第七章 もう死ぬ僕と・後編
屋上の扉に体当たりすると、難なく扉は開いた。
爽やかな空気が僕たちを包む。まるで、僕たちの門出をお祝いしてくれるかのようだった。
屋上へ足を踏み入れる。
綺麗な夕日が、僕たちの視界を照らした。
グラウンドからは、誰だか分からない大量の声がぼんやりと聞こえてくる。
「本当に綺麗ね。私には似合わないくらいの死に場所よ」
「この世で彩世が一番綺麗なのに、何言ってんだ」
「お世辞も大概にしなさいよ。嬉しいけれど」
彩世の握る力が一段階強くなった。もうじき、死ぬ時間が訪れるからだ。
奥にあるフェンスを乗り越えて、一歩だけ踏み出したら死へ一直線。
人の命は、生み出すより消すほうが遥かに簡単だと、そのとき初めて理解した。
「もっと、他の選択肢があったのかしら」
彩世がぽつりと呟く。小さな声だったが、僕の耳には鮮明に入ってきた。
「そうだと思う。だけど、どうしようもないこともあったんじゃないか? 例えば、僕の家庭環境が変わったのは僕にはどうしようもないことだった。彩世も、自分の癌の発生を未然に防ぐのは不可能に近かっただろ」
「そうね。……結局、私は死ぬ運命にあったのかしら」
悲しそうな声。僕はその悲しさを払拭させなければならないのだろうが、いい方法が見つからなかった。
とにかく、僕の言葉を紡いだ。
「人はいずれ死ぬ運命にあるだろ。何もなくとも、いずれ彩世は死んでいたし、僕も死ねないままで生きて、やがて死んでいた。だったら僕は彩世と一緒に、可能な限り幸福な方法で死にたい。これが一番、僕にとって幸せなんだ」
「……そうね。だったら私は『愛する人の幸せが自分の幸せ』なんて綺麗ごとに縋ってみようかしら。それが一番、私にとっては幸せだもの」
彩世が不意に抱き着いてきた。
柔らかい感触。いつかの日を思い出す。
「大好き。愛しているわ。本当なら、何十年先も一緒にいたかった」
彩世の双眸からは涙が零れていた。なにが幸せか、分かっていても苦しいのだろう。
僕は彼女の身体に腕を回した。彩世が抱いている感情をもっと知りたかったからだ。
実際は、苦しいだけだった。
なぜ、僕はまだ生きている彼女を僕と一緒に殺さなければならないのか。
「ならせめて、あなたと一緒に殺して。私を、私の悲しみを殺して」
涙と一緒に溢れ出たのは、本音か。
もう二度と着ることのない学ランを、彼女の涙が濡らしてゆく。
「大丈夫。僕が確実に殺してあげるから。――彩世の悲しみも、苦しみも。僕自身だって一緒に」
力強く僕が言うと、彩世はゆっくりと離れた。
「これではメンヘラもいいところよね」
申し訳なさそうに彼女が言うので、僕は首を横に振って否定する。
「メンヘラなんて言葉で片付けないでくれ。彩世はオンリーワンの存在なんだ。たかだか属性を指す言葉なんて、彩世には似合わない」
「ほんっとうに、海くんって私のこと大好きね」
「悪いか?」
僕が大真面目に言った言葉を冗談っぽく取られたらしいので問うと、彼女は恥ずかしそうに呟いた。
「そういうところが好きよ」
僕は無言で彼女を抱きしめ、せっかくだからと艶やかな黒い長髪を手で梳く。
サラサラと零れ落ちる髪の毛に、心を締め付けられた。
「も、もう行きましょう。夕日もそろそろ沈むわよ」
「それもそうだな」
彩世は先ほどとは打って変わって、確かな足取りで予定の場所まで向かった。
フェンスを乗り越えると、柔い風が吹く。初めて僕たちが言葉を交わしたときと同じような風だった。
少し視線を下にやると、ずっと下に地面が見える。
そこで僕は言いようのない恐怖を感じた。
『死ななければいけない』を上回るほどの『死にたくない』が僕の心を侵食してゆく。手や足が震える。
僕は間違ってもここから落ちないように、柵を握った。
「死にたくない」
思わず声が出てしまったかと思ったが、僕からは出せない美しい声だったので、それが彩世のものだと気づく。
僕は彩世の手を片手だけ掴んだ。
「大丈夫だよ」
何の根拠もない言葉と手の震えが重なる。
僕が震えているのか、それとも彩世が震えているのか。それすらも恐怖に侵された僕たちには分からなかった。
「いや、いやよ。どうして私たちは、死ななければいけないの」
「世の中には死ななければいけない人間ともうじき死ぬ人間がいるんだ。たまたま僕たちがそれに当てはまっただけなんだ。彩世だって病気で死ぬのは御免だろ? 僕もこのまま死ぬべきだと思いながら生きるのは嫌なんだ。それだけだ。彩世は病気から解放されて、僕は死ぬべきだと思う日々から解放される。それだけ。それだけだ。なあ」
彩世に言っているのか自分に言っているのか、言葉の羅列を放り出す。
もはや自分でも何を言っているのか分からない最低の自己暗示だった。
彩世の手足は震えるばかりで、どんどん体温が低下しているのが分かる。
そればかりではなく、僕の手足も冷たくなってきている。きっと今彩世の手をまともな人間が掴んだのならば、氷でも掴んだのかと思いたくなることだろう。
「僕と一緒に死ぬだけだ」
彩世の震えが少しだけ収まる。
そうだ。僕は彩世と一緒に死んで、彩世は僕と一緒に死ぬだけ。先なんてあるか分からないが、それは確かなことだ。
急に視界が開ける。恐怖がなくなったわけではないが、死んだ先にも確かなものは残ると思うと安心が見えた。
「そうね。そう、私たちは一緒に死ぬだけ。そこに恐怖はいらない」
僕は彩世の頭を撫でる。僕が欲しい言葉を的確に言ってくれたからだ。
愛には消費期限がある。その消費期限内に僕たちが死ねたことは、かえって幸福ではなかろうか。
そんなことを思う余裕すら出てきた。
僕は笑う。彩世は最初何が起こったのか分からず、僕のことを魔物でも見るかのような目を向けていたが、彼女もやがて笑みを零した。
「愛してるよ、彩世」
「ええ、私もよ」
笑い疲れたのちに、僕は言った。それが別れの挨拶であることは僕たちだけが知っていた。
勢いのいい風が、僕たちを包んだ。