episode.3
一夜明け、薄いカーテンから差し込んだ朝日が、守屋の眠るベッドを優しく包む。そんな静かな空間に割って入るアラームの音で目を覚ます守屋。しかし、昨夜隣にいた筈の雪子の姿がない。慌てて起き上がると、ナイトテーブルの上にメモが残されていた。
『昨日は、私のわがままを聞いてくれて ありがとうございました。守屋さん眠っていたので、声掛けないで出ます。ちゃんと家に帰るので心配しないで下さい』
部屋の中には、雪子の鞄も靴も 跡形も無くなっていた。
出勤前の夏子の携帯が鳴る。この時間に電話が鳴る事は珍しい。昨夜の雪子の一件といい、少なからず緊急性を感じて 夏子の頬も引き締まる。
「夏子ちゃん?朝の忙しい時間にごめんなさいね」
雪子の母からだ。
「昨日は雪子の事、ありがとう」
夏子の心臓は急に速度を上げる。
「さっき無事に帰ってきたから。本当にどうもありがとう」
「いえ・・・。良かったです」
夏子が話しながら玄関で靴を履くと、慎二が車のキーを取って運転席に先回りした。
「雪子・・・何か言ってた?夏子ちゃんに」
母の心配そうな顔が浮かぶ。
「いえ・・・特には・・・」
「本当?雪子から口留めされてるの?」
「いえ・・・そういう訳じゃ・・・」
「雪子が何でまた落ち込んじゃってるのか、それを知りたいだけなのよ。解決出来る事なら、手助けしてやりたいし。夏子ちゃん、分かってくれるよね?おばさんの気持ち」
「はい・・・」
「だから、何でもいいから教えて。こんな話してた、とか・・・どんな些細な事でもいいから」
「本当に何も・・・。だから私も今、おばさんと同じ気持ちです」
通話を終えた夏子を助手席にチラッと見て、慎二が声を掛けた。
「雪子ちゃん、守屋さんとヨリ戻ったのかな?」
「さぁ・・・?全然わかんない」
言いながら、夏子が守屋の電話を呼び出してみる。しかし何度呼び出しても、電話には出ない。
「出ないし・・・」
夏子が独り言の様に呟いて、携帯に八つ当たりでもする様に、乱暴に鞄に投げ入れた。それをなだめる様に、慎二が話し掛ける。
「でも、まずは無事に家に戻って良かったじゃない」
「それはそうだけど・・・」
ラジオのDJが上手く隙間を埋めながら、車は職場へと向かう。さっき夏子が鞄の中に投げ入れた携帯がメッセージを着信している。
『運転中で、さっきは電話に出られずごめんなさい。昨日はお世話になりました』
守屋からだ。無言で夏子は返信を打つ。
『雪子ちゃんとどうなってるの?』
すぐに返事がない所を見ると、まだ運転中なんだろうと想像するが、夏子の逸る気持ちに必死にブレーキを掛ける様に、携帯をぎゅっと握りしめながら貧乏ゆすりが始まる。その思いが通じてか、意外にすぐの返信が届く。
『今仕事に向かう車の中です。落ち着いたら、また連絡します』
それを読んだ夏子は、また電話を鞄に放り投げた。
「答えになってないし!」
信号待ちをしながら、運転席の慎二が夏子の様子を窺う。
「昨日雪子ちゃん、守屋さんとホテルに泊まるって言ったんだよね?」
「うん」
「それって・・・やっぱ・・・そういう事、だよね?」
「・・・・・・」
「でもさ、あの二人、付き合ってもないのにホテルとか・・・行かなくない?」
「・・・と思うけど・・・」
「じゃあやっぱ、ヨリが戻ってんだよ」
「そうかなぁ・・・」
夏子は何となく腑に落ちないまま、首を傾げた。それに気付いた慎二が、会話を繋いだ。
「だって、そうでもなかったら、かなり問題でしょ?」
夏子が慎二の方を向く。
「元自分の所の職員に手出しちゃって。それこそ、前雪子ちゃんが言ってた噂通りの男って事になっちゃうし」
「だよね・・・」
「結局あれはデマだった訳だし」
「うん・・・」
夏子の中に少しずつ慎二の言葉が入っていく。
「そうだよね。観覧車の中でキスもスマートに出来なかった人なんだからね、守屋さんは」
「ははは。そうだ、そうだ」
一件落着という雰囲気が漂うが、夏子が守屋とのやり取りを見返して、再び首を傾げる。
「でもさ・・・それならそうと、『ユキとまた付き合う事になった』って言えば一言で済む筈なのに・・・そうも言わないんだよね・・・」
眉間に皺の寄った夏子に、慎二が提案する。
「雪子ちゃんに聞いてみたら?」
「そっか!」
夏子は早速メッセージを打つ。すると、意外にも返信が早い。
『昨日はどうもありがとう。助かりました』
『守屋さんと、また付き合う事になったの?』
『なってない。昨日だけ。その事は、またちゃんと話すね』
それを読むなり、夏子は「あ~!」と癇癪の詰まった声で叫んだ。
「どうしたの?」
「昨日だけだって。どうなってんのよ!一体」
夏子は次の質問を考えながら、携帯の画面を指でコンコンと強く叩く。そして大きな独り言を呟く。
「雪子ちゃんが落ち込んでるのにつけ込んで、守屋さん手出したのかな・・・。だとしたら酷いよ・・・。見損なうよ・・・。絶対許せない」
夏子の中で勝手な妄想が広がって、どんどんと口調が強まる。
「まだそう決めつけない方がいいよ。ちゃんと聞いてみないと分かんないし」
しかし夏子の耳に、そんな慎二の正論は届かない。
「ヨリ戻すつもり、守屋さんにあるのかな?ただこれからも都合よく雪子ちゃん使おうとしてるんなら、私絶対に許さないから!」
言いながら夏子自身も、公私混同気味の感情が溢れてくるのを感じる。そんなイラついている夏子を左側に感じながら、慎二が言葉を選ぶ。
「悪意はなくてもさ、別れた男女が、寂しさとか懐かしさとかに流されて つい・・・って事、あるでしょ」
「だとしても、そんな慰め方ずるい・・・」
夏子の脳裏に先日の村瀬のキスがよぎる。だから、それを自分の心の中から追い出す様に、夏子は拳で太ももをなぐった。そんな夏子の様子を黙って見ている慎二が、まるで自分を試した様に感じた夏子は、さっきのイライラを引きずったまま慎重に言葉を選んだ。
「慎ちゃんはあるんだ?」
「・・・若気の至りってヤツ」
「自分がそうだと、人もそうだと思っちゃうんだね。だから、私の事も疑ってるんでしょ?」
思わぬ方向へ飛び火した話題が、二人には手に余り、収拾のつかないまま職場へと到着した。
守屋が事務所に出勤してくると、佐々木がじーっとその様子を窺う。覇気がなく、動きが鈍い。その上立ったり座ったりする度に小さい溜め息を吐く守屋に、佐々木がとうとう声を掛けた。
「お疲れ気味ですか?」
「え?!」
佐々木の存在など忘れていたかの様な驚きだ。
「さっきから、何回溜め息ついてるか教えましょうか」
「あ・・・ごめん。そんなつもりはなかったんだけど」
気を取り直して背筋を伸ばす守屋を、佐々木は次の一言で再びドキッとさせるのだった。
「スーツもネクタイも昨日と一緒なんて、珍しいですね。昨日はご自宅に帰られなかったんですか?」
一瞬にして固まった自分をごまかす為に、守屋はあえて笑い飛ばした。
「女性はよく見てますね~。俺はそういうの無頓着だから、目に付いたのパッと着てくだけで」
佐々木はいつもの屈託のない笑顔を弾けさせた。
「そうなんですね。でも所長、スーツもネクタイも一緒なんて珍しいなぁって。もしかしてワイシャツも一緒だったりして・・・」
冗談ぽくワイシャツをジロジロと見つめる佐々木の視線をかわす様に、守屋は席を立って動きながら言った。
「昨日は親戚の伯父の所に急に行く事になったりして、佐々木さんの言う通り帰ってないんです」
「あ、そうだったんですね。じゃ所長、これからは、そういう時の為に、ネクタイ一本位はデスクの引き出しか車に常備しておくものですよ。色んな噂、言いたい人は世の中沢山いるし、一回立った噂は火が消えるのにも時間が掛かりますから。ご自分の身を守る為です」
「わかりました。ご忠告、ありがとうございます。早速明日から“置きネクタイ”実行します」
頭を下げる守屋だった。
その後、昼前に佐々木が守屋のデスクにそっと近寄って紙袋を差し出した。
「とりあえず、今日はこれでしのいで下さい」
「・・・ん?」
「好みに合うかは分かりませんが、同じのしてるよりは・・・と思いまして、今チャチャッと見繕ってきました」
「何から何まで・・・すみません」
頭を下げる守屋が財布から千円札を数枚取り出すと、佐々木がそれを押し返した。
「いつもお世話になってるお礼です。勝手に買ってきただけなんで・・・」
「いや・・・そういう訳には・・・」
「あ・・・じゃ、今度ご飯ご馳走して下さい。それでチャラって事で」
「・・・・・・」
守屋は視線を落として、一呼吸置いた後、再び先程のお金を佐々木の前に出した。
「個人的に食事に行ったりすると、何噂されるか分からないですから。これ受け取ってもらった方が、こちらとしても有り難いです」
佐々木にはもう断る理由はなかった。
「安物だったんで、千円だけ頂きます」
はにかむ様な表情の奥に、何か切ない色が見える。
「ごめんね。これも、自分の身を守る為だから」
佐々木ははははと笑って言った。
「分かってます」
朝 守屋が雪子に送ったメッセージに、夕方過ぎても既読サインが付かない。
『無事に自宅に戻ったのかな?』というまだ読まれていないメッセージの後に、もう一度守屋はメッセージを送る。
『きちんと話したい。何時でもいいから連絡下さい』
一体雪子はどんなつもりなんだろう。果たして雪子の気持ちはどこにあるんだろう。・・・朝からずっと、守屋の頭の中をぐるぐる回っている言葉達だ。出口のない所に閉じ込められて、その感情と言葉が連鎖反応を起こしてどんどんと繁殖していくみたいだ。守屋の頭と胸はいっぱいになり、仕事を終えて車に乗り込むなり、桐谷に電話を入れた。
「星野さん・・・その後何か・・・」
守屋の想像と反して、桐谷は元気な声を上げた。
「今日、出勤してきてたよ。体調どうか 聞いたんだけど、『大丈夫です』としか言わなくて。とりあえず、明日も頑張って来るって本人が言うからさ、様子見てみようと思うよ。厨房の皆の雰囲気も、変わらず悪くなさそうだし」
「そう・・・出勤してきたんだ」
「そうなんだよ。本人も頑張ろうって気はあるみたいだから」
「今日は・・・まだいる?」
「ちょっと待ってよ・・・」
暫くして桐谷が返答した。
「ついさっき、帰ったみたいだよ」
守屋が懐かしい道を車で飛ばす。時々止まる信号待ちで、雪子へのメッセージを確認する。未だに未読のままだ。溜め息を吐き出して、アクセルを踏む。再び頭の中のぱんぱんに増殖した疑問達が、うごめきだす。夢中で車を走らせて、雪子の家の前に着く。国分寺の職場から電車での時間を考えると、きっとまだ帰っていない筈と時計を睨む守屋。エンジンを切って、深呼吸をする。ネクタイを少し緩め、携帯を手にする。
『話がしたいから、家の前で待ってます』
そう打ち込んで、手が止まる。そして削除すると、また次を打ち込んでみる。
『避けないでよ。昨日の事、どういう風に受け止めたらいいのか、話したいだけだから』
勢いに任せて打ち込んでも、それを送信する段になると手が躊躇する。
『ユキに会いたくて会いたくて仕方がない。ユキともう一度やり直したいと思ってる』
浮かぶまま、手の動くまま色々打ち込んでみるが、守屋はやはり同じ様に、全文を削除した。携帯を助手席に置いて 空を見上げると、昨日の大きな月に雲が少し掛かっていて、昨夜土手で見た満月からは、少し欠け始めていた。
暫く何の進展もないまま、ただ待つだけの時間が過ぎていくと、前方から雪子らしき人影が見える。しかし、去年の雪子の誕生日と同じ様に、隣には男の影が一緒だ。所々にある外灯の明かりに照らされた顔を見て、守屋はがくんと肩を落とした。正に誕生日にも家まで送った、同じ職場の下草一平だった。これでは雪子と話すどころか、自分がここに居る事すら隠さなくてはならない状況に、守屋はハンドルに顔を突っ伏した。
ブー―――――ッ
夜の住宅街にクラクションが響く。慌てて守屋がハンドルから離れると、当然の如く、前から歩いて来る二人がこちらをじっと見ていた。出るに出られない守屋が、必死で顔を隠す様に俯いていると、ガチャッと微かに音がする。恐る恐る雪子の家に視線をやると、クラクションの音に反応して、怪訝な表情の母親が玄関から姿を現していた。車の中の守屋と目が合うと、母親も驚きを隠せない。
覚悟というより 諦めに似た気持ちで腹をくくり、守屋が車から降りて行くと、母が思わず口に手を当てて固まった。
「ご無沙汰しております」
守屋から深く頭を下げて そう挨拶をすると、母も同じく頭を下げた。
「お久し振りです・・・」
「間違って大きな音を立ててしまい、申し訳ありません」
「いえ・・・」
次の言葉を必死に頭の中で探している、といった様子がありありと見て取れる。
「今日は、何か・・・」
そう聞きかけた所で、母の目の端に雪子と一平が映る。
「あら、おかえり」
「こんばんは」
一平が慣れた様子で挨拶を交わすその傍で、守屋は俯いて影を潜めた。しかし一平はそんな守屋を見て、何か思い出した様に固まった。
「あ・・・どうして、ここに・・・?」
独り言の様な、誰かの答えを待っている様な、そんな一平の言葉に、その場にいた他の三人が固まった事は言うまでもない。こんな時は、大抵冷静に落ち着いてそつなく対処する守屋が口火を切るものと相場が決まっている。そんな暗黙の空気を吸い込んで、守屋が口を開いた。
「星野さんの様子が気になったもので・・・ご自宅まで、すみません」
深く頭を下げている守屋を見て、雪子が言った。
「お久し振りです。ご心配お掛けしてすみません。昨日はどうかしてました。忘れて下さい。それじゃ・・・」
雪子は半分駆け込む様に玄関の中に姿を消した。呆気に取られている一平に、母が作り笑いを浮かべた。
「いつもありがとうね。じゃ・・・また。気を付けて帰ってね」
「はい。じゃ、また明日」
そう言って守屋にも会釈をして行きかけた一平が、もう一度母の方を振り返った。
「あっ!明日も一緒に行く約束しました。明朝、また伺います」
にっこりお辞儀をした一平に会釈を返す母を見て、守屋も挨拶を切り出した。
「では私も失礼します」
「あ・・・そうですか。・・・ご心配お掛けしました。わざわざ、すみませんでした」
何か言いたげな母ではあったが、守屋を引き止める事はしなかった。
雪子の部屋をノックして、母が気になる質問を幾つか始める。
「守屋さんとは、まだ時々会ってるの?」
「会ってないよ」
「じゃあ、何?さっきの・・・『昨日の事は忘れて』って。昨日、夏子ちゃんの所に居たんじゃないの?もしかして、守屋さんと一緒だったの?」
「違うよ・・・」
「じゃあ、何なのよ。『昨日の事』って」
雪子はベッドに入り、布団に顔を埋めながら言った。
「昨日私が居なくなったって、うちの所長から守屋さんの所にも連絡が入ったんじゃない?だから、それ、忘れて下さいって事。要は・・・心配しないでって意味」
「そう・・・」
「もういい?久し振りに仕事行って疲れたから、今日はもう寝る」
布団にうずくまる雪子に、母はそれ以上話し掛けるのをやめた。
「守屋さん!連絡するって言って、全然して来ないじゃない!」
守屋の耳元で、夏子の声がひび割れる。
「ごめん。今さっき帰ってきたところで」
さっき雪子に言われた『昨日はどうかしてた。忘れて下さい』のフレーズが、まだ守屋の中で消化しきれていない内に、夏子からの電話だ。しかも、追い打ちをかける様な怒鳴り声だ。
「昨日雪子ちゃんと一緒だったって・・・どういう事?」
「どういう事か、俺だって知りたいよ」
守屋も溜め息混じりの声だ。しかし、夏子は相変わらず一方的だ。
「何言ってんのよ。別れた相手とやる事やっといて、そんな感傷的な声出したって、私同情なんかしないからね」
鼻から大きく息を吐いて、守屋がそれを肯定した。
「・・・そうだね」
夏子の弾丸は続く。
「そもそも、なんでそういう流れになったわけ?」
「・・・なんでかなぁ」
はぐらかされた夏子が、いきり立つ。
「たった24時間前の話でしょうが。忘れたなんて言わせないからね」
しかしその『忘れた』という単語に連鎖して、さっきの雪子の言葉が守屋の脳裏を霞めた。
「ユキは昨日の事、忘れたいみたいだけどね」
「ほら!やっぱり強引に何かしたんでしょう!」
「しないよ」
「じゃあ何よ?雪子ちゃん傷付ける様な事、したんじゃないの?」
夏子の語尾に守屋が強い口調で被せた。
「してないよ!むしろ・・・こっちだって充分傷付いてるよ」
夏子の弾丸の様な口が、一瞬止まる。
「俺だって、それなりに小さくないリスクを覚悟してホテルに行ったんだよ」
「何よ、守屋さんのリスクって」
「こんな事バレたら、完全にクビだよ」
「クビ~?!プライベートで誰が何しようと関係ある?」
「俺とユキが付き合ってるんならね。でも今は・・・何でもない訳だから。それこそ昔の噂通り、職員に手出したセクハラ上司って事になる」
「でもそれって、雪子ちゃんが言わなきゃバレない事でしょ?・・・え?!もしかして、雪子ちゃんが守屋さんをはめて、それを会社にチクろうとしてるとでも思ってるの?」
守屋は呆れた様に無気力に笑った。
「そんな事思ってないよ。でもね、どこで誰が見てるか分かんない訳だし・・・。挙句に『昨日はどうかしてた。忘れて欲しい』って・・・そりゃないでしょ・・・」
少し夏子の勢いが下降線になり始める。
「・・・そんなに・・・良くなかったの?」
守屋は呆れて頭をくしゃくしゃっとした。
「そういう中味の問題じゃないでしょう?」
「分かんないよ~。守屋さんが相当変な“癖”持ってたりして~」
夏子の軽い下ネタの冗談に付き合って笑う気分には、到底なれない守屋だ。
「何度も思ったよ。俺がシャワーから出たら、先に寝ちゃっててくれたらいいな とか、きっとユキは心が弱ってただけだから、一晩中抱きしめてあげたら それで安心するんじゃないか・・・とか」
夏子は黙って聞いた。
「・・・なんてね。自分がユキを説得できなかったからって、ユキの方から それ引っ込めて欲しいなんて・・・ほんと俺、男らしくない」
「男でも、そんな風に思うんだね」
夏子が、さっきとは人が変わった様に大人しくなる。
「付き合ってる時にユキを満たしてあげられなかった罪滅ぼしだと思えばいいのかな」
電話越しに聞こえる守屋の声が あまりに悲し気で、夏子まで溜め息をつく。
「男の守屋さんが、あの雪子ちゃんに一晩遊ばれて捨てられるなんて・・・なんか変な感じ」
「ユキは・・・やっぱりやめときゃ良かったって後悔して、俺とももう会いたくないんだろうね・・・」
さっき自分が笑い話のネタにした事を少し反省する夏子だ。
「彼氏がいるのに昔の男に抱かれた事、そりゃあ後悔するよね・・・」
守屋のそんな言葉を聞いて、夏子の耳が反応する。
「雪子ちゃんて、今彼氏いるの?」
守屋の脳裏に、去年の雪子の誕生日の夜の二人の影が蘇る。
「いるんじゃないの?同じ職場の・・・若い青年」
「へぇ・・・」
「聞いてないの?」
「・・・うん。最近はあんまり連絡取ってなかったから」
「家まで送り迎えしてるよ」
「守屋さん、知ってる人?」
「見た事はある。良くは知らない」
さっきまで守屋を攻撃していた人物とは思えない程、夏子がしおらしい声を出す。
「守屋さんってさぁ・・・まだ雪子ちゃんの事、好きなの?」
再び守屋の脳裏に、さっきの一平の顔が浮かんでくる。
「もう やめよう。こんな事今ここでいくら話したって、どうにもならない事だよ」
次の朝、約束通り一平が雪子の家に迎えに行く。駅までの道を歩きながら、一平は、昨日から気になっていた事を口にした。
「昨日家の前に車で来てたのって、ゆっこちゃんの前いた所の所長さんだよね?」
「・・・うん」
「心配で来たって言ってたけど・・・前の職場の上司がそこまでする?」
「・・・・・・」
「親切・・・っちゃあ親切だけど・・・、俺ちょっとゾワってしたわ」
雪子の心臓がほんの少しだけ痛くなる。
「もしかしてゆっこちゃん。あの人にしつこくされてる?ストーカーとか、隠れて威圧的に何か言われたりとか」
雪子は黙って首を横に振った。その様子に、一平の想像力が暴れ出す。
「何でも俺には話してよ。我慢する事ないって。元上司だろうが、悪い奴はちゃんと成敗しないといけないんだし。人に打ち明ける勇気も必要だよ」
雪子は更に強く首を横に振った。
「全然そんなんじゃない」
しかし一平の思い込みは加速する。
「俺、あの人の噂聞いた事ある。女癖が悪くて有名だよね。でもさ、そうは見えないギャップに、女どもは片っ端からやられちゃうって。ゆっこちゃんも気を付けた方がいいよ。あんまりお人好しにしてると、つけ入れられるかもしれないしね」
雪子は目を瞑って立ち止まった。
「もうやめて、その話」
「へ?!」
すっとんきょうな声を上げて足を止める一平。
「私・・・人の悪口、好きじゃないの。それに・・・あの所長さん、そんな悪い人じゃない。私があそこで働いてた時、本当に親身になって心配してくれたし」
「・・・そうなんだ・・・」
「それに私、噂だけに惑わされる人、軽蔑してるから」
一平は、もう何も返す言葉が出なかった。
その晩仕事を終えた守屋は、雪子の働く国分寺の施設から駅までの道に車を停めて待つ。あの晩以来連絡が取れない雪子と、なんとか接触する為だ。初めは、あの晩の出来事をどう思っているのか、そして二人の関係を今後どう考えているのか、雪子の気持ちを確認したい一心だった守屋だが、今は少し違っていた。雪子の自分への未練をほんの少しだけ期待していた守屋だったが、それはどうやっても叶わない事なんだと薄々感じ始めていた。それなら、今後の為に せめてわだかまりを残さない様に話しておきたいと思っていたのだ。
そこへ運転席の窓をノックする人影が現れる。慌てて外を見上げると、そこには桐谷が立っていた。守屋はウィンドウを下げるしかなかった。
「何してるの?こんな所で」
当然答えられない守屋がいる。
「星野さん?」
「・・・・・・」
「今日も出勤してきてたよ」
桐谷はそれだけを言って、守屋の顔をじっと見つめた。
「お前 面倒見がいいのも良いけど、ちょっと肩入れし過ぎじゃない?誤解されるよ」
「・・・そうだね」
守屋がごまかす様に笑ったのを、桐谷が気付く。
「それとも・・・星野さんとは特別な関係なの?」
「・・・まさか。そんなんじゃないよ」
そう言って、その言葉を信じたか、守屋は桐谷の顔をちらっと見る。そして、その言葉に効力がなかった事を知る。だから守屋は、更に笑ってみせた。
「俺、弟が以前うつ病患ったりして、精神的な疾患はなかなか根絶えは難しいっていうか・・・時間が掛かるっていうか・・・。そんな心配もあって。でも、お前の言う通りだわ。どうかしてた。もう俺には関係ない事なのにね」
怪訝な桐谷を傍らに感じたまま、守屋はエンジンをかけた。
「悪かったな、変な心配掛けて。お陰で目が覚めたよ」
作り笑顔でシートベルトを締める守屋に、桐谷が言った。
「星野さんの事で 気になる事があったら、また連絡するから」
固まった笑顔のまま手を上げて、守屋はアクセルを踏み込んだ。
次の日、守屋の勤務する事務所に一本の電話が入る。今日は佐々木が、玲次の卒業式の為お休みだ。最近新しく入った事務員が電話を取り次ぐ。
「所長。星野さんという方からお電話です」
「え?」
慌てて受話器を上げると、そこからは雪子の母の声が聞こえてくる。
「お仕事中、申し訳ありません。今・・・ちょっとよろしいかしら?」
「はい・・・何か?」
「個人的な事で・・・ちょっとお話したいんですけど・・・お時間取って頂けませんか?」
希望苑の傍にある喫茶店に、守屋が事務所を抜け出して来ると、もうそこには雪子の母が座っていた。
「お仕事中にごめんなさい」
「いえ、こちらこそ、こんな所まで来て頂いて」
守屋に緊張が走る。
珈琲をオーダーし終わると、先に守屋が口を開いた。
「先日は夜分に伺ったりして、申し訳ありませんでした」
「その・・・事なんですけど・・・」
言いにくそうな母が、言葉を絞り出す。
「雪子とは・・・まだ時々お会いになってます?」
守屋の胸がチクッと痛む。
「いえ・・・」
「雪子とは・・・別れたんですよね?」
「・・・はい。申し訳ありません」
「いえ、そういう事じゃないんです。ただこの間うちの子が、『昨日の事は忘れて下さい』って言ったの、覚えてます?」
守屋は、眉間に寄りそうな皺を必死で堪えた。
「はい」
「あれって・・・どういう意味でしょう?」
「・・・・・・」
黙っている守屋に、母が続きを喋る。
「この間・・・いなくなった日は夏子ちゃんと一緒に居た筈なんですけど・・・所長さんも一緒でした?」
「・・・いえ」
一か八かで守屋が賭けに出る。すると、母が取り繕う様に笑った。
「ですよね~。ごめんなさい、変な事聞いて」
異様な沈黙が出来て、母は珈琲に口をつける。オーダーした珈琲がまだ来ない守屋は、同じ様に水を一口飲んだ。
「雪子さん・・・大丈夫でしょうか」
初めに会話の糸口を見つけたのは、守屋だ。
「この三日は、とりあえずは仕事に行けたので、それは良かったなと・・・」
「そうですね」
再び襲う沈黙を利用して、守屋が気になっていた事を聞いてみる。
「同じ職場の、あの青年が熱心に送り迎えしてくれて・・・心強いですね」
「そうなんですよ。あの子が本当に良くしてくれて」
「悩みを聞いてくれて、同じ様に理解してくれる存在が身近にいれば、雪子さんも心配ないですね」
「所長さん」
母が椅子を座り直した。
「雪子から、守屋さんと別れたって聞いたのは・・・去年の年末かそこらでした。それからまだ何ヶ月かしか経ってないのに、あの子仲の良いボーイフレンドなんか出来たりして・・・。ごめんなさい」
「いえ、謝らないで下さい」
「聞けば・・・別れた理由も、やっぱり同世代との方が話も合うし、なんて あの子勝手な事言って・・・」
守屋の表情に影が落ちるから、母は慌てて謝った。
「ごめんなさいね。こんな事、親が立ち入る様な事じゃないんでしょうけど・・・」
守屋は運ばれてきたコーヒーに口をつけた。カップを置くのを待って、母が再び話し始めた。
「所長さんだって、ご結婚とか真剣にお考えになる年齢でしょうに、ごめんなさい。それがどうしても気になっていて・・・。あの子悪気はないんだと思うんですよ。ただまだ若いから、きっとあんまり深く考えてないところもあるんだと思います。だからどうか悪く思わないで下さいね。それで・・・今後は・・・まぁなんて言いますか・・・」
そこで母は言葉に詰まる。だからといって、守屋もその間を埋めたりはしなかった。
「まぁ・・・私が言う事でもないですけど・・・別々と言いますか・・・、お互いが決めたそれぞれの道で幸せになればいいのかなと・・・」
その日守屋は、それまで送り続けていた雪子へのメッセージとは 一種違う内容を送信した。
『仕事に行けてると桐谷所長から聞き、安心しました。新しいパートナーも優しそうだし、これからは彼と支え合いながら、頑張って下さい』
雪子が仕事から帰宅すると、玄関まで走って迎えに出る母。
「ただいま」
「今日もシモン君に送って頂いたの?」
「ううん」
急に伏目勝ちになる雪子に、母が気付く。
「あら・・・そう。なに?喧嘩でもした?」
「そんなんじゃない」
階段を上がりかけたところで、雪子は足を止めた。
「もう・・・一緒には行かないから」
そう言って部屋に入っていく雪子の後を、遅れて母が追いかける。
「何かあったの?シモン君と」
「別に」
「だって・・・」
雪子は母の言葉を遮った。
「今まで通り一人で平気」
半分納得した様な母に、雪子は追い打ちをかけた。
「シモン君とは別にただの友達。勘違いしないで」
そしてドアをパタンと閉めた。
電気もつけない真っ暗な部屋の中で、雪子はポケットから携帯を取り出した。
『新しいパートナーも優しそうだし、これからは彼と支え合いながら、頑張って下さい』
守屋から最後に来たメッセージを読み返す。壁を背もたれに床にへたり込むと、雪子からは大きな溜め息が漏れる。
「もう駄目だ・・・」
去年の夏の終わりに別れて以来、守屋から時たま来ていたメッセージと、今回のものは、何か温度が違う。言葉の奥にある守屋の気持ちが 明らかに違うという事が、嫌でも感じ取れる。
普段 携帯の中に息を潜めている昔の数少ない写真を開いて、雪子は自分を思い出の中にいざなって行った。高尾山での笑顔。並んで撮っていても、初々しい二人の距離感。下山途中に川の冷たい水に足を浸け、青空を見上げた時目の端に映り込んでいた桜の蕾。日の光に目を細めて笑った守屋が、今でも鮮明に雪子の記憶の中で動き出す。誕生日に美味しいコーヒーとデザートプレートを前に、嬉しそうだった守屋。キラキラした綺麗な思い出が、守屋の中でも同じ位純白に輝いているのかを考えた時、雪子は心臓が掴まれた様に痛む。あの晩の強引な自分のわがままで、全てが灰色になってしまった気がしてならない。不器用だけど想い合っていた二人の貴重な時間や思い出が、全て汚れてしまった様に感じる雪子だった。