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第五章 もうじき死ぬ僕と君

 あと2週間、あと2週間の命なのだ。

 飲み過ぎか、玄関で倒れた親父をいつものように布団へ運んで僕は余命を反芻する。

 そうだ。あと2週間もすれば僕は彩世とともに死ぬ。


 来世があるかは分からないが、一緒に生きることと一緒に死ぬことのどちらが難しいかと言われれば間違いなく後者になる。僕は彩世と一緒に生きるよりも価値のあることを2週間後には実戦できるのだ。


 そう考えると、親父のことなどどうでもよくなってくる。

 唯一心残りなのは母さんのことだが、母さんは比較すればまだ若い。僕が死ぬことによって親父から解き放たれて、不幸になった分幸せになってほしい。

 僕は初めて希望を抱きながら床に就いた。


 悪夢は訪れなかった。


   ◆


「遺書って、意外と書くことがないものね。病気のことを書いたら、もうほとんど書くことがなくなったわ」

「そうだな……。僕の場合はほとんど不満らしき不満もないから、母さんへの感謝を書いたらもう書くことがなくなった」


 2週間後に死ぬと決めたら気楽なもので、僕は何の心配もなく学校を欠席しまくっていた。もちろん、彩世も同じである。

 ふたりして遺書を書くという奇妙なことをしているのだが、その奇妙な時間も楽しかった。

 本当に、彩世に会えてよかった。これだけが、僕の心を満たしている。


「ま、いいでしょう。どうせ遺書書いても一言一句覚えやしないでしょうし」

「そんなものなのか?」


 彩世がボールペンを置いて伸びをした。

 僕は彼女の言葉を追及するかのように、自分と当てはめてその真偽を確かめる。

 まず親父は論外として、母さんはどうだろうか。何となく、覚えてくれそうな気がする。


 ――いや、やっぱりずっと覚えていることはないだろうな。


 僕は所詮出来損ないの死刑囚なのだ。その先に続く幸せの階段になれたならば、どれだけいいことだろうか。

 うん、そうなれば幸せに続く階段を作る方針にしよう。とにかく母さんが前向きに将来を見られるようにするのだ。


「お、ペンが進んでいるわね。じゃあ、それが終わったら一旦お茶にしましょうか」

「マジか、ありがとう」


 この前来たときに頂いたお茶と菓子が美味しかったので、思わず嬉しさ溢れる声音が零れる。

 餌をもらった犬のごとき反応に、彩世は苦笑したものの『もう取ってくるわね』と寛容極まれる対応をしてくださった。優しい。

 書き終わったころ、彩世がお菓子とお茶を用意してスタンバイしてくれていた。


 ひとこと感謝を告げ、お菓子を摘まむ。この際遠慮はいらない。人間、いつ死ぬか分かったら色々気にしなくなるものである。


「……ねぇ、お菓子とお茶の代金といってはなんだけれど、私の話を聞いてくれないかしら?」


 大量にあり、普通に食べても大丈夫な量だったが貧乏根性でちびちびとクッキーやマドレーヌを食べていると、彩世がそう言った。

 無論、僕はその誘いに乗る。すると、彩世の薄桜の唇が動き始めた。


「実は私、あまり親に構ってもらえなかったのよね。もうじき死ぬし、あなただから言うのだけれど」


 あなただから、という部分に惹かれる。

 頷くと、彩世はさらに言葉を続けた。


「癌が発覚したころから、お母さんが遅くまでやっていた仕事を辞めて、いつも家にいてくれるようになったのだけれど。……でも、お父さんは単身赴任していて、私と顔も合わせてはくれない。癌が発覚しなかったら、私はひとりぼっちのまま、一人暮らしを始めていたと思うわ。お金のかかる私立じゃなくて、公立に進めば金銭的な余裕ができて、残業を減らしてもらえるかと思ったけれど、無駄だった」


 なるほど、どうしてこんな金持ちが公立に進んだのか疑問だったがそういうことなのか。

 納得すると同時に、彩世には共感の念も抱いていた。幼いころは違ったが、親父が飲んだくれのクズと化してから、母さんは残業続きでひとりぼっちだったのだ。


「だから、海くんの存在がすごく嬉しいの。最初は自分の願望を満たすためだったけれど、とことん付き合ってくれて、本当に好きになった。愛しているわ」


 そう言い、彩世が僕に微笑む。頬は桃のように染まっており、手が吸い寄せられた。


「んっ……。くすぐったいけれど、悪くはないわね」

 はにかむ彩世に、僕はキスをした。

 一瞬だけだったが、それだけでも僕には、僕たちには何十分にも感じられる濃密な時間だった。

 彩世の柔らかさの記憶だけが、その時間の証明だった。


「僕もだ。愛してる、彩世」

 彩世は満足そうに笑う。そして、いたずらっ子のように人差し指を立てて、僕を誘惑した。


「ねぇ、死ぬ前に私と大人の階段を登るつもりはない?」

「えっ」


 確かに、恋人が自室の部屋に入ったらそういったパーティーが始まる、という都市伝説は聞いたことがある。

 しかし、僕たちの場合はかなり事情が異なるのだ。癌患者が激しい運動をしてもいいものだろうか?


 疑問はあったが、僕たちの残りはあと2週間なのだ。つべこべ言っている暇もない。後のことは気にしなくてもいいのだ。


「なら……登るか」

「ムードの欠片もないわね」

 覚悟を決めて言うと、彩世は苦笑しながらベッドの上へ僕を誘った。


   ◆


 今日のところはお開きにし、僕は自宅へと向かっていた。

 彩世との時間を思い出すと、心の奥が震えるような感覚が蘇る。


 あのときほど、自分が生きていると実感できたときはなかった。彩世と出会わなかった世界線の、自分の寿命がいかほどあったかは分からないが、その時間を犠牲にしただけの価値はあったことだろう。


 それだけの時間を過ごしても、僕の『心中する』という決断は変わらなかった。

 むしろ、もっと死にたくなっている。

 絶望しているわけではない。逆に、僕の心は希望に満ち溢れている。


 僕の人生には不釣り合いな幸福が訪れたから、もう死んでもいい。死ななければならない。そんな気持ちだった。

 家に着き、まだ続く高揚感から鼻歌を歌いながら鍵を開ける。


 すると、扉の前には親父が立っていた。最近は飲み潰れて、家に帰るとすぐに寝ていたから大した脅威はなかったのに。いったい、どのようなことをされるのだろうか。

 考えていた最中、額に大きな痛みが迸る。


 壁に勢いよく頭を押し付けられたのだ。額からは血が出ている。

 脳が回るような感覚、吐き気、立ちくらみと戦いながら僕は親父と対峙する。


「どうして、お前は僕を殴るんだ」


 いつもなら思うだけで抵抗しようなど思わないのに、自殺計画と彼女との時間で精神が強化された僕は、言葉でだが反抗した。


「お前が死ぬべき存在なのに、不相応な幸福を手に入れたからだ」

「……ッ!?」


 親父は、僕に彼女がいるなんてことは知らないはずなのに。

 ぐっと、心臓を掴まれるような感覚。

 思い当たることといえばひとつしかない。やはり、親父はあの日水族館に来ていたのだ。ワークショップだけなら無料で入れる。


 なぜ、なぜ親父は水族館に来ようとしたのか。

 きっと妙な動きをしている僕を不審がって、あとをつけたのだろう。

彩世はきっと幻覚を見ていたのだ。余命1カ月足らずと言われたら、どのような人でも精神を病む可能性がある。理想を映す幻覚を見ていたに違いない。


「なあ、どうしてお前は死なないんだ? どれだけの人を傷つければいいんだ?」

「言われなくても、僕は死ぬよ。2週間後に自殺をするんだ。朗報だな」


 親父は僕を責める言葉をなおも吐き続ける。

 威圧的な物言いにも、僕は屈しなかった。にやりと笑ってやった。

 後頭部に痛みが走る。


 今度は突き飛ばされ、扉に後頭部をぶつけたのだ。先ほどの衝撃も癒えてなく、頭が割れるような痛みがまとわりついていた。耳鳴りがする。


「今死ね」


 親父の声が頭上から降ってくる。立とうと思っても、視界の砂嵐が一向に止まず立てないのだ。

「お前はまた犠牲者を出すのか。そんな価値もないのに」

 また言葉が降ってくる。ガンガンと響く声だ。


「犠牲者なんかじゃない。僕は、僕たちは、選んだんだ」

 舌がもつれそうになる。

 それでも僕は言う。それが、僕の覚悟だったから。


「違う。お前に選択肢はない。ひとりでむごたらしく死ね」


 再び後頭部に衝撃が走り、僕は気を失った。


   ◆


「よかった、目を覚ましたのね」

 気がつくと、僕は布団に横たわっていた。母さんの悲しそうな顔が、僕を覗き込んでいる。


「どうして、そんなに傷だらけだったの?」


 母さんの心配そうな声が僕を撫でる。

 それに僕はため息を吐きつつ答えた。


「分かるだろ。……親父だよ。最近酔い潰れて返ってきたかと思っていたら、急に暴力だよ」


 母さんは僕の言葉を聞いて、涙を流した。そんなに悲しいなら、離婚すればいいのになぜしないのだろう。


「ごめんね、海」

「どうして母さんが謝るんだよ。母さんは何も悪くないだろ?」


 母さんの涙を指で拭う。まだ温かかった。

 母さんを残して死ぬことに対して、また罪悪感が湧いてくる。それでも僕は死ななければいけない――そうだ。


「母さんは僕と親父のことを置いて、幸せになってくれよ」

「そんなことできないわ。海のことが大事だもの、そんなこと言わないで」


 母さんが僕の手を取る。優しい声だ。どうして僕の親になって、親父の配偶者になってしまったのだろう。

 母さんの不遇さに、僕まで泣いてしまいそうだ。


「いいんだ。それが、僕の願いだから。幸せになってほしい」

 僕もまた言う。何度でも言わないと、優しい母さんは僕の死に囚われたままになってしまうからだ。


「ありがとう。……だけど、やっぱり聞けない」

 僕はその言葉に落胆する。それと同時に、母さんが「ねぇ、海」と口を開いた。

「ちゃんと、お薬飲んでる?」

「ああ、今日は飲み忘れてた」


 彩世の家に行ったときに、置き忘れてしまったのだ。

 2週間生きていないと彩世とともに死ぬことすらできないので、少し不安だったが何もなかったようで何よりである。


「ちゃんと飲んでね。……さ、晩ごはんにしましょうか。これから海の好きなもの、何でも買ってきてあげる。あんまり高いのはダメだけどね!」

「じゃあ、カレーかな」

「カレーね。分かった。ちょっと待つけど、寝ていたらすぐできるはずよ。ちゃんと寝ててね」


 僕はその言葉に従って眠る。

 ひたすら死ねと言われる夢を見たものの、母さんの包み込むような言葉遣いに荒んだ心は癒された。

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