第八章 まだ死ねなかった僕・後編
「ぴ、ピンク色のゴキブリがうじゃうじゃと……!」
「それは大変ですね。今すぐ看護師さんを呼びます」
1週間経ち、僕は集団部屋に移された。4人部屋である。
そこにはかなりえげつない幻覚を見ている人や、虚無に浸っている人、問題なさそうに見える人がいた。
「ちょっと部屋移りましょうかー。あ、守真さん、そろそろ先生とのカウンセリングが」
「そうですね、向かいます」
看護師さんと軽く会話して、僕はカウンセリングルームへと向かった。
「何か変わったことはありますか?」
佐藤さんが問う。僕は少し考えてから言葉を返した。
「なんか、何が現実なのかよく分からなくなってきました」
同じ部屋の住人は、現実にはいないピンク色のゴキブリが見えている。
しかし、本当はそこにゴキブリがいて、僕には見えていないという幻覚を見ている可能性もあるのだ。
「そうですか……。では、少し過去を整理してみましょうか。現在から思い出せる限りの過去まででいいです」
佐藤さんは一瞬だけ何か考える素振りを見せると、僕にそう言った。
もう何度かしているが、親父が浮浪者となったあたりの記憶が曖昧なので難しい。
「まず、今入院していて。彩世を殺して。彩世と水族館に行って、親父が乱入して。……いや、本当に親父は乱入していたのか? 彩世の反応がおかしかったような」
僕が最近の記憶に疑問を覚えるも、佐藤さんは次を話せと促すこともなくうなずきながら話を聞いてくれる。
とりあえずこれは保留するとして、話を続けた。
「彩世と出会って。2年に進級して。高校に進学して、中学ではなぜか白い目で見られて。小学校ではなぜかいじめられましたね。小学校低学年の記憶はほとんどありません。小学校に入るか入らないかくらいに親父が豹変して、暴力を振るうようになって。親父が……棺に入った親父?」
靄がかかった部分を思い出そうとすると、ふっと損傷の激しい親父の遺体が棺に入ったものが出てきた。一枚の画像といっても過言ではない断片的な記憶。
「どうして、親父は死んだ? ……僕が、殺した?」
母さんの言葉が頭のなかに蘇る。
そうだ、誕生日プレゼントに彩世と見たあのペンギンのぬいぐるみを欲しがったのだ。
母さんの言葉通り、その帰り道で飲酒運転の車にはねられた。
あたりは血まみれで、車のなかには僕の幻覚で見た酒瓶が数本転がっていたのを覚えている。それを見た僕は忘れようとして自分で自分の頭を殴ったのだ。
さらに数時間ほど経ち、ぐちゃぐちゃになった父さんの棺を見た僕は、自分が殺したから死刑になるべきと考えたのだ。
なのに、それのおかげで僕は罪のない人を殺してしまった。ふたりもだ。
それに加えて、僕は車のボンネットに落ちて助かるという始末。何の損傷もないままで。
首を掻きむしる。変な菌に感染して、生きながら苦しめばいいと思ってのことだったが、佐藤さんが全力で止めたのでそれは叶わなかった。
「思い出した当初は辛いと思います。しかし、必ず克服できます」
「克服しなくてもいいですよ。僕は生きながら苦しむべきなのです。僕が殺した3人の命を噛みしめながら」
ぐっと、自分の爪を手のひらに押し付ける。
痛いけれども、僕に殺された最愛の3人は、このような痛みでは到底償いきれないものだ。
「3人、ですか?」
佐藤さんが問う。
そういえば、この人にはいたかもしれない子供のことを言っていなかった。
「あ、はい。できていたかもしれないので……」
「そうですか……」
佐藤さんが悲痛な表情を浮かべる。
「そのお子さんも、守真さんが死んだり、傷ついたりするのは望んでいないと思います。なるべく早く退院できるようサポートしますから、頑張っていきましょう」
「分かり、ました」
僕はカウンセリングルームから退室した。
その晩、僕はまた悪夢を見た。父さんと彩世、それに未来と思しき幼い少女にひたすら罵られ、殴り蹴られる夢だ。
なぜ生きているのか、と何度も聞かれた。
なぜ殺したのか、と何度も聞かれた。
殺したくて殺したわけではない。そう言おうと思っても、僕によって殺されたのは紛れもない事実なのだ。言い訳にしかならない。
それに、僕は一緒に死ぬという彩世との約束を破った。最高の死になるはずが、最低の死になってしまった。
吐き気がする。もっと気持ち悪くしてほしいと思った。
もっと僕を痛めつけてくれたならば、僕の罪も軽くなるのではなかろうか。
それとも、罪の軽減を望むことがもう罪なのだろうか。
いずれにしても、僕は罪人に違いない。僕はひたすら父さんと彩世と未来のことを思い、謝罪を捧げ続けることしかできなかった。
そうして1カ月が経過し、特に問題行動を起こさなかった僕は退院することができた。
とはいえ、頻繁に通院する必要はあるのだが。
「久しぶりの家ね。ゆっくり休みなさい」
母さんが優しく僕に言う。
高校は通信制高校にしたので、本当にゆっくりできることだろう。
血の痕が残る扉を開けると、いつも通りの我が家の空気が僕の肺を満たす。
リビングには、ぼろぼろになったペンギンのぬいぐるみが置かれてあった。
「海、あなたはこのぬいぐるみを父さんだと思って生活していたのよ」
「そう、なのか」
薄々感じていた事実を告げられ、一滴の涙を零す。
これまでの罪を認めるように、僕はぬいぐるみを抱いた。ぬいぐるみはところどころ茶色になっており、僕の幻覚の深刻さを物語っている。
「もう、いいのよ。楽になって。母さんも――」
「母さんも、何だ?」
「ううん。何でもないわ」
母さんが悲しげな声を出して、僕に問いかけた。
「それより、なにかしたいことはない?」
「そうだな……。父さんの、墓参りに行きたい」
これまで僕は父さんの死から逃げてばかりだった。父さんが亡くなってから、そろそろ10年が経つ。
しかし、一度たりとも父さんの墓参りには行ったことがない。罪を償う気があるのならば、必ずやらなければならないだろう。
母さんは、そう言った僕に笑いかけた。
「今日はもう遅いから、明日にしましょう」
「確かにそうだな」
病院から家まで歩いて来たので、今から墓参りに行くには遅い時間だ。
「なにか食べたいものはない?」
「じゃあ、母さんの手作り料理が食べたいかな」
「分かったわ。腕によりをかけて作るからね」
母さんは笑う。
その日は、母さんと一緒に葡萄ジュースと肉料理を囲んだ。
「ただいま、海、母さん」
「お父さんじゃない、おかえり」
「父さん、なのか?」
そのとき、スーツを着た父さんが部屋に入り、僕の隣に腰を下ろした。
「何を言っているんだ、海。父さんが帰ってこないわけないじゃないか」
「そ、そうだよな!」
そうか。僕は長い夢を見ていたのだ。父さんが僕のせいで死ぬことなんてなかったのだ。
「海くん」
彩世が現れる。
そうだ。彩世を母さんと父さんに紹介しようと連れて来ていたのだ。
「母さん、父さん。僕、彼女ができたんだ」
僕は笑う。
ずっと、笑い続けた。