水玉キャップとウサギ穴
【pixiv】にも同じ作品を載せていますが、こちらは細かい部分を手直ししました。
落とした鉛筆のキャップが廊下を転がり、消えた。
ウサギ穴だ、とミウは思う。見たことはないけれど、すぐにわかった。
「どうしたの?」
一緒に歩いていたアサちゃんが言った。アサちゃんは心配ない。バレエを習っているので、体が自然に穴を飛び越えるのだ。
何でもない、とミウは笑った。目の端でこっそり、キャップの消えた場所を覚えておいた。
放課後、アサちゃんと西川くんの誘いを断り、ミウは学校に残った。二階の廊下の、目印にした消火器の前までやってくる。
ミウの学校にウサギはいない。数年前、他校のウサギたちと戦争になり、小屋ごと焼かれてしまったのだ。
そのかわり、校舎の至る所にウサギ穴がある。目には見えないが、人やものを無差別に飲み込む。ハンカチやメモ帳、宿題のプリント、先生のパソコン、買いそろえたばかりの辞書。
二年生の時、同じクラスのケイタがウサギ穴に落ちた。一か月ぐらい行方不明で、捜索隊が学校から通学路、家まで探した挙句、教室で倒れているのが見つかった。本人は何も覚えていなかった。穴の中のことも、なぜ落ちたのかも、全て真っ白になっていたのだ。
そんなことがあったので、ミウの学年の子たちはウサギ穴を怖がっていた。恐ろしい怪物がいるに違いない、死んだウサギの霊が出るのかもしれない、と噂ばかりが大きくなった。
「こんにちは」
ミウは廊下の床に呼びかけた。
「キャップ、返してください。青と白の水玉の」
返事はない。ミウはスカートを押さえ、ぐっと息を止めると、飛び込み前転をするように床に転がった。
壁と天井が視界から消え、ずぶりとぬるいゼリーの中に入ったような感触がした。息ができない。落ちている。ものすごい勢いで落ちているのだ。
髪がほどけかけ、ブラウスの衿に顔をはたかれ、ようやく広い場所に放り出された。下は白い絨毯で、ふわふわの毛足が痛みを和らげてくれた。
どこからともなく、甘い香りが漂ってくる。
「ここがウサギ穴……」
ミウは立ち上がった。薄暗い部屋だ。ぽつぽつと本棚が並び、人体図鑑や百科事典の間に、壊れた時計や眼鏡ケースが埃をかぶって並んでいる。
部屋の中央にはテーブルがあり、男の子がいた。傘の付いた電球の下で、真っ赤なリンゴを一列に並べている。
「自分から落ちるなんて珍しいね。何年生?」
男の子は顔を上げて言った。切れ長の、穏やかな目をしている。同じ学校の子だ。何度か廊下ですれ違ったことがある。
「あなたも落ちたの?」
「落ちてない。ねえ誰?」
「水野ミウ、三年生」
ふうん、と男の子は言った。目の前のリンゴにざくりと包丁を入れる。甘い香りがふわっと広がった。
「オレはウサギ。四年生だよ」
「ウサギ?」
「ウサギ穴のウサギ。ここはオレの実験場だよ。今やってるのは、リンゴを細かく刻みすぎる実験」
つまらなそう、ともう少しで口に出して言うところだった。
四年生といえば、アザラシ先輩という有名な問題児がいる。授業中に脱走したり、クラスメートを襲ったり、そして何より名前の通りアザラシなのが一番の問題だ。
「オレは人間だよ」
ミウの心を読んだように、ウサギ先輩は言った。
「アザラシの脱走も助けてない。あいつはどうしようもない馬鹿さ」
ざく、ざく、と包丁が入るたびに、リンゴは小さくなっていく。甘い香りがしぶきのように飛び散る。
他の子たちが言っていたような恐ろしい場所ではなさそうだ。でも、この先輩はなんとなく危険な感じがする。子どもの皮を被った魔法使いのような、不自然な雰囲気をまとっているのだ。
ミウはぐっと息を飲み、一歩近づいた。
「キャップを返してください」
「キャップ?」
「あの本棚にあるのもみんな盗品ですよね。返してください」
ウサギ先輩の目が赤く光った。小さく刻まれたリンゴが、机の上でもぞもぞと動き出す。あっと思った時には、ノミのように跳ねてミウのほうへ飛んできた。
ミウは顔を覆った。腕や頬にリンゴが飛びつき、かりかりと齧ってくる。ただのかけらではない。赤い皮は長い耳の形をしており、よく見ると小さな口に前歯までついている。
「ウサギ……?」
「そうだよ」
「すごーい。ウサギ先輩って器用なんですね」
「まあね。こんなこともできるし」
ウサギ先輩が指を鳴らすと、リンゴのウサギたちに火がついた。そのまま平気な顔で腕を齧り続けてくる。あまりの熱さにミウは飛び上がり、体のあちこちをばしばし叩いて払った。おだててキャップを取り返そうと思ったのに、大失敗だ。
パチパチと耳元で炎が弾ける。小さな歯がミウの全身を狙っている。熱い。このままでは焼け死んでしまう。逃げながら、部屋のそこかしこに目線を走らせた。どこかにキャップは落ちていないだろうか。
「ミウ、こっちだ!」
本棚のほうから声がした。さっきまではいなかったのに、赤いジャージを着た男がうずくまっている。あれ、この人どこかで見たっけ、と思う。
「あったぞ、これだろ!」
男はキャップを差し出した。黒々とした髪と眉が特徴的な、若い男だ。知っている人なのか、気のせいなのかわからない。でも、持っているのは確かにミウのキャップだ。
手を伸ばそうとすると、今度は後ろから声がした。
「離れろ! そいつ、ミウをおびき寄せるためにキャップを……」
ウサギ先輩が言った途端、男はミウの腕をぐいと掴んだ。強い力に、体が斜めにかしぐ。
「何するんですか」
「帰ろう。ミウ、俺と行こう」
「嫌!」
ミウは男の手を振り払った。すると、追ってきていたリンゴのウサギたちが離れ、男に飛びかかった。
「ミウ、待て、俺だ。俺だよ。ミウ……ああああああ!」
赤い火が合体し、巨大化して燃え上がる。男は悲鳴を上げ、もがきながら炎に飲まれていった。
「今だ」
ウサギ先輩が走り出した。最初にミウが落ちてきた地点を指さし、あそこから飛ぶ、と言った。
「飛ぶんですか」
「上から来たんだから上に飛ばなきゃ帰れないだろ。あーあ、オレの実験場が」
ミウはウサギ先輩を追いかけながら、ちらっと後ろを見た。本棚のある一角が黒焦げになっている。リンゴの皮がちらちらと煙に舞い、笑っているようだった。
「ごめんね。君の大事なキャップ」
「いえ……別にいいんですけど」
去年、二年生の時に教室でキャップを拾った。ミウが持っている傘と同じ、青と白の水玉模様だった。
帰りの会で持ち主を探しても、誰も手を上げなかった。そのままずっと二年二組の落とし物箱にあった。終業式の日も、やっぱり残っていた。
「それでつい、持ってきちゃったんです」
「いいんじゃない? どうせ捨てるんだし」
「そうかな。次の学年の人にあげるのかと思いました」
なるほどね、とウサギ先輩は言い、体勢を低くする。爪先で弾みをつけ、天井に向かって柔らかく跳んだ。続けてミウが跳ぶと、低いよ、と言って腕を引っ張り上げてくれた。
一人の時と違い、ゼリーのような感触も抵抗も感じなかった。すんなりと天井を抜けて体が上昇していく。ウサギ先輩は自分だけの特権を見せびらかすように、ふふんと鼻を鳴らした。
白い空間に、さらに明るい光が差してくる。もうすぐウサギ穴を抜けるのだ。風にそよぐウサギ先輩の髪とシャツは、今の瞬間が一番好きだと言っているように見えた。
ウサギ先輩は上を向いたまま、ぽつりと言った。
「オレも二年生の時は二組だったよ。細かいことはもう覚えてないけど、君みたいなその……キャップは持ってたと思う」
やがて光に包まれる。学校の廊下と天井がうっすら見えてくる。ここを抜けると全てを忘れてしまうのだろうか。キャップのことも、ウサギ先輩のことも、全てが真っ白になってしまうのだろうか。
でもそれはきっと些細なことだ。必要になれば帰ってくる。ばらばらになったリンゴが元に戻るように、いつの間にかこの手の中に戻ってくる。そんな気がして、ミウはためらいなく体を投げ出した。