つの鉱物の事だ。
『礜石』『雄黄』『石膽』『丹砂』『慈石』、此れを『五毒』と言う。
其の様なもの、身体に良い訳がない」
「水銀が毒であると分かっていながら、何故、当時の人々は『不老不死』の薬の為に水銀を使用したのでしょうか?」
「水銀は加熱や凝固の度に変化し、再び元に戻る。
水銀の特性である此の『繰り返し』『再生』『生まれ変わり』が、『不老不死』と結びついたのだろう。
たとえ水銀が毒であろうとも、人々は『不老不死』を現実のものとしたかった。
どの様な危険があろうとも、人々は今現在の〚幸福〛を維持したかったのかもしれない。
勿論、水銀が毒であるとは知らずに、水銀が『不老不死』の薬の基であると本気で信じて服用した者もいただろう。
ただ、毒だと分かっていながら飲んだ者も少なからずいたはずだ。
たとえ水銀が毒であったとしても、一縷の望みを懸けて、何としても永遠の命と若さを得て、〚幸福〛を維持したかったのだろう」
「永遠の命と若さ・・・」
すると兄上は少し視線を下に落とし、悲しそうに呟いた。
「永遠の命と若さを得て・・・本当に〚幸福〛なのだろうか・・・?
大切な人が自分を置いて逝き・・・一人残され生きていく事が・・・本当に〚幸福〛な事なのだろうか・・・?
『不老不死』は・・・本当に〚幸福〛な事なのだろうか・・・?」
そう呟くと兄上は視線を元に戻し、真っ直ぐ私の方を向いて言った。
「水銀は、毒だ。
水銀で作られた丹薬を服用したが為に沢山の人が死んだと言う〚事実〛は、紛れもない〚真実〛だ。
しかし水銀は『毒である』と同時に、『毒ではない』と言う事も〚真実〛だ」
「水銀は『毒である』と同時に、『毒ではない』?」
「うん。
水銀は、朱墨(朱色の墨)や岩絵具として使われる事がある。
また神社の建造物に塗られている丹に、水銀が含まれている時もある。
丹の朱色には、魔を払う力があると考えられている」
「へえ。
水銀は、色々な所で使われているのですね」
「うん。
昔から我々日本人にとって、水銀は身近なものだった。
水銀その物が、悪いのではない。
問題は、人が水銀を『どう使うか』だ。
使い方によって『良いもの』は『悪いもの』に、『悪いもの』は『良いもの』になる」
「『良いもの』が『悪いもの』に・・・『悪いもの』が『良いもの』になる・・・」
「うん。
水銀以外の毒も、別の用途に使われる事がある。
例えば猛毒である附子(鳥兜)の根は、鎮痛剤や身体を温める為の生薬として用いられる事がある。
生薬として用いられる場合、『附子』は『附子』と言う名に変わる」
「へえ。
『附子』が薬として使われているなんて、初めて知りました。
正に、【毒を以て毒を制す】ですね」
「うん。
ただ毒が薬になるように、薬が毒になる事もある」
「薬が、毒になる?」
「うん。
薬の乱用や多量摂取は、却って身体を壊す事になる。
たとえ其の薬が、『良い薬』だとしてもだ」
私は此の時、自分が風邪を引いた時の事を再び思い出した。
あの時、身体に良いとされているものを大量に食べたが為に私はお腹を壊した。
薬が毒になるとは、正に此の事なのだと私はしみじみと思った。
兄上は、続けた。
「毒は薬でもあり、薬は毒でもある。
【物莫無所不用
天雄烏喙 藥之凶毒也 良醫以活人】
世の中に、役に立たないものなどない。
附子などは凶毒ではあるが、良医は其れらを以て人を救う。
全ては、『人が其れらをどの様に使うか』によるのだ」
「つまり、全てのものは『使い方次第』と言う事ですね・・・」
「うん。
話を元に戻すが、劉安は淮南国に招いた多くの食客や方士から『不老不死』について学んだ。
『不老不死』の思想は、道家の『神仙思想』が基である」
「『神仙思想』とは確か、『不老不死』である神や仙人を信仰する思想の事ですよね。
『地』に生きる人は、『天』に生きる神になる事は出来ない。
ただ神になる事は出来ないけれど、神に近づく事は、仙人になる事は出来る。
人は神と仙人、つまり『神仙』のみに与えられた『不老不死』を自らも得たいと願うようになった。
此れが、『神仙思想』ですよね?
つまり劉安の編纂した〖淮南子〗は、『神仙思想』の影響を強く受けた道家の思想を纏めた本と言う事でしょうか?」
「道家の思想が中心ではあるが、劉安は道家の思想のみならず儒家や兵家など、他にも様々な思想を受け容れ〖淮南子〗に残した」
「なるほど。
先程兄上が仰られていた『劉安は、とても聡明で開明的な人物であった』『劉安は書や音楽を好み、武芸は好まなかった』『劉安は、淮南国に多くの食客や方士を招いた』とは、劉安は食客や方士から武芸ではなく寧ろ精神的なもの、多種多様な思想を幅広く学び、受け容れ、残したと言う事なのですね。
つまり劉安は自由で、純粋に知識を求める人物であったと言う事ですね」
「うん。
そして〖淮南子〗の中で、劉安の人柄が分かる故事の一つが
【人間万事塞翁馬】」
「【にんげんばんじ】・・・?
どういう意味ですか?」
「『人間』とは、文字通り『人』の事だ。
『人間』を『人間』と読む場合もある。
其の時は、『世の中』と言う意味になる。
『万事』とは、『全ての事』。
『塞翁馬』とは、『塞の近くに住む老人』の事だ。
つまり、『人と言うものは、全て塞の近くに住む老人の様なものである』と言う意味だ」
「訳が分かりません。
早く教えて下さい」
「はは。
そうだな。
其の故事が出来た経緯を知らないと、言葉の意味は分からないな。
此の故事は、〖淮南子〗〔人間訓〕に記されている。
【近塞上之人有善術者
馬無故亡而入胡
人皆吊之
其父曰
「此何遽不為福乎?」
居數月
其馬將胡駿馬而歸
人皆賀之
其父曰
「此何遽不能為禍乎?」
家富良馬 其子好騎 墮而折其髀
人皆吊之
其父曰
「 此何遽不為福乎?」
居一年
胡人大入塞
丁壯者引弦而戰 近塞之人 死者十九
此獨以跛之故 父子相保
故福之為禍 禍之為福
化不可極 深不可測也】
昔、塞の近くに処世術を身に付けた老人がいた。
老人は、馬を一頭飼っていた。
ある時、其の馬が逃げ出した。
人々は、老人を気の毒に思った。
其れに対し、老人は言った。
「此の事が、どうして〚福〛とならないであろうか?」
数ヶ月後、逃げた馬が胡国(西方の国)の駿馬を連れて帰って来た。
人々は、祝福した。
其れに対し、老人は言った。
「此の事が、どうして〚禍〛とならないであろうか?」
此の家は良馬に富み、老人の息子は乗馬を好んだ。
ある時、馬に乗った息子が落馬し、腿の骨を折ってしまった。
人々は、老人を気の毒に思った。
其れに対し、老人は言った。
「此の事が、どうして〚福〛とならないであろうか?」
一年後、胡人が塞を越えて攻めて来た。
男達は弓を引いて戦い、塞で戦った男達は十人中九人が死んだ。
老人の息子も戦に駆り出されるはずであったが、息子は腿の骨を折っていたので戦に行かず生き延びる事が出来た。
〚禍〛は〚福〛となり、〚福〛は〚禍〛となる。
何が〚禍〛となり、何が〚福〛となるのか見極める事は難しく、予測する事は出来ない。
自分は今〚不幸〛だと思っていても、本当は〚幸福〛の始まりかもしれない。
自分は今〚幸福〛だと思っていても、本当は〚不幸〛の始まりかもしれない。
他にも〖淮南子〗〔人間訓〕には、『こう』書かれている。
【禍與福同門 利與害爲鄰】
禍福は門を同じくし、利害は隣り合わせである」
私は其の言葉を聞き、弟が(私への嫌がらせの為に)私に〖史記〗〔南越伝〕を読み聞かせた時の事を思い出した。
私は思い出した事を早速兄上に伝えようと、少し得意げに言った。
「兄上。
私、其の故事と似たような故事が〖史記〗に記されていた事を思い出しました。
【因禍為福
成敗之転
譬若糾纏】
〚不幸〛が〚幸福〛となり、〚幸福〛が〚不幸〛となる事もある。
〚不幸〛や〚幸福〛が転ずる事は、まるで二本の藁束で編む縄の様なものである。
縄の様に〚不幸〛や〚幸福〛は交互にやって来るものである」
「うん。
そうだな。
つまり、【禍福糾縄】だな。
よく知っていたな」
「はい!!」
有難う。
弟よ。
私の笑顔を優しく見つめながら、兄上は続けた。
「【人間万事塞翁馬】
【禍與福同門 利與害爲鄰】
【禍福糾縄】
何れの言葉も、『何が〚不幸〛となるか、何が〚幸福〛となるかは、分からない』と言う意味だ。
あ!」
兄上は突然、何かを思い出したように小さな声で叫んだ。
私は、兄上に何事かあったのかと思って焦って尋ねた。
「どうしたのですか!?
何かあったのですか!?」
すると兄上は、恥ずかしそうに少し顔を赤らめて言った。
「ああ・・・。
済まない・・・。
少々思いついた事があって・・・」
「思いついた事?」
「劉安は、足利義政(1436年~1490年)に少し似ていると思った・・・」
「足利義政・・・室町幕府の第八代将軍で、銀閣寺を建立した・・・」
「うん。
足利義政は、第六代将軍・足利義教(1394年~1441年)の五男であった。
義教は『万人恐怖』と称される程の悪政を敷いた為、『嘉吉の乱』で家臣である赤松満祐に殺された。
其の後、同母兄である長男の足利義勝(1434年~1443年)が第七代将軍に就任した。
しかし義勝は就任八ヶ月後に僅か九歳で逝去した為、出家する予定であった当時八歳の義政が第八代将軍となった」
「義政は五男であり、尚且つ僧侶になる予定であったのに、何故、将軍職に就く事が出来たのですか?
本来であれば、次男三男四男の誰かが将軍になるのではないのでしょうか?」
「義勝と義政の生母は、義教の側室・日野重子であった。
重子は、自身の息子を将軍職に就けたかったのだろう。
また公家である日野家は、代々足利家と婚姻を結んでいた。
足利家は、日野家を蔑ろにする訳にはいかなかったのだろう」
「だから異母兄達を差し置いて、義政は将軍になれたのですね」
「うん。
義政は将軍職就任前に、第百二代天皇・後花園天皇(1419年~1471年)より『義成』と言う名を賜った。
此の名は後に『義政』に改名されるが、『義成』の何れの字の中にも『戈』と言う字が含まれている。
後花園天皇は、義政に武勇により国を治める事を期待した。
しかし義政は、『武』よりも『文』を好む人物であった」
「『武』よりも『文』を好む人物・・・。
ああ。
なるほど。
劉安は罪人の子であるにも拘らず国を与えられ王となり、義政は五男であったにも拘らず将軍となった。
劉安も義政も、『武』よりも『文』を好んだ。
想定外の〚幸運〛を手に入れ、文化や芸術に対して造詣が深い人物であったところなど、確かに劉安と義政は少し似ていますね」
「うん。
ただ此の頃、土一揆(農民や下級武士達による抵抗要求運動)や南朝の反乱、管領(将軍補佐役)や守護大名(各地を支配する官僚)の勢力争い、義政の正室である日野富子による介入や側室である今参局の存在により、義政自身は心身共に疲労困憊であった。
其れでも義政は父である足利義教による恐怖政治によって地に落ちた幕府権力を取り戻そうと、敬愛していた祖父・義満の頃の将軍権力を回復しようと、必死に政を行おうとした。
しかし義政の決断力や判断力の欠如、失政により、世の中は更に混乱した。
また大飢饉により『人民相食む』状態に陥り、農作物の収穫も減り、幕府財政も逼迫した。
義政の〚想い〛は届かず、義政は理想と現実の『差』に苦しみ、次第に政への興味も失せていき、とうとう現実から逃げた。
絶望した義政は、室町殿や高倉殿の建設や贅沢三昧な生活をするようになった。
そして、財政危機が更に深刻化していった。
其の後、義政自身の迷いや曖昧な態度、優柔不断な決断、将軍職後継問題や管領家の家督争い、幕府内の権力争いや様々な工作により、応仁元年(1467年)に幕府は東と西に分かれて争い合い、約十一年間其の争いは続き、勝者敗者なく有耶無耶なまま争いは終わった」
「そして織田信長や豊臣秀吉、徳川家康公の時代となるのですね」
「うん。
争いが起きる要因は沢山あったので乱になる事は必然であったのかもしれないが、義政の『迷い』が乱世を引き起こす『きっかけ』となった事は確かだ。
義政は、将軍権力を回復したいと考えていた。
しかし自身の実力や〚想い〛と世の中の間に、『差』があった。
其の『差』に義政は葛藤し、戦い、躊躇し、苦しみ、悲しみ、疲れて、とうとう諦めてしまったのだ。
そして其の心を、周りの人々に利用された」
「自分の理想と現実の『差』に苦しんだ挙句、義政は自身の理想と〚想い〛を芸術に求めたのかもしれませんね。
義政は政を行う人物としては少し問題があったのかもしれませんが、芸術を愛する心は他の誰よりも勝っていたのかもしれませんね。
だからこそ銀閣寺は建立され、茶の湯や水墨画、書院造など日本独自の文化が発展した。
将軍として生まれてこなければ、義政は別の生き方が出来たでしょうに・・・」
「うん。
人は、生まれを選ぶ事が出来ない・・・。
其れは・・・如何しようもない事なのだ・・・。
劉安も義政も名誉や地位や権力を与えられ、芸術を愛し、迷い、苦しみ、そして自分の心を利用された・・・。
望んでいても望んでいなくとも、自分の力ではどうにもならない〚時〛がある・・・。
〚想い〛だけでは、どうにもならない〚時〛がある・・・。
其の時、身を以て知るのだ・・・。
自分が如何に無力であるのかを・・・」
「・・・」
「ああ。
また話が逸れてしまったな。
済まない。
先程私は、〖淮南子〗を読めば劉安の人となりが分かると言ったな」
「はい」
「劉安は【人間万事塞翁馬】などの故事を通して、〚不幸〛や〚幸福〛とは『何か』について人々に伝えようとしていたのだと思う」
「『何が〚不幸〛となるか、何が〚幸福〛となるかは分からないから、考えても無駄である』と言う事を伝えようと思った・・・と言う事でしょうか?」
「もしかしたら、『そう』なのかもしれない。
〖淮南子〗は、道家の思想を色濃く受け継いでいるからな。
しかし私は、劉安が本当に伝えたかった事は『こう』なのだと思う。
『何が〚不幸〛となるか、何が〚幸福〛となるかは、
分からない。
ならば今の〚不幸〛を乗り切る為にも、今の〚不幸〛が
〚幸福〛となる〚時〛 の為にも、
決して努力を怠ってはならない。
たとえ今が〚幸福〛であっても今の状況に甘んじず、今の〚幸福〛が〚不幸〛と
なる〚時〛の為にも、決して努力を怠ってはならない。
〚不幸な時〛も、〚幸福な時〛も
『見るべきもの』を見る為の
『知るべきもの』を知る為の
『気付くべきもの』に気付く為の
『考えるべきもの』を考える為の
『変えるべきもの』を変える為の
大切な〚時〛である。
一生懸命に、真摯に、実直に、粛々と、為すべき事を
成す〚時〛である。
一生懸命に、真摯に、実直に、粛々と、成すべき事を
為す〚時〛である。
此の〚時〛を、決して無駄にしてはならない。
〚不幸〛も〚幸福〛も、全て自分次第である。
何があっても、決して諦めてはならない。
諦めなければ、必ず〚道〛は開ける。
だから、今、自分が出来得る限りの事をしよう。
どの様な〚時〛であっても、〚希望〛を持って生きよう』
解釈によって、言葉の意味は変わる。
解釈によって、言葉の意味は良くも悪くもなる。
『どう受け止めるのか』『どう感じるのか』『どう思うのか』『どう考えるのか』は、〚自由〛だ。
私の解釈は、間違っているのかもしれない。
劉安が『本当に伝えようとした事』は、『そう』ではないのかもしれない。
しかし私は、劉安の言葉を『こう』解釈した。
そして、『こう』考えた。
劉安は生きている我々に『生きる力』を与える為に、〖淮南子〗を遺したのではないかと・・・」
「もし劉安が兄上が考えた通りの方ならば、劉安は常に前を向いて歩いていた方だったように思われます。
そう考えると、兄上が仰られた通り『劉安は、自ら謀反を起こそうとしたのではない』のかもしれませんね」
「うん」
嬉しそうに兄上は答え、続けた。
「少し話は変わるが、先程私は『劉安は様々な思想を受け容れた』と言ったな」
「はい」
「其れこそが、劉安にとって〚不幸〛の始まりでもあったのだ」
「〚不幸〛の始まり?」
「うん。
漢の前の王朝である秦は、『焚書坑儒』により多くの思想を弾圧した。
対して漢は、様々な思想を容認した。
漢は人々を自由にする事によって、人心を掌握しようとした。
ただ、其れにより更に多くの思想が生まれた。
其の中には、怪しい思想もあった」
「怪しい思想?」
「例えば・・・そうだな・・・『鶏の鳴き声を真似る』などだ」
「・・・其れは・・・思想なのですか・・・?」
「詳しい事は分からないが、清には此の様な話がある。
昔、斉の孟嘗君が秦の昭襄王に捕えられた際、狗の様に盗みを得意とする人物に狐白裘(白狐の皮衣)を盗ませ、昭襄王の寵姫に其れを献上して釈放された。
其の後、孟嘗君は函谷関に逃れたが、深夜であった為に関門が閉ざされており立ち往生した。
其処で孟嘗君は、鶏の鳴き声の名人に一番鶏の鳴き声を真似させた。
すると、本物の鶏が其の声につられて鳴き出した。
鶏が鳴いた事により門番は朝であると勘違いして開門し、孟嘗君は無事に逃れる事が出来た。
此れを、【鶏鳴狗盗】と言う。
『鶏の鳴き声や狗の様に盗みがうまいなど、大した事のないものでも役に立つ事がある』と言う意味だ」
「其の怪しい思想の人達は『鶏の鳴き声を真似る事によって、自分達は役に立つ事が出来る』と言う事を主張したかったのでしょうか?
其れとも、『鶏の鳴き声の練習さえしていれば、難を逃れる事が出来る』と本気で信じていたのでしょうか?」
「さあ・・・。
どうだろう・・・。
もしかしたら、本当に『そう』考えていたのかもしれないな・・・。
人それぞれ考え方が異なるから、全てを理解する事は難しい・・・。
ただ此の思想に関しては、私も怪しいものだと思っている。
怪しさで言えば、【白馬非馬説】と同等だな」
「【はくばひば説】?」
「『白馬は馬ではない』と言う説だ」
「いや。
ちょっと何を言っているのか分かりません。
白馬も馬です。
白馬は白い毛並みをした馬であって、馬は馬です。
白色でも、茶色でも、黒色でも、馬は馬です」
「そうだ。
普通は、『そう』思うだろう。
だが此の説を唱えた兒説や孔子の弟子の一人である公孫竜は、『そう』は考えなかった。
『白』とは『色』と言う概念であり、『馬』とは『形』と言う概念である。
つまり『白馬』とは、『白』と言う『色』と『馬』と言う『形』、二つの概念が合わさったものである。
従って『色』と『形』と言う二つの概念が合わさった『白馬』と、『形』と言う一つの概念で成り立つ『馬』は別物である」
「ああ。
なるほど。
などと、誰が思うのですか?」
私がそう言うと、兄上はクスクス笑いながら答えた。
「そうだな。
其れに関しては、面白い話がある。
ある時、兒説が白馬に乗って関所を通ろうとした。
当時、馬には通行税がかけられていたので、役人は兒説から税を徴収しようとした。
しかし兒説は『白馬は馬ではないから、税を払う必要はない』と言って、税を払わず通ろうとした。
まあ結局、役人の方が引かなかった為に兒説は税を払ったらしいがな」
「そうでしょうね。
正しい政を行う為に必要な税であり、国の為、人の為に納税が義務であると法で定められているのならば、税は払うべきですからね。
役人は、正しい事をしたと思います。
と言うか、其れが普通ですけどね。
其れにしても、とんでもない説ですね。
単に兒説は、税を払いたくなかっただけなのではないのでしょうか?」
「『そう』かもしれないし、もしかしたら本気で『白馬は馬ではない』と信じていたのかもしれない。
考える事は、〚自由〛だ。
但し、其の考えが人に害をなすのであれば、其れは〚禍〛となる。
話を元に戻す。
漢の初期は思想に制限を設けなかったから、多くの自由な思想が生まれた。
しかし漢は、次第に思想を抑制するようになっていった」
「何故、漢は思想を抑制するようになったのですか?
怪しげな思想は別として、様々な思想があれば様々な答えもあって、選択肢も増えて、其の中には国家運営に役立つものもあると思いますが?
抑々、人心を掌握する為に漢は人々を自由にさせていたのではないのですか?」
「秦は独裁的な国家体制により各国の王の力を削いで、国の統一を図ろうとした。
一方、漢は各国の王にある程度力を与えて人々を自由にし、国家を安定させようとした。
しかし其の為、各国は次第に力を付け始め、それぞれの国が独立国の様になっていった。
そして各国は、漢から政権を奪取しようと考えるようになった。
其れを恐れた漢の第六代皇帝『景帝』は、各国の王の封地を削減する事により各国の力を削ぎ、漢が支配する領土を拡大する事を目論んだ。
此れに対し、呉王や楚王などの七国の王が反乱を起こした。
此れを、『呉楚七国の乱』と言う。
『景帝』は此の乱を鎮圧したが、此れにより漢は中央集権国家体制を更に強める事にした。
漢は各国に反乱を起こさせない為、各国を弱体化させ、各国に反乱を起こさせるような思想の抑圧を強化して国を統一しようとした。
当時の漢にとって様々な思想は不要であり、邪魔であり、危険なものであった。
様々な思想は、漢の国家運営を揺るがすものであった。
漢は、国の統一を盤石なものにする必要があった。
其の為に漢は一つの思想を尊重し、他の思想を制限するようにした。
漢が選んだ思想は、儒学であった。
儒学は、『礼』を重んじる。
『礼』により、漢は年齢や身分による上下関係を明確化させた。
『上の者には、逆らってはならない』
『上の者には、絶対服従』
漢にとって国を安定化する方法の一つが、儒学を重んじる事であった。
儒学は、不安定な国を統治する為に漢に利用されたのだ。
そして幕府も、儒学を重用している。
何故なら序列や格式を明確にする事が身分秩序、ひいては社会秩序を保つ事に繋がるからだ。
日本の安定的な国家運営の為に、必要なものだったからだ。
しかし、此れからは『其れ』は難しいのかもしれない」
「此れからは、難しい?」
「うん。
此れから、他国から多くの文化や思想が日本に入って来る。
他国の文化や思想は、日本とは大きく異なる。
此れから日本は其れらを受け容れ、変わっていかなければならない。
其の変化に対応出来なければ、日本は亡びる」
「日本が・・・亡びる・・・」
「うん。
時代に合わせ、他を受け容れ、変わらなければ、生き残る事は出来ない。
此れから日本は、変容し続けなければならないのだ。
国の為にも・・・。
人の為にも・・・。
未来の為にも・・・」
「未来の為にも・・・日本は変わらなければならない・・・」
私がそう言うと、兄上は少し申し訳なさそうに言った。
「ああ。
済まない。
また、話が逸れてしまった。
つまり漢は中央集権国家の為に儒学を重んじ、他の思想を排除した。
其の漢の国家体制の中では生きる事が難しい様々な思想を持つ食客や方士が、淮南国に逃れて来た」
「何故、食客や方士は淮南国を選んだのでしょうか?」
「劉安は風流人であり、好奇心旺盛で、開放的な王であったと言われている。
だから様々な思想を受け容れる劉安の許に、淮南国に、多くの食客や方士が集まって来たのだろう。
そして劉安は、受け容れた多くの食客や方士から様々な思想を学んだ。
其れらを纏めた本が、〖淮南子〗である。
〖淮南子〗は多種多様な思想を纏めた本である事から、雑家の一つに数えられる」
「雑家・・・。
あ。
先程、兄上が仰っていましたね。
『道家の思想が中心ではあるが、劉安は道家の思想のみならず儒家や兵家など様々な思想を受け容れ〖淮南子〗に残した』と」
「うん。
そして様々な思想を纏めた〖淮南子〗は、日本に多くの影響を及ぼしている」
「〖淮南子〗が、日本に影響を及ぼしている?
どの様な影響ですか?」
「例えば、〖古事記〗と〖日本書紀〗・・・。
ところで、〖古事記〗と〖日本書記〗の違いは知っているか?」
兄上の質問に対して、私は少し胸を反らせて自信満々に答えた。
「知っています。
天武天皇が国内向けに作成させた和文の歴史書が、〖古事記〗です。
〖古事記〗は、国内の人々に天皇家の正統性を示す為に書かれました。
そして同じく天武天皇が国外向けに作成させた漢文の歴史書が、〖日本書記〗です。
〖日本書記〗は、日本の威信を外国に示す為に書かれました」
「うん。
よく知っているな」
そう言って、兄上は嬉しそうに笑った。
兄上の嬉しそうな顔を見て、勉強していて本当に良かったなと思った。
知識って、色々なところで使える。
知識は、兄上を喜ばせる事も出来るのだ。
私はもっともっと知識を身に付けて、もっともっと兄上に笑ってもらいたいと思った。
兄上は、微笑みながら続けた。
「〖古事記〗の序文と本文、そして〖日本書記〗の冒頭には、〖淮南子〗から引用されているものがある。
〖古事記〗の序文には、『こう』書かれている。
【夫 混元既凝 氣象未効
無名無爲 誰知其形
然 乾坤初分 參神作造化之首
陰陽斯開 二霊爲群品之祖
所以 出入幽顯 日月彰於洗目
浮沈海水 神祇呈於滌身
故 太素杳冥 因本教而識孕土産嶋之時
元始綿邈 頼先聖而察生神立人之世】
世は混沌としており、未だ形が無かった。
名前も無く、何事も無かった。
しかし天と地が分かれ、三柱の神が創造神となった。
三柱とは、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の事である。
次に『陰』と『陽』の二つの気に分かれ、男神・伊邪那岐命と女神・伊邪那美命が生まれ、此の二柱が世の全ての祖となった。
しかし火の神・火之迦具土神を産んだ為に、伊邪那美命は死んでしまった。
伊邪那岐命は、黄泉国に堕ちた伊邪那美命を迎えに行った。
だが、伊邪那美命の変わり果てた姿を目にした伊邪那岐命は伊邪那美命を残して黄泉国から逃げた。
伊邪那岐命が黄泉国から人間の世に帰り目を洗うと、日の神・天照大神と月の神・月読が生まれた。
海にて浮き沈み身を洗うと、天の神・天津神と地の神・国津神が生まれた。
遥か昔の話ではあるが、言い伝えにより大地が生まれ、島が生まれた事を知った。
そして古の聖により、神が生まれ、人が生まれた事を知った。
〖古事記〗の本文には、『こう』書かれている。
【天地初發之時 於高天原成神名
天之御中主神 次高御産巣日神 次神産巣日神
此三柱神者 並濁神成坐而
隠身也
次國稚如浮脂而
久羅下那州多陀用弊流之時
如葦牙因萌騰之物而成神名
宇摩志阿斯詞備比古遅神 次天之常立神
此二柱神亦 濁神成坐而
隠身也】
天と地が初めて現れた時、天に生まれた神の名は天之御中主神、次に生まれた神の名は高御産巣日神、次に生まれた神の名は神産巣日神であった。
此の三柱の神は男女対の神ではなく独り神であり、三柱の神は御身を隠された。
嘗て地には地面が無く、水に浮かぶ脂のようであり、海月の様に漂っていた。
若い葦の様に其処に生まれた神の名は宇摩志下斯詞備比古遅神、次に生まれた神の名は天等等立神であった。
此の二柱の神も独り神であり、二柱の神も御身を隠された。
〖日本書記〗の冒頭には、『こう』書かれている。
【古天地未剖
陰陽不分
渾沌如鷄子
溟涬而含牙
及其清陽者薄靡而爲天
重濁者淹滯而爲地
精妙之合搏易
重濁之凝竭難
故天先成而地後定
然後神聖生其中焉】
古の時代、天と地は分かれていなかった。
『陰』と『陽』も、分かれていなかった。
世は混沌としており、まるで鶏の卵の様であった。
暗くはっきりとしてはいなかったが、其の中には『兆し』が含まれていた。
其の清らかで明朗なものは漂い、やがて天となった。
其の重く濁ったものは留まり、やがて地となった。
清らかで明朗なものは、固まる事が容易い。
重く濁ったものは、固まる事が難しい。
故に先ず天が生まれ、後に地が定まった。
其の後、其の中に神が生まれた。
そして〖淮南子〗〔俶真訓〕には、『こう』書かれている。
【有未始
有夫未始有有無者
天地未剖 陰陽未判 四時未分
萬物未生 汪然平靜 寂然清澄
莫見其形】
始めから『無』も無い状態『無無』が有り、始めから『無無』の無い状態『無無無』が有る。
此の『無無無』とは天地も、『陰』『陽』も、四季も分かれず、万物も発生せず、ひっそりとしており、静寂であり、清らかであると言う混沌たる状態の事を言う。
そして、其の形を見る事もない。
また〖淮南子〗〔天文訓〕には、『こう』書かれている。
【天地未形 馮馮翼翼 洞洞灟灟
故曰太始
道始于虚廓 虚廓生宇宙 宇宙生氣
氣有涯垠
清陽者薄靡而為天
重濁者凝滯而為地
清妙之合專易
重濁之凝竭難
故天先成而地後定】
天地が未だに形無かった時、世は混沌に満ち不安定な状態であった。
故に、此れを『太始』と名付ける。
『太始』は『虚空』を生じ、『虚空』は『宇宙』を生じ、『宇宙』は『気』を生じた。
やがて其の『気』は、『清陽』と『重濁』に分かれた。
清らかで明朗なものは漂い、やがて天となった。
重く濁ったものは留まり、やがて地となった。
清らかで明朗なものは、固まる事が容易い。
重く濁ったものは、固まる事が難しい。
故に先ず天が生まれ、後に地が定まった。
何れも、【天地開闢】について書かれている。
似ているだろう?」
「はい。
ほとんど同じですね。
途中で『無無無』が、『有る』のか『無い』のか良く分からないなと思ったりもしましたが・・・。
ただ、『有』や『無』について書かれている部分など、〖淮南子〗が道家の思想を色濃く受け継いでいるのだなと改めて思いました。
其れにしても日本は何故、〖古事記〗と〖日本書記〗に清の書である〖淮南子〗の一部を引用したのでしょうか?」
「日本が一つの独立した『国』として世界に認められる為には、日本が清と同等の文化や教育がある国であると、正統なる国家であると、形として示す必要があった。
当時、清は最高水準の文化や芸術、教育、制度を有する国であった」
「つまり清と同等の文化や教育を日本が有していると国内外に示す事が出来れば、日本は一つの『国』として世界に認められる。
日本は『日本』として生きる為に、清の書である〖淮南子〗を引用したのですね」
「うん。
他にも、日本が〖淮南子〗から影響を受けたものがある。
【鶴は千年 亀は万年】
と言う言葉があるだろう?」
「長寿を祝う言葉ですね」
「うん。
此の言葉は、〖淮南子〗の〔説林訓〕
【鶴歳千歳 亀歳三千歳】
が、由来である。
清の伝説では仙人は空中を移動する時には鶴に乗り、水中を移動する時には亀に乗るとされている。
鶴と亀は仙人に仕えるので、寿命が長い。
だから鶴と亀は、とても縁起の良い生き物とされている。
其の話が日本に伝わり、長寿を表す言葉として
【鶴は千年 亀は万年の寿命を保つ】
と言う諺が生まれた。
『三千歳』が『万年』に変わったのは、日本人が日本に馴染み易い言葉に変えたからだろう。
また禅僧の仙厓は、
【鶴は千年 亀は万年】
の後に
【我は天年】
と言う言葉を加えた」
「『鶴や亀のように長生きしようがしまいが、私は天から与えられた命を全うするのみ』と言う意味ですか?」
「うん。
『人により命の長さは異なるが、限られた人生の中で一生懸命生きると言う事が何よりも大切だ』と言う事だ。
他にも、〖淮南子〗は日本の芸能にも影響を与えている。
〖御伽草子(室町物語)〗では、亀の化身である乙姫と乙姫から渡された重箱を開けた為に鶴となった浦嶋太郎は、『不老不死』の霊薬があると言われている蓬萊山で共に生きた。
申楽(能)の演目にも〖鶴亀〗があり、其の内容は初春に唐の玄宗皇帝が月宮殿で宴を催し、池の中にいた鶴と亀が皇帝の長寿と国の繁栄を祝って舞うと言うものだ。
浄瑠璃(語り物)の〖雪女五枚羽子板〗には、
【鶴は千年 亀は万年 浦島太郎が重箱ざかな】
と言う言葉がある。
〖淮南子〗から伝えられた鶴と亀は、日本にとっても、尊く縁起の良い生き物なのだ」
「本当に、〖淮南子〗は日本の思想や芸能に影響を与えているのですね」
「うん。
他にも、〖淮南子〗は日本の食べ物にも影響を与えている」
「日本の食べ物にも?」
「明の李時珍が著した〖本草綱目〗には、
【豆腐の法は、漢の淮南王・劉安に始まる】
と書かれている。
豆腐は、劉安が『不老不死』の霊薬を開発している際に偶然出来たものであると言われている」
「お豆腐も劉安が作ったのですか?
本当に劉安は、器用で多才な方だったのですね・・・」
「うん。
そうだな。
但し〖淮南子〗には豆腐についての記載も無く、漢代には大豆は無かったそうなので、此れは真実ではないのかもしれない。
まあ、真偽の程は分からないが、もし劉安が豆腐を作ったのであれば、我々が今、豆腐を食べる事が出来るのは劉安のお陰なのかもしれないな」
「確かに。
もし劉安がお豆腐を発明してくれたのなら、私達は劉安に感謝しなければなりませんね。
お豆腐は日本の『ハレの日』のご馳走であると同時に、とても身体に良い食べ物ですから。
其れに、お豆腐が無ければ〖豆腐百珍〗も存在しなかったでしょうし」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〖豆腐百珍〗とは、天明二年(1782年)に出版されたお豆腐料理の本の事である。
お豆腐の調理方法が百種類なので、〖豆腐百珍〗と言う。
〖豆腐百珍〗では、お豆腐料理を六段階に分類している。
『尋常品(26品)』
木の芽田楽、高野豆腐、飛竜頭など
『通品(10品)』
おぼろ豆腐、竹輪豆腐、葛田楽など
『佳品(20品)』
浅茅田楽、線麺豆腐、うずみ豆腐など
『奇品(19品)』
玲瓏豆腐、冬至夜豆腐、味噌漬け豆腐など
『妙品(18品)』
光悦豆腐、空蝉豆腐、加須底羅豆腐など
『絶品(7品)』
湯やっこ、雪消飯、鞍馬豆腐など
江戸時代初期、お豆腐は将軍しか食べる事の出来ない高級品であった。
しかし〖豆腐百珍〗が出版され、お豆腐は庶民の食べ物となった。
何故なら〖豆腐百珍〗は料理人の為に書かれた本ではなく、庶民の為に書かれた本であったからだ。
〖豆腐百珍〗が出版されて以降、〖甘藷(薩摩芋)百珍〗〖海鰻(鱧)百珍〗〖蒟蒻百珍〗などの〖百珍物〗が次々と出版され、江戸の食文化は発展していった。
お豆腐についてだが、お豆腐は大豆とお水と苦汁(海水から塩分を取り除いた水分)で作られている。
お豆腐の原料の八割は、お水である。
勿論大豆や苦汁の品質の良さも重要だが、特に美味しいお水がお豆腐の味を左右する。
其の為、地下水が豊富な京都ではお豆腐が親しまれ、お豆腐料理が発展した。
大本山『南禅寺』では、精進料理の食材としてお豆腐が良く使われる。
季節感を大切にする京都の人は、圧力をかけて水分を搾って固めた木綿豆腐を冬に、豆乳をそのまま固めた絹ごし豆腐を夏に食べる(木綿で濾したから、木綿豆腐と言うのではない。絹で濾したから、絹ごし豆腐と言うのではない)。
木綿豆腐はしっかりとした固さなので焼き物や炒め物、また湯豆腐などの鍋物に適している。
木綿豆腐は元々固いが、中に隙間が有る。
其の中に水分が入るとお豆腐は柔らかくなり、味も染みて更に美味しくなる。
絹ごし豆腐は木綿豆腐と比べて肌理が細かいので、冷奴やあんかけ豆腐に適している。
絹ごし豆腐は水分が多く、柔らかく、喉越しが良かったので、特に江戸っ子に好まれた。
お豆腐は美味しいだけでなく、栄養価も高い。
木綿豆腐は、圧縮される事により水溶性の栄養素が一緒に流されてしまう。
しかし、タンパク質やカルシウム、鉄分などの栄養分は凝縮されて残る。
一方、絹ごし豆腐は水分が残るので、ビタミンB群やカリウムなどの栄養素が木綿豆腐より多い。
木綿豆腐と絹ごし豆腐、どちらが好みかは人によるが、どちらもそれぞれの良さがある。
栄養価が高いお豆腐は、飢饉食でもある。
お豆腐の原料である大豆は、天候に左右されない。
其の為、大豆はお米の代用食として使われていた。
またお豆腐には目の腫れを抑えたり、身体を潤す作用や解熱効果もある。
≪お豆腐の諺≫
【万事豆腐】
順応性を持ちなさい。
【豆腐も煮れば締まる】
柔らかい豆腐も、煮れば締まる。
苦労すれば、しっかりとした人間になる。
【浮世渡らば豆腐で渡れ】
豆腐は四角四面だが、内側は柔らかい。
外面は真面目に、内面は柔軟である事が、
世渡り上手であると言う事。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
兄上は、私に答えてくれた。
「うん。
〖淮南子〗は、日本の食文化の発展にも深く関わっているのかもしれないな。
そして此れからも日本は様々な国から影響を受け、変化し続ける」
「変化し続ける・・・。
先程兄上が仰っていた『未来の為にも日本は変わらなければならない』と言う事でしょうか?」
「うん。
開国により、此れから多くの国から様々なものが日本に入って来る。
政事、経済、法律、文化、芸術、教育、制度、宗教、思想、そして人とモノ。
豆腐が清から日本に来て日本で融合し発展したように、此れから日本は他国と交流し変化していかなければならない。
互いを知り、互いから学び、互いの良い部分と悪い部分を指摘し合い、互いを受け容れ、互いに協力し、互いに変わり、共に生きていかなければならない」
「お互いを尊重し、切磋琢磨しながら変化し、それぞれの国が豊かになる・・・そんな世の中になると良いですね・・・。
まだまだ時間は掛かりそうですが・・・。
其れにしても、〖淮南子〗の影響は多岐に渡るのですね」
「うん。
此れこそ、〖淮南子〗が雑家たる所以であるのかもしれないな」
「そうですね。
あ。
お豆腐と言えば、【豆腐小僧】。
紅葉豆腐を持っているだけの、ただただ可愛い小僧妖怪も、お豆腐が日本に齎されなければ存在しなかった妖怪ですね」
「うん。
そうだな。
ああ。
妖怪と言えば、〖淮南子〗には妖怪や神獣についても書かれている」
「妖怪や神獣?」
すると兄上は徐に腰を上げ、文机の上に山積みされた本を取りに行こうとした。
私はとても驚き、慌てて立ち上がりながら兄上に言った。
「私が取りますから、兄上はお布団の中でゆっくりしていて下さい!!」
私の驚き様に、兄上は少し苦笑いした。
そして元に戻って座り、山積みの本を指さしながら私に言った。
「では、上から六冊目にある鳥山石燕の〖今昔画図続百鬼〗三冊を取って来てくれ」
私は兄上に言われた通り文机の前まで行き、本を探した。
「六冊目・・・。
とりやませきえんの〖こんじゃくがずぞくひゃっき〗・・・。
ああ。
此れですね」
私は山積みの本の中から兄上が言った〖今昔画図続百鬼〗三冊を見つけ、兄上の許へ持って行き手渡した。
「有難う」
兄上は本を受け取り、嬉しそうに私に御礼を言った。
私は、本を覗き込みながら聞いた。
「〖今昔画図続百鬼〗とは、何ですか?」
「此れは第十代将軍・徳川家治公(1737年~1786年)の頃に、鳥山石燕が刊行した妖怪の画集だ。
〔上之巻・雨〕〔中之巻・晦〕〔下之巻・明〕、此の三巻を〖今昔画図続百鬼〗と言う。
鳥山石燕は、狩野周信から絵を学んだ浮世絵師だ。
石燕は〖今昔画図続百鬼』の他に、〖画図百鬼夜行〗〖今昔百鬼拾遺〗〖百器徒然袋〗も書いた。
〖今昔画図続百鬼』は、〖画図百鬼夜行』の続編である」
「〖画図百鬼夜行』の続編?」
「うん。
〖画図百鬼夜行〗は、〖今昔画図続百鬼〗より先に刊行された。
〖画図百鬼夜行〗と〖今昔画図続百鬼〗の違いは、〖画図百鬼夜行〗に描かれている妖怪のほとんどが絵のみであるのに対して、〖今昔画図続百鬼〗には絵と其の妖怪についての解説も書かれてある。
〖画図百鬼夜行〗は、〔前篇・陰〕〔前篇・陽〕〔前篇・風〕の三巻から成っている。
〖画図百鬼夜行〗〖今昔画図続百鬼〗計六巻の各題名である〔陰〕〔陽〕〔風〕〔雨〕〔晦〕〔明〕には、清の医学の影響がある。
清では天と地の間には六つの気、則ち『六気』があると考えられている。
『六気』とは、『陰』『陽』『風』『雨』『晦』『明』の事である。
『陰』『陽』『風』『雨』『晦』『明』は、気候の変化である『寒』『暑』『燥』『湿』『風』『火』や人の感情である『喜』『怒』『哀』『楽』『好』『悪』があてられる時もある。
此の『六気』が不順であると、六つの気はそれぞれ『邪気』となる。
此れを『六淫』と言う」
「『りくいん』?」
「『六淫』は、人間が発病する原因であると言われている
『寒邪』『暑邪』『燥邪』『湿邪』『風邪』『火邪』、此れ等六つを総称して『六淫』と言う。
つまり季節の巡行が不順であると、身体に悪い影響を及ぼすと言う事だ。
『自然』と『人間』は、密接に関わっている。
清では自然界に於ける『陰』『陽』の調和が取れていれば身体は順調であり、『陰』『陽』が不調和であれば身体が不調になると言われている」
「石燕が〖画図百鬼夜行〗と〖今昔画図続百鬼〗の各題名に清の『六気』を用いたのは、『自然』を『妖怪』に喩え、『自然』と『人間』同様に、『妖怪』と『人間』も互いが影響し合う密接な関係であると伝えたかったからなのでしょうか?」
「そうかもしれないな。
昔から人間にとって妖怪は、とても身近な存在であったからな。
石燕は妖怪が好きで、趣味でよく妖怪の絵を描いていたらしい。
確か石燕が〖画図百鬼夜行〗を描いたのは、六十歳を過ぎてからだったはずだ。
本当に妖怪が好きだったのだろう」
「六十歳を過ぎてからでも、此のような作品を残す事が出来るのですね・・・。
何かを始めるのに、年齢は関係ないのですね・・・」
「何かを行う『為す』と、何かを作る『成す』は全て、自分次第なのだろう。
石燕は〖画図百鬼夜行〗を通して、『何か』を伝えたかったのかもしれないな。
石燕は好奇心旺盛で勉強家であり、また妖怪画が得意な狩野派から清の故事や作風を学んでいた。
其れを〖画図百鬼夜行〗等に生かして、『何か』を『為し』たかったのだろう。
例えば・・・〖今昔画図続百鬼〗の中の妖怪・・・。
確か・・・〔明〕の中に・・・」
そう言って、兄上は三冊の内〔下之巻・明〕を選び、一頁ずつ捲った。
「ああ。
此れだ」
そして、私に其の本の中に描かれている絵を指さしながら見せてくれた。
其の頁には、角の様な長い耳を持った赤黒い身体の妖怪が描かれていた。
其の妖怪は、お墓から掘り起こした遺体を喰らっている最中であった。
兄上は、私に其の絵を見せながら説明した。
「【魍魎】
形三歳の小児の如し 色は赤黒し 目赤く
耳長く 髪うるはし
このんで 亡者の肝を食ふと云。
見た目は三歳の小児の様で、肌は赤黒く、目は赤く、
耳は長く、髪は麗しい。
死人の肝を喰らう事を好む。
【魍魎】は、〖春秋左氏伝〗〖三国志〗〖西遊記〗にも記されている。
そして、〖淮南子〗にも【魍魎】について書かれている。
【罔両 状如三 歳小児
赤黒色 赤目
長耳 美髪 】」
「〖今昔画図続百鬼〗と〖淮南子〗の【魍魎】は、全く同じ形状ですね」
「うん。
此処にも、〖淮南子〗の影響がある」
「本当にそうですね・・・。
それで石燕は、【魍魎】を通して私達に『何』を『為し』たかったのでしょうか?」
「人を害する妖怪の総称として、【魑魅魍魎】と言う言葉がある。
【魑魅】は、山の気から生じる山の妖怪の事だ。
【魍魎】は、川の気から生じる水の妖怪の事だ。
もしかしたら石燕は自然から生じる妖怪である【魍魎】を通して、『自然を大切にするように』と伝えたかったのかもしれないな。
例えば、建物を建てる為に木を伐採する事や、我々が生きる為に作物を食べる事など『必要な事やモノ』の為に自然を犠牲にする事は、時には必要な事であり、ある意味仕方のない事なのかもしれない。
しかし自らの欲望の為だけに自然や『何か』を犠牲にする事は、決して許される行為ではない。
『もし欲の為に生きるのであれば、恐ろしい事が起こるであろう』
石燕は過欲を戒める為に、【魍魎】を描いたのかもしれないな。
ああ。
其れと、石燕は【魍魎】を【火車】と同一視している」
「【火車】?」
「【火車】とは、亡骸を奪う妖怪だ。
【火車】は死体を奪った後に、【魍魎】と同様に死体の肝を喰らうと考えられた。
また【火車】は、悪行を重ねた人間が死んで妖怪化したものだとも言われている。
【魍魎】も、私利私欲の為に生きる人間の事を喩えて言う時がある。
だから石燕は、【魍魎】と【火車】を同一の妖怪と考えたのだろう。
『私利私欲の為に生きてはならない』と、【魍魎】や【火車】を通して石燕は伝えたかったのかもしれない」
「石燕が妖怪を通して深い〚意味〛や〚想い〛を伝えようとしていたと考えると、妖怪の見方が少し変わりますね」
「うん。
『何か』には必ず、『何か』の意味がある。
そして其の意味は必ず、『何処か』の『何か』の意味に繋がっている。
其の『何か』の意味を知ろうと思うようになれば、自分の中の『何か』が変わるのかもしれないな。
また石燕はとても博識で、清の故事だけでなく申楽や歌舞伎、浄瑠璃などを学んで自分で妖怪を創作して〖画図百鬼夜行〗等に描いた」
「え?
全て、昔から日本に伝えられてきた妖怪ではないのですか?」
「うん。
石燕が描いた妖怪図の三割は、創作と言われている。
此れが、何かを作る『成す』だ」
「石燕とは、凄い方だったのですね・・・。
才能が有る人は、羨ましいです・・・」
「確かに、石燕には生来多くの才能が有ったのだろう。
そして石燕の知識が豊富であり、心に余裕があったからこそ、石燕は妖怪を創る事が出来たのだろう。
しかし石燕が持つ才能の中で一番優れていた才能は、『何事も楽しむこと』だったのだと思う。
【知之者 不如好之者
好之者 不如樂之者】
其の事について知っている人は、其の事を好む人には及ばない。
其の事を好む人は、其の事を楽しむ人には及ばない。
だからこそ石燕は妖怪を自由に工夫し、生む事が出来た。
例えば・・・」
そう言って、兄上は再び〔明〕の頁を捲った。
「ああ。
此れだ。
【天井下】」
そして、兄上は〔明〕に描かれている妖怪を指さしながら私に見せてくれた。
其の妖怪は全身を毛で覆われており、長い手を天井に向け、微妙な笑みを浮かべながら天井に空いた穴に逆さにぶら下がっていた。
兄上は、【天井下】について説明してくれた。
「【天井下】
むかし茨城童子は綱が伯母と化して破風を破りて出、今この妖怪は美人に
あらずして天井より落。
世俗の諺に天井見せるというは かかるおそろしきめを見する事にや。
昔、茨城童子と言う鬼は源頼光四天王の一人・渡辺綱の伯母に化けて破風を破って出てきた。
此の出てきた妖怪は醜く、天井より落ちた。
【天井を見せる】と言う諺は、『人を恐ろしい目に合わせる』と言う意味である。
【天井下】は、突然天井から現れる。
特に人に危害を加えるわけでもなく、ただ驚かすだけだ。
石燕の時代、【天井を見せる】とは『人を困らせる』と言う意味であった。
『人を仰向けにして天井を見せ、起き上がれなくさせる』。
つまり【天井下】とは、【天井を見せる】と言う諺を基に創作した石燕の遊び心から生まれた妖怪とも言える」
「石燕には茨城童子や渡辺綱について書かれている〖御伽草子〗の知識があり、尚且つ洒落た人でもあったから、自由に妖怪を創作する事が出来たと言う事ですね」
「うん。
基礎がしっかりしており、様々な知識と経験があれば応用ができ、どの様な事にも対応が出来る。
石燕は元々有った才能を活かし、無かった才能を努力して身に付け、楽しみながら妖怪を創っていたのだろう。
あとは・・・。
そうだ・・・」
そう言って兄上は今度は〔雨〕を手に取り、頁を捲った。
そして私に其の頁に描かれている絵を、建物の上に浮かぶ雲に乗った多くの妖怪達の絵を見せながら説明した。
「【逢魔時】
黄昏をいう。
百魅の生ずる時なり。
世俗小児を外にいだす事を禁む。
一説に王奔時とかけり。
これは王奔前漢の代を簒いしかど、程なく後漢の代となりし故、昼夜のさかいを両漢の間に比してかくいうならん。
【逢魔時】の事を『黄昏』とも言う。
『黄』は太陽、『昏』は暗いと言う意味だ。
つまり太陽と闇の間、昼から夜に変わる時間、夕暮れの薄暗い時間の事を言う」
「『黄昏』は、〖万葉集〗や〖源氏物語〗にも書かれていますね。
〖万葉集〗・・・確か・・・柿本人麻呂が詠んだ歌・・・。
【誰彼 我莫問 九月 露沾乍 君待吾】
「其処にいるのは誰?」と、私に問わないで下さい。
九月の露に濡れながら貴方を待っていた私に・・・。
『黄昏』は『誰彼』、つまり『誰であるのか見分けがつかない時間』の事。
其れと〖源氏物語〗では確か・・・第四帖〔夕顔〕に・・・。
【寄りてこそ それかとも見め たそかれに
ほのぼの見つる 夕顔の花】
近寄って、私が誰であるか確かめてみては如何ですか?
夕暮れで微かにしか見えない私の顔を・・・。
夕顔に会いに行った光源氏が、自分の顔を『夕方の顔』と掛けるなど色男が過ぎるな・・・と思います。
そう言えば、夕顔と言う花は昼は咲かず、夕暮れになってから咲く事から『黄昏草』とも呼ばれますね。
そして夜には萎れてしまうから、夕顔は『儚い恋』を意味する・・・」
「うん。
そうだな。
良く知っているな」
何故なら、数日前に〖万葉集〗と〖源氏物語〗を読み返したばかりだったからだ。
良かった。
役に立った。
私は兄上にまた褒められて、とても嬉しかった。
兄上は、続けた。
「【逢魔時】は『大きな禍の時』、【大禍時】とも書かれる。
『黄昏』である夕方頃、昼から夜に変わる時間は、現世と常世(あの世)が入れ替わる時間と考えられた。
つまり昼と夜の境は、【魑魅魍魎】が跋扈し始める時間だ。
【逢魔時】とは、百の【魑魅魍魎】が現れる時である。
故に此の時、子供を外に出してはならない。
子供が、【魑魅魍魎】や〚禍〛に遭遇するかもしれないから。
一説に、【逢魔時】は【王奔時】とも言われる。
漢には、前漢と後漢がある。
王莽は前漢・第十一代皇帝『元帝』の外戚(母方の親族)であったが、前漢を亡ぼして新を建国した。
王莽は経書に基づいて政を行うが、理想と現実の違いに気付かず国を混乱させた。
そして新は十五年で亡び、其の後、後漢が建国された。
昼と夜の境、前漢と後漢の間である新、どちらも『魔』の時であるから【逢魔時】を【王奔時】とも言う」
「漢・・・。
漢とは〖淮南子〗が書かれた時代の、あの漢の事ですね?」
「うん。
そうだ。
〖淮南子〗を編纂した劉安は、前漢の人間だ。
日本の妖怪と漢と言う国が関係があるのは、面白いだろう?
其れと此処にある〖今昔画図続百鬼〗には描かれていないが、【麒麟】や【窮奇】などの霊獣や、【女媧】などの神も〖淮南子〗の影響を受けている」
「【麒麟】は、清の【四神(【応竜】【鳳凰】【霊亀】【麒麟】)】の一種ですね。
【麒麟】は性格は穏やかで殺生を嫌い、頭は龍、身体には鱗があり、牛の尾と馬の蹄を持つ、とても縁起の良い瑞獣ですよね。
私は【麒麟】の事は知っているのですが、【窮奇】と【女媧】と言う名は初めて聞きました」
「【窮奇】は、【四凶】の一種だ」
「【しきょう】?」
「【四凶】は、『四つの凶悪』と書く。
〖春秋左氏伝〗には、【四凶】とは【渾敦】【檮杌】【饕餮】【窮奇】であると書かれている。
【四凶】は清の神話に出て来る【五帝】の一人、舜帝によって黄河中下流域である中原の四方に追放された四柱の悪神の事だ」
「【ごてい】?」
「諸説あるが、〖史記〗には【五帝】とは【黄帝】【顓頊】【嚳】【堯】【舜】の五人の帝王であると書かれている。
清の地理書である〖山海経(紀元前4世紀~3世紀)〗によると、【窮奇】の姿は猛牛の様で、針鼠の様に硬い毛が生えており、鳴き声は犬の様で、邽山と言う山に棲んでいて人を喰らうと書かれている。
そして〖淮南子〗には、『【窮奇】は、広莫風を吹き起こす』と書かれている」
「こうばくふう?」
「広莫風とは、北風の事だ。
其の為、【窮奇】は風神の一種と看做された。
〖画図百鬼夜行〗の〔陰〕には、【窮奇】と言う漢字の上に【かまいたち】と言う読み仮名が書かれている」
「【かまいたち】とは、風に乗って人を切りつける妖怪の【鎌鼬】の事ですか?」
「うん。
【窮奇】と【鎌鼬】の姿形は異なるが、風を操ると言う事で同一視されたのだろう」
「【魍魎】と【火車】の様に、【窮奇】と【鎌鼬】も性質が似ているから一緒にされたのですね・・・。
一括りにされて、お気の毒に・・・。
別の生き物なのに・・・」
「うん。
『纏める』と言う事は時には便利だが、個性は大切にしなければならないな。
一つ一つも、一人一人も、全く同じである事など在り得ないからな。
まあ。
【白馬非馬説】の様に細かく分け過ぎると、混乱の因になってしまうが・・・。
ああ。
あとは・・・。
【女媧】だったな。
【女媧】は身体が蛇または龍、頭は人の女神の事である。
【女媧】は、清の伝説上の神である【三皇】の一人である」
「【さんこう】?」
「【三皇】は、三柱の皇帝と書く。
書物によって異なるが、【三皇】とは【伏羲】【神農】【女媧】の事である。
【女媧】は同じ三皇の一柱である【伏羲】の妻、若しくは妹と言われている。
また【女媧】は笙(雅楽器)を発明したとも、七十回生き返ったとも言われている。
〖淮南子〗〔覧冥訓〕には、『こう』書かれている。
【往古之時 四極廢 九州裂
天不兼覆 地不周載
火爁炎而不滅 水浩洋而不息 猛獸食顓民
鷙鳥攫老弱
於是女媧煉五色石以補蒼天 斷鼇足以立四極
殺黑龍以濟冀州 積蘆灰以止淫水
遥か昔、西北の天を支える柱が倒れ、東南の地を吊るす綱が切れ、九つの州は裂けた。
天は地を覆う事が出来なくなり、地は万物を載せる事が出来なくなった。
炎は燃え続け消えず、洪水は広がり、猛獣は民を喰らい、鷲や鷹は老いた者や弱った者を攫った。
其処で【女媧】は五色の石を煉って蒼天を補修し、大亀の足を切って其れを以て新たな四つの柱を立て、黒龍を殺して其の身体を以て世界の中央を補い、蘆の灰を積んで洪水を止めた」
「【女媧】は、天と地を再生したのですか?
凄い神様ですね」
「うん。
其れと、【女媧】は泥を捏ねて初めての人間を創ったとも、また大洪水の後に生き残った【伏羲】と【女媧】が人類を創造したとも言われている」
「まるで、〖古事記〗や〖日本書記〗の『国生み神話』のようですね。
確か、神々から国づくりを命じられた伊邪那岐命と伊邪那美命は天浮橋に立ち、神々から与えられた天沼矛で澱んだ海水を掻き混ぜた。
そして矛を引き上げると、矛の先から滴り落ちた潮が積もり重なり、やがて於能凝呂島と言う島が出来た。
其の後、伊邪那岐命と伊邪那美命は四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、大倭豊秋津島(本州)と言う国を生んだ。
此れ等八つの国を『大八嶋国』と言う。
伊邪那岐命と伊邪那美命は、三十五柱の神々を産んだ。
何だか伊邪那岐命と伊邪那美命は、【伏羲】と【女媧】に似ていますね。
国づくりに貢献したところや、兄弟であり夫婦であったところ、人類を創造したところなど。
本当に、清で数千年前に書かれた書物に日本は今も影響を受けているのですね・・・。
其れにしても〖淮南子〗には妖怪や霊獣、神などの神仙思想を源流とする道家思想が随分と残っているのですね」
「元々、淮南国は楚(紀元前1100年~紀元前223年)と同じ地に建国された国だった。
だから淮南国は楚の影響が強く、楚の思想である道家思想を受け容れ易かった」
「楚・・・。
あ。
〖楚辞〗?」
「うん。
儒教の経典の一つである北方の〖詩経(中国最古の詩集)〗は素朴で愛情深い詩が多いが、南方の〖楚辞〗は南方特有の神話的、宗教的そして抒情的な詩が多い。
〖楚辞〗は、屈原(紀元前340年~紀元前278年)や屈原の弟子であった宋玉等、多くの詩人の詩を集めた詩集だ。
特に有名な詩は、屈原が記したとされる〔離騒〕や〔天問〕だろう。
先ず〖楚辞〗の〔離騒〕だが、〔離騒〕には太陽について『こう』書かれている。
【吾令義和弭節兮 望崦嵫而勿迫
路曼曼其脩遠兮 吾將上下而求索
飲余馬於咸池兮 總余轡乎扶桑
折若木以拂日兮 聊逍遙以相羊】
高潔であった〔離騒〕の主人公が地上に絶望し、馬車に乗って天上へ向かう事を決意した。
馬車を出発させようとしたところ、太陽が暮れかかった。
主人公は太陽の御者である義和に命じ、馬車の速度を落とさせた。
そして日が沈む山を望みながらも、主人公は太陽の御者に馬車が山に近づかないようにさせた。
道は遠く、果てしない。
主人公は、天と地の間を行き来しながら模索し続ける。
主人公は地上に昇る前に、太陽が浴すると言う咸池の水を自分の馬に飲ませた。
そして、馬車の手綱を太陽が昇る遥か東方にある扶桑の樹に結んだ。
遥か西方にある若木の枝には、十の太陽があると伝えられている。
主人公は其の枝を折って振り、太陽を払った。
主人公は、此れから旅立つのだ。
そして〖淮南子〗の〔天文訓〕には、太陽について『こう』書かれている。
【日出於暘谷 浴于咸池 拂於扶桑 是謂晨明
登於扶桑 爰始將行 是謂胐明】
太陽は遥か東より出で、咸池で沐浴し、扶桑の樹に至る。
此れを『晨明』と言う。
太陽は扶桑の樹に登り、今まさに旅立とうとする。
此れを『胐明』と言う。
東の果てにある『咸池』や『扶桑』は『日の出』を表し、西の果てにある『若木』とは『日没』を表す。
〖楚辞〗も〖淮南子〗も東から太陽が昇り西に沈むと言う、『太陽の運行』について記している。
また『楚辞』の〔天問〕では、太陽について『こう』書かれている。
【羿焉弾日 烏焉解羽】
清の神話によると、嘗て清には十の太陽があった。
十の太陽は一日に一つずつ昇り沈んだが、【五帝】の一人である【堯】の時代に十の太陽が同時に出現し、地上を燃やし草木を枯らした。
十の太陽の中には三本の足を持つ烏、【三足烏】が一羽ずつ棲んでいた。
【堯】は弓の名手であった羿に太陽を射落とすよう命じ、羿は十の太陽の内、九の太陽を射落とした。
そして九の太陽の中に棲む九羽の【三足烏】は、羽を散らせながら地上に落ちた。
其れ以来、太陽は一つとなった。
此の事は、〖淮南子〗の〔本経訓〕にも書かれている」
「【三足烏】は、ただ太陽の中に棲んでいただけなのに射落とされたなんて、何だか可哀そうですね・・・」
「【三足烏】は羽を散らせながら地上に落ちたが、死んだとは限らない」
「?」
「太陽は射落とされたが、もしかしたら九羽の【三足烏】は新しい世界を目指して飛び立ったのかもしれない。
例えば、日本に」
「日本に・・・?
あ!
【八咫烏】!?」
「うん。
【三足烏】も【八咫烏】も、足が三本ある。
【八咫烏】の『咫』とは、親指と中指を広げた長さ(約18cm)の事だ。
つまり【八咫烏】の大きさは、約五尺(約144cm)と言われている。
また『八咫』とは、単に『大きい』と言う意味であるとも言われている。
日本神話では、【八咫烏】は日本の初代天皇である神武天皇を熊野(和歌山県南部から三重県南部)から大和(奈良県)へ導いた事から、『導きの神』とされている」
「此処にも、清の神話の影響があるのですね・・・。
ところで、何故三本足なのでしょう?
普通、烏は二本足です」
「陰陽五行説では偶数を『陰』、奇数を『陽』とする。
【三足烏】の『三』は『陽』、つまり『太陽』を表す」
「なるほど。
【三足烏】は、『太陽』を象徴しているのですね。
ああ。
そうか。
だから、『九』と言う『陽』が重なる九月九日を『重陽の節句』と言うのですね」
「うん。
『九』と言う数字は最も大きな『陽数』で、『九』が重なる九月九日はとても縁起が良い日と言われている」
「そう言えば、何故『重陽の節句』の事を『菊の節句』とも言うのでしょうか?
単に、菊が秋に咲くからだけではないですよね?」
「『陽数』が重なると『陽の気』が強くなり過ぎて、却って不吉な事が起きると言われている。
だから人々は、菊酒を飲んで禍を避けようとした」
「菊酒?」
「菊の花びらを酒杯に浮かべた酒の事だ。
菊には邪気を祓う力があり、また優れた効能がある延命長寿の霊草でもあると言われている。
だから人々は厄除けの為に、『無病息災』や『不老長寿』の為に、『重陽の節句』の際には菊酒を酌み交わすようになった。
此れが、『重陽の節句』が『菊の節句』と言われる所以だ」
「【禍を転じて福と為す】ですね。
つまり、世の中が『悪い』と言っているものを、『良い』と言うものに変えたと言う事ですね。
本当に、『何か』には必ず『何かの意味』があるのですね・・・」
「うん。
『何か』に宿っている『何かの意味』を知れば、『何か』の見え方や考え方も変わる。
ああ。
其れと清では太陽には【三足烏】が、月には【蟾蜍】や【兎】が棲んでいると考えられている」
「月の中に【兎】?
あ。
お月見?」
「うん。
『中秋の名月』とも言われる『十五夜』に、我々は収穫に感謝をする行事を行う。
悪霊から収穫物を守る薄や月に見立てた月見団子、そして収穫した農作物の三つを供え、人々は感謝しながら月を眺める。
日本でも月の中に【兎】が棲んでいて、【兎】は杵で臼の中の餅を搗いているとされている」
「そう言えば、何故【兎】はお月様の中に棲んでお餅を搗いているのでしょうか?」
「月の影の模様が【兎】が杵を搗いているように見えるからだと、何かの本に書かれていた。
ただ清では、月の中の【兎】が杵で搗いているのは『不老不死』の霊薬だとされている」
「清では【兎】はお餅ではなく、『不老不死』の霊薬を搗いているのですか?
では何故、日本では【兎】はお餅を搗いているとされたのでしょうか?」
「満月を意味する『望月』が由来とも言われているが、定かではない。
日本人は縁起の良いものを好むから、左右対称で欠ける事のない『望月』と『餅搗き』を掛けたのだろう。
また清では【三足烏】は『日烏』、【兎】は『月兎』とも呼ばれている。
日本の『延喜式(平安中期に格式について書かれた書物)』には、『こう』書かれている。
【三足烏 日之精也 白兎 月之精也】」
「清では【三足烏】を『日烏』、【兎】を『月兎』と言い、日本では【三足烏】を『日之精』、【兎】を『月之精』と言うのですね。
清と日本の共通点が、此処にもあるのですね。
【兎】がお月様の中に棲んでいる理由は何となく理解したのですが、何故【蟾蜍】がお月様の中に棲んでいるのですか?
【蟾蜍】とは、ヒキガエルの事ですよね?
どう見ても、お月様の影の模様は【蟾蜍】には見えません。
別に【蟾蜍】を貶めているわけではないのですが、【蟾蜍】ではなく他の生物でも良かったのでは・・・」
「〖淮南子〗の〔精神訓〕には、太陽と月について『こう』書かれている。
【日中有踆烏 而月中有蟾蜍】
太陽の中には【三足烏】が棲んでおり、月の中には【蟾蜍】が棲んでいる。
太陽を射落とした羿は、女仙人である西王母から不死の薬を貰った。
しかし羿の妻である姮娥が、其の薬を盗んで飲んでしまった。
罰せられる事を恐れた姮娥は、月に逃げて【蟾蜍】に化けたと言われている。
そして月に棲む【蟾蜍】の事を、『月中蟾蜍』と言う」
「【蟾蜍】はお月様の影の模様ではなく、清の神話が基と言う事ですね」
「うん。
他に、先程話した天地開闢について〖楚辞〗の〔天問〕には『こう』書かれている。
【曰遂古之初 誰伝道之
上下未形 何由考之
冥昭瞢暗 誰能極之
馮翼惟像 何以識之
明明闇闇 惟時何爲
陰陽三合 何本何化】
遥か昔の天地の始まりの事を、一体誰が伝え始めたのか?
天も地も未だ形在らざる時、一体どのように考えたのか?
明暗が入り乱れている混沌とした世界を、一体誰が見極める事が出来たのか?
形在らざる世界を、一体どのようにして識別出来たのか?
『明』が『明』となり、『闇』が『闇』となったのは、一体どのようにしてなのか?
『陰』と『陽』が結びつき第三の世界が生まれた時、一体何が『本』となり、何が変化したのか?」
「ああ。
確かに、先程の〖淮南子〗〔俶真訓〕や〔天文訓〕は〖楚辞〗の影響を強く受けているように思われますね」
「うん。
そして屈原と劉安も、よく似ている」
「屈原と劉安が似ている?」
「うん。
屈原は、楚の『武王』の血を受け継ぐ家に生まれた。
高貴な家の出であっただけでなく、屈原は詩人としても優れた人物であり、また政を行う者としても有能であったので、楚の『懐王』に重用され内政外交で辣腕を振るった。
秦の始皇帝が清を統一する前、清では燕・斉・楚・韓・魏・趙・秦と言う七つの国が覇権を争っていた。
其の中でも最強国が、秦であった。
秦は国の統一の為、あらゆる手を使って各国を滅亡に追い込もうと画策した。
楚は国の生き残りをかけて、『秦と同盟を結ぶべきとする派閥』と『秦に対抗する為に斉と同盟を結ぶべきとする派閥』とに分かれ、二つの派閥が国内で対立していた。
当時、楚は斉と同盟を結んでおり、屈原は親斉派の筆頭であった。
秦は大国であった楚の力を削ぐ為、秦の宰相であった張儀を楚に差し向けた。
秦は楚に商於六百里を割譲するので、斉との同盟を破棄して秦と同盟を結ぶように『懐王』に迫った。
秦の謀略に気付いた屈原は『懐王』に「秦と同盟を結ぶべきではない」と諫言したが、屈原の実直な性格や才能に嫉妬した奸臣や佞臣達によって屈原の意見は阻まれた。
『懐王』は彼らの言葉を信じ、屈原の意見を退け、斉との同盟を破棄した。
そして屈原は、『懐王』から遠ざけられた。
其の後、『懐王』は譲渡されるべき商於六百里を譲り受けに秦に使者を遣わした。
しかし、張儀は使者に「約束の地は、六里である」と言って一切取り合わなかった」
「あ。
詐欺の事を【商於六百里】と言うのは、此処から来ているのですね。
其れにしても張儀は策士と言うよりも、詐欺師ですね」
「うん。
そうだな。
張儀は楚を滅亡させる為には、手段を選ばなかった。
楚が斉との同盟を破棄した後、秦は斉と同盟を結び楚は孤立する事になる。
約束を反故にされた事に激怒した楚は斉の援軍も期待出来ぬまま、秦と戦をして大敗する。
其の後、屈原は更に『懐王』から疎まれ、左遷された」
「悪いのは『懐王』自身であり、周りの奸臣達なのに?
此処までされれば、屈原も流石に王と国に絶望したのではないのですか?」
「絶望しただろう。
其れでも屈原は『懐王』を、国を見捨てなかった。
そして秦は再び『懐王』に近づき、会談の為に秦に来るよう持ち掛けて来た。
屈原は此の時も、『懐王』に諫言した。
しかし、『懐王』は聞き容れなかった」
「『懐王』は一度秦に騙されたのに、何故同じ過ちを繰り返すのでしょうか?」
「周りの人物に懐柔されていたのか、其れとも人生に絶望して考える事を諦めたのか・・・何故かは私には分からない。
元々、『懐王』は王の器ではなかったのかもしれない。
王として生を受けなければ、『懐王』も、もしかしたら違う人生を歩み幸せに生きる事が出来たのかもしれない。
人は、生まれを選ぶ事も変える事も出来ない。
人は、〚宿命〛を変える事は出来ない。
ただ、〚運命〛は変える事が出来る。
だが『懐王』は、変える事の出来る〚運命〛を変えようとしなかっただけなのかもしれない」
「・・・」
「結局、『懐王』は秦に赴き監禁され客死した。
そして『懐王』の後に、太子であった『頃襄王』が王となり、『頃襄王』の令尹(宰相)に同じく『懐王』の子であった子蘭が着任した。
『頃襄王』も子蘭も屈原を憎んでおり、彼らにより屈原は更に江南へと左遷された。
「〖楚辞〗〔橘頌〕には、『こう』書かれている。
【后皇嘉樹 橘徠服兮
受命不遷 生南國兮
深固難徙 更壹志兮
緑葉素栄 紛其可喜兮
曾枝剡棘 圓果摶兮
青黄雑糅 文章爛兮
精色内白 類可仁兮
紛縕宜脩 姱而不醜兮】
天帝が愛する橘が、江南にやって来た。
天帝の命を受け橘は何処にも遷らず、江南で成長した。
橘は江南に深く根差し、其の堅固な志は決して揺らぐ事は無い。
橘の緑の葉、白き花は、とても美しい。
枝は重なり、棘は鋭く、果実は丸い。
青と黄が入り乱れ、色鮮やかに輝いている。
表面は艶やかで、内は白く、まるで清廉なる君子の様である。
姿美しく、努力により得た能力も優れており、醜さの欠片もない。
屈原は自分を橘に喩え、自身の〚純潔〛を示そうとした」
「何故、橘が〚純潔〛を意味するのですか?」
「古代の清では儀式の際に、橘などの香草が神に捧げられた。
神に捧げられる香草は神聖なものである事から、香草は〚純潔〛を象徴する様になった。
だから人々は『自分は清廉潔白である』と言う事を示す為に、香草を身に佩びた」
「香草を佩びるなんて、まるで私達が匂い袋を身に付けているのと同じですね」
「うん。
そうだな。
つまり此の詩を通して、屈原は
『楚で生まれ育った自分は楚に一生を捧げ、どの様な事が有ろうとも〚純潔〛に生き、決して国を裏切らない』
と言う強い〚決意〛と〚覚悟〛を示したかったのだろう」
「屈原は、随分と出来た方だったのですね・・・。
主君や周りに蔑ろにされてでも、国に尽くそうと思うなんて・・・。
私だったらこんな酷い国、さっさと見切りをつけて直ぐに他国に亡命しようと思いますけど」
「やはり、『祖国』を見捨てる事は出来なかったのだろう。
どの様な『祖国』であっても、自分を生み育ててくれた『祖国』を放っておく事は出来ないものだ。
若しくは・・・『国』を外からではなく内から守る為に、亡ぼされない為に、なすべき事をなす為に、敢えて『祖国』に残ったか・・・。
〖楚辞〗〔橘頌〕には、『こう』書かれている。
【嗟爾幼志 有以異兮
独立不遷 豈不可喜兮
深固難徙 廓其無求兮
蘇世独立 横而不流兮
閉心自慎 不終失過兮
秉徳無私 参天地兮
願歳并謝 与長友兮
淑離不淫 梗其有理兮
年歳雖少 可師長兮
行比伯夷 置以為像兮】
ああ。
貴方方は年若いのに、其の心は他のものとは異なる。
孤高を保ち、何ものにも惑わされないとは、なんと素晴らしい事でしょうか。
其の地に深く根を下ろし、他へ移ろうとしないのは、其れを望まないからなのでしょう。
世俗の中でも自分達の意志を持ち、自分達の志を守り、どの様な風にも流されない。
世俗に塗れず、己を律し、決して誤る事もない。
『徳』を成し 私心も無く、天地と並ぶほど崇高です。
願わくば時の許す限り、末永く友としてありたい。
清廉潔白であり、心も乱されることもなく、固く『理』を持ち続ける。
貴方方は年若いけれど、人を導く者となるでしょう。
其の行いは聖人・伯夷と比べるほど高潔です。
屈原は国から見捨てられてからも、国の為に生きた。
しかしその後、秦によって楚の首都・郢は陥落した。
国を失った屈原は、生きる事が耐えられなくなった。
そして、世を儚んで石を抱いたまま汨羅江に入水し果てた。
楚の人々は屈原の死を悼み、屈原が自害した五月五日に糯米を蒸した粽を川に投げて供養した」
「五月五日・・・『端午の節句』に粽を食べる風習は、屈原の供養が始まりだったのですね。
屈原の事は分かりましたが、屈原と劉安が似ているとはどう言う事でしょうか?」
「先程言った様に、劉安は父である劉長の死後、漢によって領地を大幅に削られた淮南国を与えられ『淮南王』となった。
劉安は父とは異なり、争いを好まない文学を愛する人物であった。
そんな劉安の許に、様々な思想を持つ多くの食客や方士が集まって来た。
劉安は彼らを受け容れ、多くの思想を学んだ。
其れらの思想の中には、漢にとって不都合なものもあった。
其の後、第六代皇帝『景帝』の頃、『呉楚七国の乱』が起きた。
漢は、王朝の脅威となり得る思想の影響を受けた劉安が此の乱に呼応し、漢を裏切り攻めて来るのではないかと恐れた。
劉安は、漢に祖母と父を殺された。
領地も削減された。
漢は劉安が乱に加担して漢を倒し、祖母と父と自分の恨みを晴らそうとするのではないかと考えた。
『景帝』は丞相・張釈之を劉安の許に派遣し、乱に加わらないよう劉安に伝えた。
劉安は乱には加わる事は無かったが、漢の劉安に対する疑念は残ってしまった。
一度生じた疑いは、なかなか払拭出来ない。
『呉楚七国の乱』の後、漢は中央集権国家体制強化の為、更に各国や人々を抑制するようになった。
其れにより、多くの食客や方士が益々淮南国に集まるようになった。
劉安は、彼らから多くの事を吸収した。
そして劉安の博識さは、人々に知れ渡っていった。
特に『景帝』の跡を継いだ第七代皇帝『武帝』は、劉安を心から慕っていると同時に、人として尊敬していた」
「『呉楚七国の乱』以後、漢と劉安の間には多少溝があったようですが、劉安と『武帝』は良好な関係だったようですね。
其れに劉安は最終的には乱に加わらなかったところを見ると、劉安には自分の感情を抑制出来る強さと冷静さがあったように思われます。
現実を見つめ、『どうする事が最善であるのか』と言う処世術も身に付けていたようにも思われます。
そう考えると、やはり劉安には謀反を起こす理由など無かったように感じますが・・・」
「うん。
そうだな。
だが其の後、『武帝』は遊牧騎馬民族である匈奴の討伐を進めようとして劉安と対立した。
劉安は、『武帝』の匈奴討伐に反対した。
其れが『武帝』への反逆と看做なされ、劉安は所領二県を削減された。
そして、劉安と『武帝』の関係は次第に悪くなっていった」
「『武帝』との関係が悪くなったから、劉安は謀反を企てたと言うのですか?
何だか、其れは違和感を覚えます。
戦を止めて国を守ろうとした劉安が、果たして謀反を企てるのでしょうか?
もし謀反を起こして漢を倒そうと考えるのであれば、先ず漢と匈奴を戦わせて漢の力を削ぎ、疲弊した漢に後から一気に打撃を加えた方が被害も最小限に済み、効率的で楽なのではありませんか?
私は劉安について今知ったばかりですし、会った事もないけれど、劉安はとても思慮深く、洞察力に優れた方だったように思われます。
況してや、劉安が自身の欲望や野望の為に謀反を企てるような人物には、私には思えません。
【視其所以
觀其所由
察其所安
人焉廋哉】
其の人の行動を視よ。
其の人の行動の意味を観よ。
其の人が、自分の行動に満足しているか推し量れ。
そうすれば、其の人がどのような人物か分かる。
劉安の生き方を見ると、やはり私には私利私欲の為に劉安が謀反を起こそうとしたとは思えないです。
もしお祖母様や父上様に対する憎しみや領地を削られた事に対する恨みがあり、謀反を起こすと決意したのであれば、虎視眈々と機会を伺い、躊躇せず策謀を以て漢を倒すはずです。
兵家の思想を学んだ劉安には、其れを実現する能力もあったはずです。
でも私には、劉安が其れを実現しようとする様な人物には思えないのです。
勿論、お祖母様やお父上様に対する恨みや憎しみが劉安の中に全くなかったと言う訳ではないと思います。
でも劉安は、其の恨みや憎しみを理性で抑え、自らを変え、漢と争わず、協力し合い、高め合う事の出来る人であったと思います。
劉安は、自分の感情を制御出来る人であったのではないかと思います。
其れに道家の訓えを学んだ劉安が、戦による犠牲の大きさや戦の愚かさ、虚しさを知らないはずがない。
復讐など無意味な事であると、劉安自身が一番理解していたと思います。
復讐を選んだ父上様が、どの様な末路を辿り、どれ程多くの人々を苦しめたのかを劉安は知っていたはずです。
兄上は先程、『劉安は心を利用され、謀反へと導かれたに過ぎない』と仰っていました。
つまり劉安は、『謀反を起こすよう何者かに仕向けられた』と言う事ですか?
陰謀であったかもしれないと言う事ですか?」
私がそう言うと、兄上は嬉しそうに答えた。
「うん。
私は、劉安は謀反を起こすよう『仕組まれ』『仕向けられ』『選ばされた』と思っている。
私が先程言った『屈原と劉安は似ている』とは、屈原と劉安の〚信念〛の事だ。
屈原の〖楚辞〗〔抽思〕には、『こう』書かれている。
【心鬱鬱之憂思兮
獨永歎乎增傷
思蹇産之不釋兮
曼遭夜之方長
悲秋風之動容兮
何囘極之浮浮
數惟蓀之多怒兮
傷余心之擾擾
願搖赴橫奔兮
覽民尤以自鎮】
心は鬱々として、憂えるばかりである。
独り涙すれば、更に悲しみが増す。
思いは、絡まり解けない。
其のせいか、夜が長く感じられる。
秋風が、草木を揺らす事さえ悲しく感じられる。
何故、こんなにも浮き沈むのか。
私は、主君のお怒り多き事を思い出す。
思い出す度に私の心は痛み、悲しみが湧き上がる。
己を奮い立たせて、何か行動を起こそうとは思う。
しかし、其れにより民が咎められるのではないかと考え思い留まる。
そして劉安の〖淮南子〗〔人間訓〕には、『こう』書かれている。
【清淨恬愉 人之性也
儀錶規矩 事之制也
知人之性 其自養不勃
知事之制 其舉錯不惑
發一端散無竟
周八極總一管
謂之心
見本而知末 觀指而睹歸
執一而應萬 握要而治詳
謂之術
居知所為 行智所之
事智所秉 動智所由
謂之道
道者 置之前而不輊 錯之後而不軒
內之尋常而不塞 布之天下而不窕
是故使人高賢稱譽己者 心之力也
使人卑下誹謗己者 心之罪也】
心が清らかで穏やかである事は、人の『性(本性)』である。
規律正しくある事は、『事(行為)』の定めである。
人の『性』を知れば己を育て、誤る事も無い。
『事』の定めを知れば、『事』ある毎に惑う事は無い。
一方から発して無限に広がり、其れらは更に四方八方へと広がり、再び元の場所へ戻る。
此れを『心』と言う。
根源を見て末端を知り、行き先を見て目的地が分かり、一事であっても万事に対応し、要点を把握し詳細を理解する。
此れを『術』と言う。
平常であっても為すべき事を知り、行く時は行くべき所を知り、何かを為す時は守るべきものを知り、行動を起こす時は其の理由を知る。
此れを『道』と言う。
『道』は、前に置いても低くなる事は無い。
『道』は、後ろに置いても高くなる事は無い。
『道』を『普通』の中に入れても、塞ぐ事は無い。
『道』を天下に広げても、広がり過ぎる事は無い。
故に人々に自分が高潔な人物であると称賛させる事は、己の心に邪なものがあるからである。
人々が自分を卑しい者と蔑ませる事は、己の心に賤しいものがあるからである。
屈原も劉安も逡巡し迷いながらも、其れでも〚信念〛を貫こうとした。
〖楚辞〗〔離騒〕には、『こう』書かれている。
【長太息以掩涕兮
哀民生之多艱
余雖好脩姱以鞿羈兮
謇朝誶而夕替
既替余以蕙纚兮
又申之以攬茝
亦余心之所善兮
雖九死其猶未悔】
私は長く深い溜息をつき、涙を拭う。
人は、生きる事が難しい事に哀しむ。
私は只、修練を重ねて己を高め、戒めてきた。
己の為ではない。
只、民と主君の為に・・・。
ああ、其れなのに、朝、私が主君を諫めると、夕方には職を解かれた。
私は、真心を以て主君を諫めた。
私は、精進を重ね清廉潔白に生きてきた。
其れが却って、主君の心を遠ざけてしまった。
しかし、此れは私が望んだ事だ。
何度死のうとも、私は己の生き方に〚後悔〛などしない。
主君は、屈原を妬む者達の讒言を信じた。
心変わりした『懐王』は、屈原を退けた。
しかし屈原は、己の生き方に誇りを持ち続けた。
己の生き方に、〚後悔〛などしていなかった。
其れでも、悲しみは残った。
更に〖楚辞〗〔抽思〕には、『こう』書かれている。
【昔君與我誠言兮
曰黄昏以爲期
羌中道而囘畔兮
反既有此他志
憍吾以其美好兮
覽余以其脩姱
與余言而不信兮
蓋爲余而造怒
願承閒而自察兮
心震悼而不敢
悲夷猶而冀進兮
心怛傷之憺憺】
嘗て、貴方は私と約束された。
黄昏時に会おうと。
其れなのに、貴方は心変わりしてしまった。
貴方は、私以外の人に心を移してしまった。
貴方は、私に私以外の人の美しさを褒め称える。
貴方は、私に私以外の人の優秀さを誇示する。
貴方は、私との約束を反故にされた。
其れは、貴方が私以外の人の言葉を信じたからでしょう。
だから貴方はお怒りになられ、私との約束を破られたのでしょう。
私は貴方から去り、決して恥ずべき行為などしていないと貴方に示したい。
しかし、心が震えるのです。
悲しみが勝って、私は此れ以上進む事が出来ないのです。
心が痛くて、揺れ動くのです。
そして劉安の〖淮南子〗〔人間訓〕には、『こう』書かれている。
【為魏文侯大開地有功
自此之後 日以不信】
魏の将軍であった楽羊は魏の文侯の為に戦い、魏の領地を更に拡げた。
しかし、自分の息子を犠牲にしてまで勝利を得た楽羊を人々は次第に信用しなくなっていった。
屈原と劉安は、似ている。
心変わりした『懐王』は、屈原を見限った。
そして『武帝』も、自分の政策に反対した劉安を見限った。
屈原も劉安も、ある時は主君を諫め、ある時は主君を助け、たとえ主君に疎まれ己の心が傷つこうとも、志を曲げず真っ直ぐ生きようとした。
国の為に・・・。
民の為に・・・。
だから私は、劉安は己の為に謀反を起こそうとしたとは思えない。
劉安が様々な思想や人を受け容れたのは謀反を起こす為ではなく、純粋に思想を守り、知見を広げ、国を支え、人を助ける為であったと思う。
しかし其の行為が、漢とは思想を異にする人々を更に淮南国へ向かわせる事になった。
漢は、『こう』思ったに違いない。
『劉安が居ると、漢と対立する人々が淮南国に集まり続ける』
『いつか劉安達淮南国の人々が徒党を組み、大きな勢力となって漢に反旗を翻すであろう』
漢は劉安の存在を脅威と考えるようになって、劉安を誅殺する事を画策したのではないだろうか?
劉安の存在は、中央集権国家を進めようとする漢にとって邪魔なものでしかなかった。
漢は、自分達と敵対する国を一つでも亡ぼしておく必要があった。
だから漢は、劉安をやむを得ない状況に陥らせ、劉安を謀反へと誘導したのではないだろうか?
ただ恐らく、劉安は『其れ』を知っていた」
「知っていた?
劉安は、漢の思惑を知っていたと言う事ですか?」
「うん。
恐らく。
〖淮南子〗〔説山訓〕には、『こう』書かれている。
【落一葉而知天下秋】
夏の終わり、青桐の葉は他の木に先駆けて落葉する。
一葉の青桐の葉が散る姿を見て、秋が来た事を知る。
『小さな変化から、此れから起こるであろう大きな変化を知る』と言う意味だ。
劉安自身、『何か』が起こる事を予見していたのだろう。
そして其の『不穏な動き』を劉安を慕う者達、また劉安を陥れようとする者達が察知し、行動に移した。
彼らは、劉安を謀反へと導いたに違いない。
劉安を助ける為に・・・。
劉安を破滅の道へと進ませる為に・・・」
「・・・」
「『何か』が起こると分かっていても、どれだけ慎重に行動していても、周りによって『道』を変えられてしまう事がある」
「・・・」
「劉安は八公・・・淮南国の食客の中でも優れた八人である左呉達と共に謀反を企てたと言われている。
劉安の心は、八公達の言葉によって揺れ動いたに違いない。
劉安の心の奥底には、祖母と父の〚無念〛が根付いていた。
『祖母と父の恨みを晴らしたい』
だが劉安は、謀反による犠牲の大きさも知っていた。
『私怨の為に謀反を起こせば、多くの人の命を犠牲にする事になる』
だから、劉安は躊躇った」
「劉安は、内から外からも謀反を嗾けられた・・・。
迷い、苦しみ、躊躇い・・・そして、いつの間にか漢の思惑通りになってしまっていた・・・」
「うん。
結局、八公の一人である伍被の密告により謀反の計画は露見してしまった」
「劉安は、伍被に裏切られたのですね」
「伍被は劉安を何度も諫めたらしいが、劉安は其れを聞き容れなかったと言われている」
「劉安が、伍被の意見を聞き容れなかったのですか・・・。
其れは、もう既に謀反を起こさざるを得ない状況であったからでしょうか?
其れとも、本気で謀反を起こそうと思っていたからでしょうか?
其れとも、劉安が伍被の意見を聞かなかったと言う『史実』自体が嘘なのでしょうか?」
「其れは、分からない。
ただ『史実』によると、漢は劉安について『こう』判断したとされている。
【劉安は法を犯して不正を行い、偽りにより天下を乱し、
民を惑わし祖先の霊に背き、妄りに妖言を発する。
劉安が謀反を起こそうとしている事は、明白である。
今こそ、劉安の罪を裁く時である】
大義名分を得た漢は、劉安の許へ使者を送った。
しかし使者が到着する前に、劉安は自ら首を掻き切って自害した」
「劉安は、使者を殺して謀反を起こす事も出来たはずです。
でも、使者が劉安の許に到着する前に劉安は自害した。
根源である自分を葬りさえすれば、犠牲は少なくて済むと劉安は考えたのではないでしょうか?
此れ以上、自分が誰かに利用されない為に、劉安は自害したのではないでしょうか?」
「分からない。
そうであるかもしれないし、そうでないのかもしれない。
ただ劉安の死後、淮南国は漢に没収され、謀反に加担した弟も自害し、劉安の一族は処刑された。
淮南国の臣下や食客達も罪に問われ、罰を受けた。
劉安が謀反を起こしても起こさなくても、多くの犠牲が出た。
そして〖史記〗や〖漢書〗には、劉安が漢に恨みを抱き、謀反を起こそうとした人物であると記された。
しかし其の事が必要以上に書かれていて、其れが却って不自然に感じられる」
「・・・」
「歴史は、勝者によって都合の良いように書き換えられる時がある。
前の王朝を貶める事によって現王朝の正統性を示し、不安定な国の安定化を図る為など、理由は様々だ。
此れはある意味、仕方のない事なのかもしれない」
「理由はどうあれ、貶められた国や人は後世の人々に蔑まれる事になりますね・・・。
後の世の人が歪められた〚真実〛が書かれている書物を読めば、其れが『真実である』と思ってしまう・・・。
でも書物に『そう』書かれているからと言って、残されているからと言って、『其れ』が必ずしも〚真実〛であるとは限らない。
書物に書かれている事が、『絶対である』とは限らない。
ただ、私達には『其れ』が〚真実〛であるのか、『歪められたもの』であるのかを判断する事は難しいです。
そして『何』が〚真実〛であるか明らかにされないまま『其れ』が引き継がれ、いつの間にか〚真実〛が消えてしまうのかもしれないと思うと、少し怖いです・・・」
すると、兄上は文机の上に沢山積まれている本を指さしながら言った。
「文机の上に積まれている本の中にも、〚真実〛に多くの手が加えられているものがある。
しかし手が加えられていようとも、其の中には必ず〚真実〛が残っている」
「・・・」
「勝者によって、力の強い者によって、歴史は作られてはならない。
〚真実〛は、歪められてはならない。
何百年、何千年経っても、消えないものはある。
消せないものがある。
〚真実〛は『時』も『場』も越え、必ず『人』に伝わる」
そう言うと兄上は私の方を向き、微笑みながら続けた。
「劉安は死後、『仙人』とされた」
「『仙人』とされた?」
「劉安の死後、此の様な伝説が生まれた。
【淮南には、多くの方士が集まった。
彼等から神仙術を学んだ劉安は、不死の力を得た。
故に劉安は死んだのではなく、昇天したのだ】」
「本当ですか?」
「さあ。
どうだろう。
ただ此の伝説は劉安の死後、方士達によって生み出されたものだと言われている。
方士達は自分達の実力を見せつける為、自分達を擁護する為に、此の様な伝説を作ったのだろうと言われている」
「方士達によって、劉安の『死』は利用されたと言う事でしょうか?
劉安は生きている時も、死んだ後も利用され続けたのですね・・・。
お気の毒に・・・」
「そうでもない」
「そうでもない?」
「うん。
確かに、生前も死後も劉安は利用された。
しかし利用され、『仙人』とされた事により、〚真実〛や劉安の〚想い〛は、『時』と『場』を越えて私達に伝えられた」
「〚真実〛や劉安の〚想い〛は、私達に伝えられた?」
「うん。
彼の〚不幸〛な人生は、人々に憐憫の情を抱かせた。
そして人々は、劉安に対して『こう』思った。
【劉安は、漢によって殺されたようなものだ。
可哀そうに・・・。
しかし方士達は、劉安は『仙人』となったと言っている。
もしかしたら、劉安は『不老不死』の術を会得していたのかもしれない。
もし劉安が『仙人』として生きているのならば、我々は劉安を
『仙人』として祀ろう】
人々は淮南国にある八公山に廟を建て、劉安と八公を祀った」
「劉安は方士達によって『仙人』とされ、人々によって本当の『仙人』となったのですね」
「うん。
そして、〖淮南子〗も読み継がれ残った。
〖淮南子〗は元々、〖淮南鴻烈〗と言う名の外篇三十三篇、中篇八篇、内篇二十一篇からなる書物であった。
〖淮南鴻烈〗は劉安の死後、時代と共に変化し、様々な形で受け継がれていった。
高誘注釈の〖淮南鴻烈解〗、許慎注釈の〖淮南鴻烈間詁〗そして〖淮南変化術〗や〖淮南万畢経〗など。
〖淮南鴻烈〗の外篇三十三篇と中篇八篇は時の経過と共に散佚してしまったが、内篇二十一篇のみは残った。
其れが、〖淮南子〗だ。
〖淮南子〗は人々に読み継がれ、形を変えながらも日本に伝えられ、今、私達の手元にある」
「・・・」
「生きている時、劉安は確かに〚不幸〛であった。
しかし死後、〚真実〛と劉安の〚想い〛は人々の心の中に生き続ける事が出来た。
だから・・・もしかしたら・・・劉安は今・・・〚幸福〛・・・なのかもしれない・・・」
「・・・」
すると兄上は、文机の上に置いてある一輪挿しに生けてある『藤袴』を指さした。
其の『藤袴』は六日前、私がお城の近くを歩いている時に見つけたものだった。
前日の強い雨に打たれて此の『藤袴』は折れてしまっていたが、僅かに繋がっている茎から離れまいと一生懸命生きていた。
美しい紫紅色の『藤袴』は生きる事を諦めず、飛ばされないよう健気に生きていた。
其の姿が、兄上の姿と重なった。
心の奥底で『生を諦めよう』としながらも、其れでも『生きよう』とする兄上の姿に・・・。
私が一生懸命生きている其の『藤袴』を見つめていると、突然強い風が吹いた。
其の風に煽られ、『藤袴』は茎から離れ飛んで行ってしまった。
私は、其の『藤袴』を必死になって追い掛けた。
何処かへ飛ばされたくなかった。
私は、風に飛ばされる『藤袴』を絶対に見失なってはいけないと思った。
懸命に走り続けた。
漸く風が止み、宙を舞っていた『藤袴』はゆっくりと地面に落ちた。
私は、其の『藤袴』を両手で包み込む様に持ち上げた。
そして家に持ち帰り、一輪挿しに生けて兄上の部屋に飾った。
其の『藤袴』を見て、少しでも兄上の心を和ませたいと思った。
兄上は、『藤袴』を見つめながら言った。
「『藤袴』を、清では『蘭』『蘭草』『秋蘭』『香蘭』『幽蘭』と言う」
「『ゆうらん』?」
「『幽谷』、つまり深山に咲く『蘭』の事を言う。
『藤袴』は夏の終わりから秋にかけて、紫紅色の小さな花を咲かせる。
光を好み、夏の暑さにも、冬の寒さにも強い。
そして、『藤袴』の葉には毒がある」
「え!?」
私は其れを聞き、一輪挿しに生けてある『藤袴』を取りに行こうと立ち上がった。
そんな危険なものを兄上の部屋に置いていたなんて思ってもいなくて、直ぐに部屋の外に持って行かなければならないと思った。
すると兄上は私の腕を掴み、微笑みながら言った。
「大丈夫だ」
「でも!」
「毒には注意しなければならないが、『藤袴』の毒は微量であれば直接摂取しても問題ない。
触れる程度で、命を落とす事は無い」
「本当に・・・大丈夫ですか・・・?」
私は、疑わしい目をしながら兄上に確かめた。
兄上は、はっきりと答えた。
「本当に大丈夫だ。
確かに『藤袴』には毒があるが、薬草や香草としても使われる。
『絶対に危険である』と言うわけではない」
「・・・」
私は、ゆっくりと座り直した。
兄上は、続けた。
「『藤袴』には、多くの『胡蝶』が集まる。
特に浅葱色の羽を持つ『胡蝶』は、『藤袴』の蜜を好んで吸う。
浅葱色の『胡蝶』は幼虫の時に『藤袴』の葉を食べ、『藤袴』の毒を体内に取り込み蓄積させる」
「浅葱色の『胡蝶』の幼虫は、毒である『藤袴』の葉を食べても大丈夫なのですか?」
「恐らく、毒に適応出来る身体に変化させていったのだろう。
そして浅葱色の『胡蝶』は、成虫になってからも毒を含んだ『藤袴』の蜜を吸う。
浅葱色の『胡蝶』は鳥などの捕食者から身を守る為に、生きる為に、其の身に『藤袴』の毒を蓄え、自身を毒化させる」
「鳥などの捕食者から身を守る為?」
「一度でも毒化した浅葱色の『胡蝶』を食べた事のある鳥は、浅葱色の『胡蝶』を食べると危険であると記憶する。
以後、浅葱色は警告色となり、他の浅葱色の『胡蝶』は鳥に食べられる事がなくなる」
「浅葱色の『胡蝶』は自身や仲間、子孫の為に、後世に残す為に『藤袴』から毒を得るのですね」
「うん。
浅葱色の『胡蝶』の命は、短い。
四、五か月しか生きる事が出来ない。
だから、食べられるわけにはいかないのだ。
ただ短い命であるにも拘らず、浅葱色の『胡蝶』は春には南から北へ、秋には北から南へと移動する。
時には、命を懸けて海を渡る時もある。
だから、全身が傷だらけだ。
それでも浅葱色の『胡蝶』は『藤袴』を探し求め、『藤袴』から毒を得て、其の身に『藤袴』の花粉を付けて、次の『藤袴』に花粉を運ぶ。
そして、新たな『藤袴』が咲く手助けをする。
新たに咲く『藤袴』は、環境によっては元の『藤袴』とは異なるものもあるだろう。
しかし其の中には、必ず元の『藤袴』が残っている」
「・・・」
「浅葱色の『胡蝶』が『藤袴』を伝える様に、人も〚真実〛や〚想い〛を伝える。
だから必ず、〚真実〛や劉安の〚想い〛は何処かに必ず残っている。
どれ程〚真実〛や劉安の〚想い〛が歪められようとも、〚真実〛や劉安の〚想い〛は必ず残り、伝わり、生き続ける」
「・・・」
「もしかしたら劉安は、本当に復讐の為に謀反を起こそうとしたのかもしれない。
もしかしたら私達が考えた通り、謀反は仕向けられたものなのかもしれない。
何が〚真実〛かは、分からない。
何を劉安が想っていたかは、分からない。
しかし〚真実〛が、劉安の〚想い〛が消える事は決して無い」
「・・・」
「〚真実〛や〚想い〛が、万人に伝わる事など不可能だ。
人それぞれ、生まれた環境も生きる環境も異なる。
受け止め方も、感じ方も、考え方も、人によって全て異なる。
だから、万人には伝わらない。
其れは、仕方のない事だ。
其れで良い。
万人に伝わらなくとも良い。
数人でなくとも良い。
仮令一人でも〚真実〛や〚想い〛が伝われば、其れで良い。
伝えられた人が生きていれば、きっと何かの形で伝わり、残る。
仮令『望んだ形』ではなくとも、『様々な形』で〚真実〛や〚想い〛が残っているのならば、其れで良い」
「・・・」
「〚真実〛は・・・劉安の真の〚想い〛は・・・人から人に伝わり・・・『時』や『場』を越えて生き続ける・・・。
〚真実〛や〚想い〛は永遠に変わらず・・・永遠に死なない・・・」
「・・・」
「『不老不死』とは、『永遠に老いず死なず』と言う意味だ。
しかし本当の『不老不死』とは、もしかしたら〚人々の心の中に生き続ける〛と言う事なのかもしれない。
〚真実〛や〚想い〛が永遠に伝わり続ける事こそが、本当の『不老不死』なのかもしれない・・・」
「・・・」
「劉安は、『道』を誤ったのかもしれない・・・。
しかし、劉安の『心』は決して穢れてなどいなかった・・・」
「・・・」
「人生は、一度しかない。
だからこそ、『心』に恥じぬ生き方をしなければならない。
だからこそ、〚悔い〛のないよう生きなければならない」
「〚悔い〛・・・」
私は〚悔い〛と言う言葉を聞いて、兄上に問わずにはいられなかった。
「兄上には・・・」
そう一言言って、私は言い淀んだ。
兄上に、『それ』を聞いて良いのか迷った。
しかし、聞かなければならないと思った。
兄上の〚想い〛を知りたかった。
確かめたかった。
私は両手で着物の袂を強く握り締め、意を決して兄上に聞いた。
「兄上には・・・〚悔い〛はないのですか・・・?」
「〚悔い〛・・・?」
そう呟くと、兄上は私の顔をじっと見て悲しそうに微笑みながら言った。
「・・・〚悔い〛は・・・ある・・・」
すると兄上は私から目を逸らし、自分の両手を上に向けて其の手をじっと見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「【忘己利他】・・・」
「【もうこりた】?」
「【忘己利他】とは、『己を犠牲にし、他者の利益を尊重する』と言う意味だ。
天台宗の開祖である『伝教大師』最澄の言葉だ。
『誰か』や『何か』の為に生きる事は、素晴らしい。
自分を犠牲にしてまで人に尽くすと言う事は、とても美しい。
私自身、『自分もそうあるべきだ』と、『自分もそうありたい』と思っている。
『大切なものは、全て守りたい』
しかし、どれ程強く『守りたい』と願っていても、〚想い〛だけでは無理なのだ。
全てを守る事など、不可能な事なのだ。
『どちらか』を、『何か』を、選ばなければならない〚時〛が、必ず来る。
『どちらか』を、『何か』を、選んだ〚時〛、『どちらか』を、『何か』を、必ず犠牲にする。
そして『どちらか』を、『何か』を選んだ時、自分だけでなく、大切な人を傷つける〚時〛がある」
「自分だけでなく、大切な人を傷つける〚時〛・・・?」
「私が『誰か』を大切に思う様に、『誰か』も私を大切に思っている。
私が『誰か』に傷ついてもらいたくないと思う様に、『誰か』も私に傷ついてもらいたくないと思っている。
だから私が、自分を犠牲にしてまで『誰か』を救う事によって苦しんでいれば、『誰か』も苦しむ私を見て苦しいと感じる。
自分を犠牲にする事によって、知らぬ間に私は『誰か』を傷つけているのだ」
「・・・」
「私は今、皆に心配させ、迷惑を掛けている」
「私達は、迷惑だなどと思っていません!!」
「『迷惑だなどと思っていない』
『そう』思わせていること自体が、私が大切な人達を傷つけている証拠なのだ」
「・・・」
「自分が労咳に罹っていなければ、皆にそんな事を思わせなくて済んだ・・・」
「・・・」
「私は自分を傷つけ・・・皆を傷つけ・・・皆の恩に報いる事も出来ない・・・。
今の私は・・・皆を苦しめる事しか出来ない・・・」
「そんな事はありません!!
もし『私達を傷つけたくない』『恩に報いたい』『苦しめたくない』と思うのであれば、兄上は生きて生きて生きて下さい!!
世の中には、生きたくとも生きる事が出来ない人がいます!!
病気の為に、苦しい為に、自分の為に、誰かの為に〚死〛を選ぶ人がいます!!
苦しいかもしれない!!
辛いかもしれない!!
悲しいかもしれない!!
生きていれば、辛い事も苦しい事も悲しい事も沢山ある!!
其れは、一生涯続く!!
でも、辛い事や苦しい事や悲しい事以上に、必ず喜びも楽しみも嬉しさも沢山ある!!
死んでしまえば、其れら全てを感じる事が出来ない!!
だから私達は、兄上に生きて欲しい!!
生きる事を、決して『諦めない』で欲しい!!!
仕方がないからと『諦める』のではなく、仕方がなくとも『諦めない』で欲しい!!!」
私は、兄上の目をじっと見つめながら強く叫んだ。
兄上は悲しそうに微笑み、小さな声で答えた。
「本当に『誰か』の〚幸せ〛を願うのであれば、『自分自身』も〚幸せ〛でなければならない。
『誰か』が傷つかない為に、私は『私の為』に生きなければならない・・・。
『誰か』も、『何か』も、そして『自分自身』も、同じくらい大切なのだ・・・。
当時の私には、『其れ』が分からなかった・・・。
何も見えていなかった・・・。
自分の〚想い〛を優先し、自分さえ犠牲になれば良いのだと思い、多くの人を傷つけてしまった・・・。
そして、今も・・・私は私を大切に思ってくれている人達を・・・私の大切な人達を傷つけ続けている・・・」
「・・・」
「人は、私が〚不幸〛であると思っている・・・」
「・・・」
「私は・・・〚幸福〛だった・・・。
今も・・・〚幸福〛だと思っている・・・。
しかし・・・人によっては・・・今の私は〚幸福〛ではないと思う・・・。
どれ程私が自分は〚幸福〛であると言っても・・・人は私が〚不幸〛であると思う・・・」
「・・・」
「だから私には・・・〚悔い〛がある・・・。
『そう』・・・人に思わせてしまった自分の行動に対して・・・。
独り善がりな自分の行動に対して・・・。
大切な人に辛い思いをさせ・・・心配をさせている事に対して・・・」
「・・・」
「しかし・・・」
すると兄上は、懐から藤色の匂い袋を取り出した。
そして私の顔をじっと見つめ、力強く言った。
「〚後悔〛はない」
そう言うと、兄上は右の手の中にある藤色の匂い袋に目を移した。
そして、其の匂い袋を力強く握り締めながら言った。
「 私は、〚後悔〛していない。
私は、決して〚後悔〛していない。
ゆき 」
兄上が強く握った匂い袋から、伽羅の甘く苦い香りが微かに香った。




