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第二章 まだ死ねない僕

 さて、無事明日の予定が埋まったことだ、勉強するか。

 先ほどよりもモチベーションが上がったことに内心苦笑しながら、僕は鞄から筆記用具などを取り出す。

 明日はサボるけど英語の課題でもやるか、と取り掛かろうとすると。


「あれ……?」


 いつもなら英語の文は文として頭に入ってくるのに、今日は違う。

 文どころか、単語の文字ひとつひとつがバラバラになるような感覚。分かる単語もかなりあるはずなのに、纏まらなくて答えが見つけられない。


 怖くなって、咄嗟に問題集を閉じる。明日提出だったがまあいい。他のものをやろう。

 そう思い、数学の課題を取り出す。これはいけるだろうと思ったが、これも数字と数字が分離し、図形の情報が頭に入ってこない。


 気味の悪さを感じて、課題を閉じる。今日は課題を後回しにしてもいいだろう。いざとなったら、そのまま未提出で乗り切るまでだ。

 なぜかどっと疲れを感じる。身体も重いし、しばらく休むか。今は風呂に入る気分にもなれない。

 ベッドに寝転がり、何となくスマホを確認する。月末に通信制限をかけられるのは嫌なので、そのままだらだらいじるということはないが。


「母さんから……?」

 彩世とはメッセージのやり取りを終えたばかりなので、どうせ何もないと思っていたが違った。

 母さんからメッセージが送られてきていたのだ。

 もしかしたら早く帰ってきてくれて、久しぶりに、幸せに話せるかと思ってアプリを開く。


『そうなんだ。でもごめんね、お母さん今日も残業があって。本当にごめんね。晩御飯は用意してないから、コンビニで買ってね』

 しかし、その期待は無残にも打ち砕かれる。

 申し訳なさそうな母さんの顔が頭に浮かんだ。


 今思い返せば、晴れやかな母さんの顔など、もう何年も見ていないような気がする。

 僕は、いつになればまともな家庭で暮らせるときが来るのだろうか。

 ふと、問いが頭をよぎる。誰も答えてくれない答えに向き合う気力もなかったので、僕はそのまま目を閉じた。


   ◆


 気がついたら、僕は桜の舞う場所に立っていた。

 記憶を必死に探り出すと、どうやらそこは小学校の校庭らしいと気がつく。


「海くん、今日から小学生だね。楽しみだねぇ」

 ニコニコと笑いを向けるのは、間違いなく母さんだった。

 そうか、僕は今、小学校の入学式が終わった直後だったんだ。


「海、ランドセル似合ってるぞ」

「えへへ、ありがとう、父さん」

 父さんが僕の頭を優しく撫でる。その感覚が、妙に気持ちよかった。


「さあ、そろそろ帰りましょう。昼ご飯は何が食べたい?」

「母さんの料理かな」

「母さんの料理は美味しいからなー」


 3人仲良く談笑する。

 その光景は『幸せな家族』と呼ぶにふさわしく――僕が体験した記憶だった。

 自覚した瞬間、桜の花びらも、楽しげに笑う両親も崩れ去り、あたりは黒一面に染まる。


 そして現れたのは、ぐびぐびと酒を飲む父さんと、泣きそうな顔をしている母さん。

 2人と僕との距離は遠く、何を話しているかは分からない。

 しかし、母さんが理不尽に父さんに殴られ、ひたすら謝っていることだけは分かった。


 そうだ。これが僕の現実なんだ。


 2人の行動を客観視できているからか、僕の精神は嫌に冷静だった。

「本当に?」

 後ろから声が聞こえる。

 振り返るとそこには彩世がいて、何かを見据えている目をしていた。僕を見ているようで、もっと先にあるものを見ているような目だ。

 もう一度振り返ってみると、母さんと父さんは消えていた。


「あなたが見えている記憶は、情報は、感情は、本当に正しいの?」

 彩世が桃色の唇を動かして、哲学的なことを言い放つ。

「正しいか正しくないかは分からないが……。だからこそ、信じるしかないだろ」


 冷や汗をかきつつ、無知丸出しの返答をする。

 そんな僕を愚かだと思ったのか、彩世はその目を極めて冷ややかなものにさせた。

「そうやって、いつも逃げてばかりなのね。それでもいいわ。私の代わりに死んでちょうだい」

 するとどこから取り出したのか、彩世はビール瓶を僕に振りかざす。

 そのビール瓶は、親父が好んで飲むもので――。


   ◆


「……っ」

 そこで目が覚めて、起きる。

 頭が重い。母さんが僕を心配そうな顔で覗き込んでいるが、気のせいだろうか。


「だ、大丈夫? 制服のまま寝て、ご飯も食べてないみたいだったから心配になって……」

「ああ……。ちょっと調子が悪くて」


 どうやら幻覚ではなかったみたいだ。

 悪夢を見ていたせいで、まだ調子は悪いが、どのような夢を見たのか忘れてしまった。


「とりあえず、ちょっとでも食べてね」

「分かったよ」


 忙しいなか、母さんが作ってくれた料理だ。いくら調子が悪いとはいえ、一口も食べずに捨てるのはもったいないことだ。

 家計の関係で狭い家に住んでいるため、寝ている父さんの姿が見えてしまうが文句は言えない。

 母さんが用意してくれた料理をちびちびと摘まんでいると、今の時間が深夜2時だということに気がついた。


「もう2時なのか……。母さん、もう少し残業減らせないのか? これだったら、心身のどちらかを病んでしまうぞ」

「いいの、心配しないで。誰も悪くないんだから……」


 母さんは伏し目がちに、いつも言っていることを今日も繰り返す。

 こうなっているのは親父のせいだというのに、母さんは一向にそれを認めようとはしない。

 僕に何かできることはないのかと思考を巡らせていると、母さんが優しい言葉でそれを遮った。


「それに、母さんはやりたくてやっているのよ。海も大学に行ったほうがいいと思うし」

「僕は別にいいよ。行くとしても奨学金で行くから」

「海に無理をさせるわけにはいかないわ、母親だもの。海が生きていてくれたら、母さんはそれで幸せなの」


 母さんはにっこりと笑うが、その顔には疲労の色が浮かんでいた。どうしても、休みが足りていないのだろう。


「そうよ。生きてくれればいいの……」


 今にも泣き出しそうな声で呟くのは、親父の罵声と暴力のせいか。それとも、もっと別の理由なのか。

 母さんの言葉に、僕は自分の自殺計画手帳を思い出す。


 そこには綿密な自殺計画が書かれてある。理由は、どうしても死ななければいけないと生きていてはいけない存在だと思ったからだ。

 だけど、僕の目の前には僕が生きていることに対して幸せだと言う存在がいる。

 ならばなぜ、僕は死ななくてはいけない存在だと思っているのだろうか。


 僕が僕でなくなるような感覚を覚える。難しいことを考えるな、という天のお告げだということにしておこう。

 母さんの作り置き料理を、また口に運ぶ。

 お通夜のような雰囲気を少しでも緩くさせるため、美味しいよ、と呟いた。

 嬉しそうに微笑んだ母さんを見て、僕は一気に料理を掻き込む。

 パッとシャワーを浴び、眠りにつこうと思ったが、眠気はやってきても一向に眠れなかった。


   ◆


 彩世は今日欠席するらしかったが、僕は特に欠席する理由もないので真面目に出席していた。それが当たり前ではあるけれども。


 昨日、というか今日はあまりよく眠れなかったので授業の大半を睡眠に費やしたが、持ち前の影の薄さで何とか耐えた。複雑だった。

 昼休みになり眠気もマシになったので、金はないが無料のお茶でも飲みに行こうと席を立ち、食堂へ急ぐ。


 ああ今日はやることがないな、とりあえず自殺計画でも埋めるか。

 そんな益体もないことを考えていると、階段のほうから怒鳴り声が聞こえてきた。

 気になって少し覗いてみると、そこにはバッジの色からして2年生の先輩が4人ほどいた。


 しかし、その4人が対等な関係であるとはどうしても見えない。

 そのうちの気弱そうな男子生徒は頭から水を被っていた。

 もう季節は秋と呼べるものになっており、徐々に寒い日も増えつつある。今日がその寒い日である。

 そんな日にこの先輩は水を被ったのか、はたまた被せられたのか。答えは明白だった。


「お前さ、どうして俺の課題やっといてくれなかったわけ? 水被ったくらいで済むと思ってんの?」


 ご丁寧に金髪にしている先輩が水を被った先輩の足をぐりぐりと踏む。踏み潰している、といったほうが近いのかもしれない。

 もう離れたほうがいいのは分かっている。

 しかしなぜかどうしてもこの光景の続きを見たかったのだ。


「ごめんなさい、でも、この前筆跡でバレかけて――」

「どうして俺の筆跡のマネもできねぇんだよ!」

 ゴンッ! 金髪が彼の頬を殴った。


 理不尽だ。筆跡は真似ようと思ってもボロが出ることも多い。課題を引き受けたことは教師にバレることだろう。

 そう、もう課題を引き受けていることは教師にバレているはずなのだ。バレかけたというのはあくまで表面的な納得だろう。

 担任はあの先輩を見捨てたのだ。恐らく、面倒ごとに巻き込まれたくないため。

 あまり治安がいいとはいえない地域の公立高校なんてこの程度なのかもしれない。


「じゃあ金出せよ」

「む、無理だよ。僕の家庭、母子家庭だし、高校に行くのもやっとなんだ」

「そんなの知らねぇよ! 裏バイトでもすりゃいいだろ!?」

 蹴る。かはっ、と乾いた咳が零れた。


「じゃあな。明日までに1万用意しとけ。それが課題の代わりだ」

「……」


 金髪の先輩とその取り巻きらしき人は食堂のほうへ歩いてゆくが、虐められている先輩は死んだ目をして呆然と突っ立っていた。

 すれ違いざま、金髪と目が合う。


 ちらりと僕のほうを汚物でも見るかのような目を向けたが、何も言わず去ってゆく。僕の雰囲気からして言いふらしたり、密告したりすることはないと判断したのか。

 それとも、言ったところで変わらないと思ったのか。


 それは分からないが、僕の心は晴れやかなものになっていた。

 人がいじめられているのを見て興奮を覚えたわけではない。少し生まれが、環境が、時間が違えばいじめられる存在であることに気づいていない金髪の態度が面白かったのだ。

 教師も、金髪も一歩間違えれば僕やあのいじめられている先輩になっていたというのに。

 笑い声が漏れる。

 もうお茶なんてどうでもよくなってきた。

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