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episode.1

まずは、夏子と慎二のその後を覗いてみて下さい

          1


季節が変わる時は、気温も肌を撫でていく空気も、私達の見上げる空のずっとずっと上の方では気圧も前線も行ったり来たりを繰り返す。寒々しかった街路樹の枝には、ほんの少しずつ若葉が息吹き始める。そんな季節を、今年も迎えていた。


「慎ちゃん、今日夕飯にグラタン食べたい」

「今日・・・?」

「そ。今日慎ちゃんの番だよ。慎ちゃんのいつものグラタン、あれ久々に食べたくなった」

「ごめん。今日・・・仕事の後、友達と会う約束してる」

一緒に住み始めてから毎日、夏子の運転で出勤する。車の中が一瞬で妙な空気になる。そしてそれをかき混ぜる様に、夏子が勢いよくカーブした。

「あ、そうなんだ。じゃ・・・このリクエスト、明日ね」

夏子はハンドルを握りながら、独り言の様に呟いた。

「あ~、今日は一人かぁ。何食べよっかなぁ・・・」

運転席の夏子をチラッと見た慎二の瞳が、何か物悲し気だった。


 その日仕事を終えると、慎二が椅子から腰を浮かせて、向かいの夏子に声を掛けた。

「じゃ俺、先出るわ」

「お疲れ~」

デスク作業をしながら顔も上げずに夏子が相槌を返すと、慎二がもう一言付け足した。

「帰る時、連絡する」

「・・・おっけー」

相変わらず顔を合わせないままのやり取りだ。

「あれ?今日はお二人さん、別々?」

由真が二人の顔を交互に見る。今では二人の関係は、職場では公のものとなっていた。

鞄を持ち上げて行きかけたところで、慎二が夏子の方を振り返った。

「俺帰る頃、なっちゃんいる?」

その言葉に、夏子が顔を上げた。

「どういう意味?」

「いや・・・なっちゃんもどっか出掛けるかなぁと思って」

夏子は再びパソコンに視線を落とす。

「まっすぐ帰ってます」


 職場の皆が次々と帰る中、夏子がパソコンの手を一旦止めて、大きく伸びをした。すると、それを見ていた村瀬が声を掛けた。

「飯でも、行く?」

夏子はじーっと村瀬の顔を眺めてから一言言った。

「不倫はごめんです」

すると村瀬はあははははと声高らかに笑った。夏子が首をコキコキ回していると、村瀬も背もたれに寄り掛かった。

「愛しの相棒がいないと、仕事に精が出ますなぁ」

「そんなんじゃありません。前から気になってた資料、整理しちゃおうと思って」

「それはそれは。君は社員の鏡だねぇ。自分で仕事を見つけて、ぱっぱと片付けて」

夏子が村瀬を横目でいぶかし気に見る。

「本当は残業代稼いで、次の潜りに行く資金貯めようと企んでるだけです」

「慎二と?」

「・・・行けたらいいなって」

村瀬が鞄に携帯をしまいながら、夏子を気にする。

「まだやってくの?」

「いえ」

夏子はパソコンをパタンと閉じた。

「今日はこれ位にしときます」

椅子から立ち上がって 鞄を肩に掛けた夏子に、村瀬がもう一度声を掛けた。

「西荻のつけ麺、食い行かない?」

警戒した表情で夏子が村瀬をチラッと見た。すると、村瀬はにこっと懐かしい笑顔で微笑んだ。

「飯食いに行くのは、不倫とは言いませんからね」

夏子が返事をしないまま、駐車場に向かう夏子に村瀬がついてくる。

「私行くとは言ってません」

すると村瀬がはははと笑った。

「行かないとも言われてない」

どこか懐かしさを感じるやりとりに、思わずふっと夏子の頬が緩む。村瀬が先に夏子の車の助手席側のドアに手を掛けた。

「西荻のつけ麺屋、そういやあれ以来行ってないや」

「あれ以来って・・・あれ以来?」

「そ、あれ以来」


 つけ麺をカウンターですすりながら、一息ついた夏子がふうっと長い溜め息を吐く。

「ここ、いわく付きですね」

「旨いから、いいじゃない」

そんな村瀬の横顔を見ながら、夏子は呆れた様に言葉を吐き出した。

「相変わらず、そういうとこ」

ビールをごくっと喉に流し込んで、村瀬が軽く相槌を返す。

「それが俺のいいところ」

「何言っちゃってんだか」

それから暫く二人は無言でつけ麺をすすった。お腹いっぱいになった夏子がふうっと一息吐き出して水を飲むと、村瀬も最後のビールを流し込んだ。

「最近慎二と、雲行き怪しいの?」

夏子は手に持っていた水のコップを持ち上げたまま、隣を向いた。

「・・・最近は部下の恋愛相談まで乗る様になったんですか?」

「部下の恋愛相談はやらない。元カノが寂しそうだから、気になってるだけ」

夏子はゆっくりとコップをテーブルに戻して、鞄から財布を取り出した。

「出ますか」

車に再び乗り込んで、シートベルトを締めながら夏子が村瀬に聞いた。

「どこで降ろしますか?」

「な~んだ」

村瀬が両手を頭の後ろにやるそのポーズに、夏子が運転席から首を傾げた。

「『な~んだ』って・・・何?」

「出ようかって言うから、どっか行くのかと思って期待しちゃっただけ」

夏子は大きく溜め息を吐いてみせた。

「まったく・・・。彼氏がいるのに、私から他の男誘う様な女だと思ってました?」

「思ってないよ。だから珍しいなぁって。相当・・・悩んでん」

そう言い掛けた村瀬の言葉を、夏子が遮った。

「同級生の旦那、血迷っても誘いません」

すると村瀬ははははと苦笑いした。

「・・・そうだった」

「・・・そうです。忘れないで下さい」

そしてまた村瀬がヘラヘラッと笑った。

「世の中、悪い事出来ない様にできてるね」

村瀬が胸ポケットからタバコを取り出してくわえると、夏子がそれに待ったをかける。

「タバコ、中では吸わないで。慎ちゃん吸わないから・・・においでバレる」

渋々煙草をしまう村瀬だ。

「これ夏子の車だろ?なんで俺が慎二に遠慮しなきゃなんないんだよ」

「・・・私も車に煙草の匂い付くの嫌だから」

村瀬が車の灰皿を引っ張り出して中味を見る。

「俺が乗ってた時は、そんな事言わなかった」

「・・・思ってたけど、言わなかっただけ」

「へぇ~。夏子でもそういう事あるんだ?」

「あるよ、それ位、人並みに」

それを聞きながら、村瀬が居心地が悪そうに、モゾモゾと座り直す。

「シートの位置も、背もたれの角度も、なんか落ち着かねぇ」

「もうそこはあなたが座る場所じゃないって事です」

目を合わせずにそう言った夏子はエンジンをかける。

「・・・慎二と付き合って・・・幸せになった?」

「うん。そりゃあコソコソしないでいいし、先の事も遠慮しないで話せるし」

勢いよく喋る夏子の言葉を村瀬が遮った。

「そういう事じゃないよ。心が満たされてるかって聞いてんの?」

「・・・満たされてるよ。まぁ時々は喧嘩したりすれ違ったりはあるけど。そんなの・・・」

急にベラベラお喋りになった夏子の語尾を、村瀬が再びさらった。

「俺の目見て言える?」

「え?」

「今凄く幸せだって」

「・・・何、急に・・・」

笑ってごまかそうとする夏子の頬に手を伸ばし、村瀬が静かにもう一度言った。

「目見て、言えるか?」

「・・・言えるよ」

「じゃ、言ってみて」

息を呑むような張り詰めた空気が立ち込めた車内で、夏子は村瀬と視線を合わせてゆっくり口を開いた。

「私は・・・今凄く幸せ・・・」

言い終えるか否かで、村瀬は夏子の唇を奪った。二人が濃密な時間に包まれた後、そこから現実に抜け出してきた夏子が 息を吹き返した様に声を漏らす。

「何なのよ・・・一体」

「何なのか、夏子が一番よく分かってるでしょ」

「・・・分かんないよ」

「今、俺の事、受け入れたでしょ。それが、夏子の本音」

村瀬はさっきしまった煙草を もう一度口にくわえた。夏子は助手席の村瀬に慌てる。

「だから吸わないでって」

「吸わないよ。くわえてるだけ」

助手席の窓を下げて、村瀬は風に当たりながら、くわえた煙草を指で挟んだ。

「俺、電子タバコに替えよっかなぁ」

まじまじと火の付いていない煙草を眺める村瀬を横目に、夏子は軽く腕まくりをして、ハンドルを握った。

「今日の事、今度こそ絶対に言わないでよね」

「何?キスした事?」

「違う!つけ麺、食べに行った事!」

「あ~、おっけー、おっけー」

半ばからかっている様な軽いあしらいを受け、夏子はイラッとした感情を言葉にそのまま乗せた。

「ただでさえ、この前のツアーから疑われてんだから」

「そうなの?!」

助手席の窓から入る風が、村瀬の前髪を揺らした。

「何もやましい事してないじゃん!ただ仕事しただけ」

「そうだけど、二人で同じツアーのガイドに行くなんて珍しいし・・・昔の事も知ってるから、心配だったんだと思う」

「へぇ~」

そう言いながら、村瀬はくわえていた煙草をしまった。

「どうせ疑われんなら、何かしとけば良かった」

車を走らせながら、夏子は溜め息を吐く。

「ふざけないで」

村瀬は黙って、ラジオのチャンネルを切り替える。

「自分だって、良いパパやるんじゃなかったの?」

村瀬はふふっと鼻で笑った。

「良いパパねぇ・・・」

夏子は隣をチラッと見る。

「何?もう断念したの?」

「い~や。娘にとっては良いパパやってますよ~。目に入れても痛くない程可愛いからね」

夏子から無意識に小さい溜め息が漏れる。

「良いパパ、良い旦那・・・窮屈だわぁ」

さっき半分まで下げていた窓を全開にして、村瀬は風を顔いっぱいに浴びた。

「俺はやっぱ、でっかい海ん中で自由に動き回る様に、放し飼いが性に合ってんのかもね」

目の前の黄色信号に、夏子はゆっくりとブレーキをかける。信号待ちをしながら、夏子が口を開いた。

「そんな勝手な。家庭を持ったら、その責任があるの。いつまでもフラフラしてたいなら、結婚なんてしなきゃいいのよ」

夏子の頭の中に、いつしかあまり笑わなくなった母と祖母の顔が浮かんでいた。信号が再び青に変わって車が走り出すと、助手席からの風がまた舞い込んでくる。

「結婚する前に分かってたら、しなかったんだけどね・・・」

村瀬を近くの駅まで送り届け、車を停める。

「サンキュ」

そう言いながらシートベルトを外した村瀬が、夏子の手を握った。

「やめて。私もう、後戻りしたくないの」

「お互い正直になろうよ」

そう言って村瀬が、夏子の首に手を回し そのまま引き寄せキスをした。慌てて突き放す夏子の頬に 村瀬が自分の頬を合わせ、耳元で囁いた。

「俺・・・離婚してもいいと思ってる」

最後ドアを閉める間際に、『真面目に考えといて』と言い残した村瀬の言葉が、夏子の耳の奥で響いていた。


ありがとうございました

次回は、雪子と守屋の様子です

未練を残したままの二人が、その後どう過ごしているか、覗いていって下さい

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