第六章 もう死ぬ君と
僕たちは何度も身体を重ねて、何度でも生を味わった。
何度でも言葉を交わした。来世があればどうしたいか、などといった、益体もない話もした。
その間、時間は無常に去ってゆく。
気がつけば、自殺予定日の3日前になっていた。
「この3週間くらい、楽しかったわ。ありがとうね、海くん」
彩世がふわりと笑う。
彩世の住んでいる街をぶらぶらと散策して、その帰りだった。空にはいまにも沈みそうな夕焼けが見える。
「ああ、僕も。すごく楽しかった。10年分くらいの幸せを味わったみたいだ」
「そう? とはいえ、私も似たようなものだけれど」
彩世が僕の手に指を絡める。
「ねぇ、もし私たちの子供ができていたら、どうする?」
「これほどないまでに愛を捧げるだろうな」
彩世の言葉に一瞬は驚いたものの、僕は平静に答えた。何度も身体を重ねたので、自分でも考えたことがあったのだ。
「……死ぬのを、やめたくならない?」
彩世がこちらを窺う。内容からか、それとも彩世の感情からか、重要な質問のように思える。
僕は己の心のままに答えた。
「やめたくならないな」
もう死ぬという覚悟が固まりすぎて、僕のなかでは確定事項と化していたのだ。
それに、子供の幸せには『親に愛されていること』も間違いなく含まれていることだろう。
つまり、親に愛されていれば子供は少なからず幸せになるということだ。
これならば、不幸なだけの子供が誕生することはない。
「そう。そう、ね。私も、やめたくならないわ。第一、私は癌で死んでしまうもの。最後は苦しみながら、ね」
彩世は自分に言い聞かせるように言った。
今でも長距離歩ける程度には元気なようだが、きっと進行が予定より遅いだけなのだろう。いつかは先ほど彩世が言った通り、苦しみながら息絶えることになる。
ならば、彩世が望む通り自ら幸せに、命を絶ったほうがよい。
「ねぇ、海くんは、何かやり残したことはないの? いつも、私が未練を叶えてばかりじゃない」
彩世がこちらに目をやる。
そう言われて僕は自分の人生と願望を振り返るが、特に未練らしきものは見つからなかった。
「ないな。彩世と過ごせて、一緒に死ねるならそれいい」
「嬉しいこと言ってくれるわね」
彩世が儚く笑う。
ふと、仲のよさそうな三人家族が通りかかった。母親と父親、それに3歳くらいの子ども。
幸せを撒き散らしているようなその光景に、僕は泣きそうになった。
あれが、僕の未練だと感じたからだ。
もう一度、家族で仲良く食卓を囲んだり、他愛もない話をしたり。そういったことがやりたいのだ。
「なあ、彩世。僕と家族になってくれないか」
「どうしたのよ、いきなり」
唐突に零れた僕の言葉に、彩世は意味を問うた。
「いや、さっき未練を思い出してな。家族と仲良くしたいっていうやつ。だが、たぶんこれは今の家族だと叶わない。だから、彩世が家族になってくれれば解決するかなと」
「それでいいなら、家族だってなんだってなるわよ」
彩世が僕にもたれかかる。
病人とは思えないほどの甘い匂いが鼻孔をつつく。
新しい家族とともに、新たな世界へと旅立てる。この希望がどれだけ僕の心にいい影響を与えたか、彩世は分かっているのだろうか。
「そろそろ暗くなるわ。その前に帰りましょう」
彩世が僕の手を引っ張った。
◆
「歴代黒い手帳よ、さらば」
15冊ある、自殺計画を色々書いた手帳を紙袋に入れて捨てた。
死ぬ3日前の夜となったし、プチ遺品整理でもしようと思った結果だ。こんなものがあとから見つかったら、異常者だと思われる。
あとは教科書や筆記用具、図書館で借りた本などしかないので、もういいだろう。
遺品整理はものの2秒で済んでしまった。
仕方がないから自殺のシミュレーションでもしておくかと目を瞑ったそのときだった。
「海、ちょっといいかしら?」
自室に母さんがやってきた。
まあやることもないしな、と思い僕は「何?」と答える。
母さんの言葉は、僕の予想外のことだった。
「お母さん、ちょっと考えた結果、海は入院したほうがいいと思うの」
悲痛な表情で言う母さんに、僕は口を開いた。
「ちょっと待てよ。どうしてだよ、急に」
「ごめんね、びっくりするよね。……最近、お父さんが海に暴力することも増えたじゃない? だから、脳を見てもらう以外にも、お父さんから逃げたほうがいいと思うの。それに最近学校に行ってないし、これを機に通信制に変えてもいいんじゃないかなって。それだったらどこでも授業を受けれるし。……どうかしら?」
突然のことで、僕は激しく動転していた。
いつもならば受け入れるかもしれないが、僕には大切な約束がある。
入院がいつまでになるか分からないが、彩世が生きている間に出られるという保証はない。
真剣な表情をして僕と対峙する母親を見ながら、僕はどうするべきかを考える。
それでもいい成果は得られなかったので、思いのままを言うことにした。
「入院なんかいらないよ」
「で、でも、海。このままだったら危ないわよ」
「もう3日もしたら危なくなくなる。僕より、母さんが早く逃げてくれよ」
このままでは強制的に病院に連れて行かれることになりかねないので、少々きつい言いかたになってしまった。
それと同時に、秘匿していた情報の一部さえ吐いてしまう。
慌てて口を噤んだものの、もう遅い。母さんは僕に詰め寄った。
「もう3日もしたら危なくなくなる、ってどういうこと?」
「どうもしないから。あと3日も休めば留年確定して転校しやすくなるだろ、ってことだ」
嘘だ。学校に対していい感情を持ったこともないが、悪感情を持ったこともあまりない。少なくとも、転校を考えるほどではない。
「どうしたの? 学校でなにかあったの?」
「なにもない」
「なにもないことないわよね? お母さんに聞かせてくれないの?」
「もういいから。放っておいてくれよ!」
詰め寄る母さんを突き飛ばした。
その身体は思ったよりも軽く、机の柱に母さんの頭がぶつかる。ガン、と激しい音が部屋に響き渡った。
そこで僕は、自分のしたことの重さを知る。
「ち、違うんだ。そんなつもりじゃ……」
そんなつもりじゃないのに、傷つけてしまう。
なぜ、僕はいつもこうなのだろうか。自分に優しくしてくれた人を、傷つけてしまう。
涙が溢れてくる。一番泣きたいのは母さんなはずなのに、母さんは起き上がって僕の頭を撫でた。
「ううん、ごめん。母さんも、ちょっと強引すぎたから。謝らなくていいのよ」
「……ッ」
優しさに息が詰まる。どうして、僕を殴ってくれないのだろう。殴られるべき罪を犯したというのに。
とめどなく涙が零れ落ちた。母さんはそのたびに、優しい言葉をかけてくれる。
もう、僕に生きる資格なんてなかった。
自室に行き、ついぞ一般的な使いかたをすることなくその役目を終えるであろうカミソリを手に取る。
刃の先、角の部分を左腕に当てて、すっとなぞる。
細胞が己の細胞によって切られ、中から血が溢れ出し、血の筋を作ってゆく。
こうしている間だけ僕は存在価値を見出しているのだ。何回も、何回も。
左腕を改めて見る。初めてやったのは確か中学3年生のときだ。だというのに、傷はひとつも消えていないように思える。
結局逃避の歴史も一度紡いでしまったら消えることはないのだ。ミスをして、何度謝れど後悔しようと消えることはない。
血が流れている。鮮明な赤は僕のものだ。
僕のものとは思えないほど綺麗だった。この血だけが唯一僕の持っている美しいものだったのだ。
涙が零れる。僕の涙は零れている。
そんなことすら認識するのに時間がかかってしまう。
もう僕はダメなのかもしれない。いや、もともとダメだったのがここに来て露呈し始めているのだ。
灰になって消えてしまいたかった。もう死ぬという過程を踏む気力すら失いつつあったのだ。
それでも彩世は僕と一緒に死んでくれると言う。
それだけが僕の希望だった。――でも、身体は動かない。
血は止まることを知らず、もう床に零れそうだった。
手当てする気力もなく、僕はもう寝てしまおうかと思っていた。
カミソリを心臓に突き立てて、めちゃくちゃにしてしまう勇気があったらよかったのに。
ふとそんなことを考える廃人と化していた。