episode.4
「慎ちゃんのグラタン、ようやく食べられた~!」
念願のグラタンを大きな口を開けて頬張る夏子。
「リクエストしてから何週間も待たされたからね~」
嫌味を言っている夏子の顔は、言葉と裏腹に上機嫌だ。その表情を確認してから、慎二が切り出す。
「今日さ、なっちゃんに話があるんだ」
急に身構えた夏子の手が止まる。
「俺さ、転職しようと思う」
「・・・転職?!」
「この前友達に会うって言った日あるでしょ?実はあの日、イントラのスクールで講師だった先輩に会ってさ。その先輩、今度ダイビングショップを伊豆で始める事にしたって。それで『うちに来ないか』って誘ってもらった。だから、行こうと思う」
最後の言葉を聞いて、夏子のフォークを持つ手が再び口へグラタンを運び始めた。
「な~んだ。もう決めてきたんだ。一応私に報告って事ね」
「で、あと、もう一個」
いぶかし気に夏子は慎二に視線をやった。
「なっちゃんも一緒に行こう」
「・・・は?」
「先輩には二人雇ってもらえる様に話してある」
「・・・勝手に・・・何よ」
「給料も今までと同じ位貰えるし、休みの日は近場で幾らでも潜りに行けるし。なっちゃんがOKだったら、今度の休みに早速その先輩に会いに行こうと思う。それで正式に決まれば、向こうで住む家も探さなきゃならないし」
「待って、待って・・・。勝手にそんなにどんどん話進めないでよ」
「のんびりしてられないんだよ。遅くても5月には来てもらいたいって言ってるし」
「はぁ?!」
夏子はフォークを置いた。
「こっちはどうするのよ?急に二人も辞められないでしょ」
「・・・平気だよ」
急に冷たい目をする慎二。
「そういう訳にいかないよ。現時点で申し込み受けてるツアーだって、今の人数で足りるだけ受けちゃってる訳だし」
「・・・とか言って、本当はなっちゃん、あの店辞めたくないだけなんじゃないの?」
「・・・それ、どういう意味よ」
夏子の目尻がキリッと上がる。
「別に。そのまんまの意味」
「だから、何が言いたいの?この間っから」
「俺にそこまで言わせる?!」
「私も大概不愉快だから言うけど、こっちも痛くもない腹探られるの、この間からムカついてたの。確かに店長と同じツアー行ったけど、別に何もないし、当たり前だけど、仕事して帰ってきた、ただそれだけ!それなのに、何かあったんじゃないかって顔して私の事疑って。本当不愉快だった!店長とどうにかなるなんてあり得ないし、これからも絶対にない」
「それは、同級生の旦那だって分かったから、気持ちを封印したんじゃなくて?」
夏子はこれ以上ない位の大きな溜め息を吐いた。
「うち、お爺ちゃんもお父さんも浮気もんで、そのせいでお婆ちゃんもお母さんも幸せを感じないでずっと暮らしてきたんだと思う。女がにこりともしない家の中の雰囲気、想像出来る?そこにいる家族だって、悲しい。不倫なんて、良い事一個もない。だから、私は後に戻る事は、絶対にない」
それから数日経って、夏子と慎二は会社に辞表を出した。
「二人いっぺんって・・・。それぞれ一人ずつ誰か連れてきてから辞めてってくれよなぁ」
いつもの様に、本気が冗談か分からない言い方で村瀬が言った。
その日の昼休み、村瀬が慎二のデスクの傍に来る。
「慎二。昼飯、一緒に買いに行こうや。俺のおごり」
最近はもう愛妻弁当を持って来る事もない村瀬だ。それを聞きつけた何名かが便乗する。
「今日は何ですか?」
「駅前に出来たハワイアンランチの店。どう?」
慎二の返事より先に、外野が盛り上がる。
結局6人分の買い物を頼まれた二人が、駅までの道を歩く。黙々と歩く慎二に、村瀬がニヤッと顔を向けた。
「慎二。お前、なんか焦ってる?」
「・・・え?」
「青柳と一緒に4月いっぱいで辞めて静岡に行くなんて、随分思い切ったね」
「・・・・・・」
「結婚とか考えちゃってる訳?」
どこか余裕のある村瀬の声に、少々イラッとする慎二だ。
「そりゃ、先の事とか、一応真面目に考えてます」
それを聞いてはっはっはっと笑い飛ばす村瀬。
「そう、焦んな、焦んな。結婚なんて、してみたら大していいもんでもないし。それにお前まだ若いだろ?結婚して窮屈になる前に、自分のキャリアとか経験とか積んだ方が、よっぽど充実してると思うよ~」
「・・・・・・」
「それとも、青柳が結婚したがってたり?」
「・・・・・・」
「今はそんな風に言っても、あいつはそういう女じゃないよ」
慎二が村瀬をキッと睨む。それに目を合わせない村瀬だったが、空気は感じ取っている様子だ。
「結婚して、家の中で夫を支え、子供を産み育てる・・・。出来ると思うか?あいつに」
「俺は、結婚しても家の中に閉じ込めておこうなんて思ってません」
村瀬は再びはっはっはっと笑った。
「甘いなぁ~、慎二は。子供が出来たらどうすんだ?でっかい腹抱えて、ダイビングショップに仕事行かせるか?」
「・・・・・・」
「生まれてからだって、暫くは朝も晩も赤ん坊に付きっ切りだよ。その内ストレスで『こんな事する為に結婚したんじゃない!』なんて怒り出す。女って、そういう生き物だ」
「俺は、子育ても一緒にするし、そんな事思わせない位、愛して満たしてあげます」
「そんな理想論、通用しなくなるのが、結婚っていう魔物だ。悪い事言わないから、そう焦って結婚だけはするな」
6人分の昼食をぶら下げて会社まで帰る道中、慎二が村瀬に聞いた。
「最近は愛妻弁当、持って来ないですね」
「ははは。『愛妻』じゃなくなってるからかな」
慎二は村瀬の笑いにつられたりはしなかった。
「店長のとこの夫婦が上手くいってないからって、なっちゃんにちょっかい出すのは、やめて下さい。俺ら、円満に退社していきたいんで」
滅多にない慎二のマジ顔に、村瀬が少々顔を強張らせた。
「上司に『俺の女に手を出すな』って?慎二も大人になったもんだ」
はははと笑ってあしらう村瀬に、慎二は奥歯にぎゅっと力を込めた。そんな慎二の肩に、村瀬がポンと手を乗せた。
「そんなに夏子を窮屈にすると、アイツお前の所から逃げ出してっちゃうよ~。男はどっしり構えてないと」
いつもは『青柳』と呼ぶ村瀬が、『夏子』『アイツ』と呼ぶその響きに、慎二はぎゅっと拳に力を込めた。
「なんかさぁ、急に色んな事が動き出して、海の近くに住めるウキウキとか、長年住んだ都内を離れる決心とか、そういうの考えてる暇ないね」
少しずつ荷物の整理を始めた夏子が、呑気にそんな話をする。すると、慎二が手を止めて正座をした。
「なっちゃん。俺、なっちゃんと結婚したいと思ってる。今回伊豆に行くの、そういう気持ちもあるから」
夏子が明らかに戸惑っているのが分かる。
「どうしちゃったの?急に・・・」
「急じゃないよ。俺ん中では、前からちゃんと考えてた」
慎二の胸の中では、先日の悔しさがぐるぐる渦巻いている。
「あら、それはどうも。じゃ、私もそのつもりで楽しみにしときま~す」
軽い冗談みたいな話しっぷりに、慎二が夏子の手を強引に止めた。
「茶化さないで。俺、マジだから」
「・・・分かったよぉ・・・」
ちょっと勢いに押され、夏子がそう答える。少し作業をしてから、再び慎二が手をパンパンとはたいて、背筋を伸ばした。
「なっちゃん。籍入れてから、向こう行こうか」
「・・・・・・」
のけぞりそうになる夏子だ。
「そんな、慌てなくていいよ・・・。別に私もまだそんな焦る年でもないしさ」
「けじめっていうかさ・・・」
夏子は重たい空気になりかけたのを、自ら笑う事で吹き飛ばした。
「けじめとか、らしくないからぁ~!」
「俺は結構けじめとか気にするタイプだよ」
「あはは。そうか、そうか。私だね、らしくないのは。あはははは」
「なっちゃんのお家の人に、きちんと挨拶したいし。それにはやっぱ、結婚とか・・・」
「それ言ったら、慎ちゃんのご両親にだって同じでしょ?だから、あと一ヶ月で結婚なんて、無理無理。バタバタしたっていい事ないよ。向こうの生活に慣れて落ち着いたら、また考えよ」
慎二は静かに口を尖らせた。
夏子が、昼食を買いに由真と外に出る。すると、由真が待ってましたとばかりに口を開く。
「夏子、慎ちゃんと結婚すんの?」
「え?何、何?急に」
「慎ちゃんが嬉しそうに、そう話してたから」
夏子は溜め息を深く吐き出した。
「あいつ・・・」
「なによ、違うの?」
「いずれは・・・って話よ。ただそれだけ」
「そんな感じじゃなかったけどな・・・。慎ちゃん、大丈夫?かなり暴走してない?」
「『けじめ』とか言って、妙に気にしてくれててさ。でも私はさぁ、そんな事より、海の近くに住めるって事で充分嬉しいっていうかさぁ。何月はどこに潜りに行こうかなぁとか、そんな事ばっか考えてる」
「随分温度差、ある様に感じんだけど・・・?」
「今だけだよ、慎ちゃんも。向こう行っちゃえばね、きっと籍がどうのとか、焦らなくなるよ」
「やめてよ~。行ってすぐに出戻りみたいに『ただいま~』って帰ってくんの」
きゃははははと黄色い笑い声を青空に響かせる夏子。
「もし慎ちゃんと別れても、帰っては来ないよ、きっと」
「え~!じゃあ、もうこうやって一緒にお昼すんのなくなっちゃうや~ん!寂しいよぉ!」
由真が悪ノリして、夏子の腕にしがみついて甘えてみせる。二人は、揃ってきゃははははと黄色い声を重ねた。