呼び出し
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とある喫茶店。珈琲の香ばしい香りが優しく鼻を擽る店内に漆黒の鞄を提げ、ベージュのコートを羽織った長髪の青年が颯爽と現れた。
精緻な顔立ちと、整った輪郭。華奢な体つきは人々に好印象をあたえる。慇懃に店員に軽く会釈をして、喫煙席の紅いソファに座る小男の元に向かった。
店内には中年の男が一人、若いカッターシャツの男が一人、厚化粧を施した女が二人だけ。あまり繁盛していないのだろうか。
客にちらちらと目を配らせながら、青年は小男の前に座り、胸ポケットから煙草とライターを取り出した。煙草を一本、口に銜え、[SAROMU]のロゴが彫られたオイルライターの蓋を開け、火をつけた。焔焔と燃え上がる火は、うっすり胡粉色の煙をあげた。青年は身を乗り出した。
「話ってなんや?」
青年が束髪で無精髭を蓄えた小男に問う。小男は灰皿に煙草の先を捻じ込み、圧砕した。青年の目を一瞥して、ゆったりとした間をとって、目を瞬かせると小男は、
「まぁ、そう慌てなさんな。お互いやっとこさ娑婆に出てきたんやから、世間話でもしましょうや」
と随分、暢気そうに答えた。これだから困るのだ。手短にシゴトの話をして状況を把握したいのに。このままじゃあ上手く話が進まない。青年は懶げに瞼を開閉した。
それから、暫し呆れたように顔を曇らせながら、
「こっちは金が必要なんや。まさか仕事に銭一円絡んでへんのとちゃうやろな」
小男はこれを聞いて、声をあげて笑った。笑ってないで何とか謂わんかい。
青年は焦ったように頭を掻いた。
「嘉瀬はん。わしがそんなへま、しますかいな。こんなひれひれの身形でも夔夜叉会の構成員です。なめてもらったら困りますわ」
ほなら、ええと口走りながら、嘉瀬と呼ばれた青年は満足そうに頷く。小男は続ける。
「仕事はこりゃまた、たいそうなもんや。ひょっとしたらわしは幹部にイケるかもしれへん」
「儲け話ならなんでもこい。こっちかて時間割いてここきとるんやさかい、そらおいしい話やないとあかん」
御託を並べる前に、本題を切り出すのがものの順序というものだが、ひとまず金が手に入るということが解っただけマシだ。嘉瀬はちらっと笑みを浮かべた。
「そらそうですわ。その程度の礼儀、こちとて、ちゃんとわきまえてますで」
それもそうだとお互い、顔を見合わせて悪党高く笑った。話を合わせるなら笑う。これヤクザの鉄則。
「それはそうと、高松鐵鋼はどないしましてん。ムショのお偉いさんに紹介してもろてた工場での仕事は。もうやめはりましたか」
嘉瀬は苦笑いして、
「わりに合わんな仕事っちゅうのは。安心せぇ。もう架空詐欺の仕事、再開しとりますわ」
嘉瀬は話の途中に笑みを零しながら、幾分、苦しそうに話した。今一番振られたくない問ではあったが、しかたがない。もっとも、この程度のことで橘が自分のことを軽蔑するなんてことはない。
「中毒性があるわ。あんなに楽して金が入るんやから、そんじょそこらの競艇や競馬とちゃうで。なぁ、橘」
橘は小さな畏怖を含んだ口調で、
「やっぱり長年、社会の影の世界で生きてると絶対にそこから、出れへんくなる。それが恐ろしいとこや。でも、安定した金が毎月、入ってくるしな。わしは満足してるからええんやけど」
と謂った。嘉瀬は打ちそこなった相槌を打って、
「おいしいゆうても、それなりの覚悟が必要や。キャリアないと訴えられてはい、おしまいやからな」
といつになく暗い顔で言った。商売柄、ニコニコするのも、萎えたホウレン草みたいな顔をするのもお手の物だ。嘉瀬はムードを配慮した。嘉瀬が裏で設立した詐欺グループで働いていた数名のバイトが警察に尻を追いかけまわされていると聞いたのも昨日の話だ。
暫く、二人は黙った。店内に嚠喨と響くクラシック音楽。無知な嘉瀬には曲名など、到底わからない。先に話をきりだしたのは橘だった。
「そうや。すっかり忘れとったわ。お土産がぎょうさんあんねん」
橘は自分の鞄に徐に手を伸ばし、中から膨らんだ封筒を三つ、取り出した。机上に乗せてみて、改めてその、厚さがわかる。嘉瀬は橘の表情を静かに窺う。鋭く尖った目尻が微かに緩み、橘は静かに綻んだ。橘は取れと謂う風に顎をしゃくってみせた。嘉瀬は目の前で起こったことに衝撃を受けたが、恐る恐る封筒に手を伸ばし、グッと掴んだ。中を覗くと壱萬円紙幣が束になって、封筒に詰まっていた。紛れもない百万円である。
「どないしたんや。こんな金」
嘉瀬は素直に驚き、浄机に手をつき、身を乗り出して、訊いた。橘は悠然と構え、咳を一つ吐いて、
「ちょろいもんでっせ。難波で若者に官能ビデオや謂うて、ディスク一枚、二万円で売りつけたら、これが 見事、跳ぶ様に売れてね。一日でこんだけ儲かりましたわ。ま、勿論、中身ははじめはネットに違法転載されてたAVやけど後はようお世話になってる某パチンコ店の広告やけどね。まぁ、わしのポケットマネーや。プロモーション見せたんが正解やったな」
偉そうな顔をして自慢げに語る。いそいそと封筒を二つ鞄の中にもどす。どうやら、二百万は橘の取り分らしい。
「よう打たせてもらってる礼かいな。お前にしちゃあ珍しいな」
橘はかぶりを振った。
「嘉瀬はん、無償でわしはこんなことしますかいな。これはビジネスです。パチンコ店はただのスポンサーですがな。まさか、あんた、わしが大阪一のビジネスマンやいうこと知らんかったと違うか」
取り繕った真剣な顔で、笑いを押し殺しながら、
「いつそんなもんに転職しはったんですか。噂では聞きませんけど。ビジネスマンでっか。へぇ~。えらい、けったいな仕事に就かれましたな。」
「そら、学歴社会ですから。現役ヤクザがビジネスマンに転職するなんか、最近は多々ありまっせ」
「そうですな。学歴社会ですもんね。そらそんなことあってもしゃあないですわ。じゃあ、俺は今、大阪一のビジネスマンと話させてもろてるんやね。ああ、なんちゅう名誉や。帰ったら親に自慢しょ」
二人はまた、顔を見合わせると声をあげて笑った。二人は刑務所から出て、交わしたやりとりの中でこのとき、一番笑っただろう。
「おふざけはこんくらいにしといて、仕事の話をしましょうや。その金は前金やと思って、とっといてくだはれ」
「わかった。前金ゆうことは場合に応じて、成功報酬もあるっちゅうこっちゃな」
嘉瀬は察した。そうだと確信していたが、素直にそうやって発言することで相手が話を濁らせて、報酬を独り占めにすることを防ぐ、れっきとした嘉瀬の戦法の一つだった。
「さすがやな。金の話はほんまに話が早いわ。そんときは山分けやで。約束や」
橘は表情一つ変えず、淡々と喋る。橘に騙されたことは一度もないが彼が殺人を一度行い、脅迫、恐喝、詐欺の常習犯であり、はっぱ(麻薬)をやっているということは忘れてはいけない。
「とりあえず、仕事の内容を教えてくれへんか。百万だすいうのはそれなりにヤバイ仕事やろ。はっぱかシャブ(覚醒剤)かの密輸か。チャカようさん運ぶか。ましてや殺る仕事か。大体、こっちはある程度見当ついてるで」
「いやそんな仕事やない。シャブにはいくらか絡んでるけどな。」
嘉瀬は難しく眉を顰めた。唾を飲みこんだ。嘉瀬はとうとう観念して、
「もったいぶらずにはよ教えろや」
と不機嫌そうに謂った。橘は満足げに笑って、急に摯実な顔になって、
「メタンフェタミンって知っとるか。」
と嘉瀬に尋ねた。
「戦時中にビタミン剤として普及されてたいわゆるヒロポンでしょ。ポン中とかいう社会問題を引き起こしたっていうやつや。がっこでなろたよ」
もっとも嘉瀬もはっきりとした情報を知らない。
「そうや。1893年に日本の薬学者の長井長義によってエフェドリンから合成されてうまれた、別名・中枢神経刺激薬。コカインやアンフェタミンのお仲間さんやな。こいつを入手してほしいねん」
「解った。入手経路は明確なんか」
嘉瀬の問いに橘は腕を組んで、結構、難解やでと口走ってから、
「アメリカで認識能力増強剤っていう名で売られてるんやけど、情報はそれだけや。どっかのサイトでわしが販売者か製薬会社にコンタクトかけてコンセンサスを得たら、金渡すから、お前は渡米して薬を買ってきてくれや。簡単なおつかいやろ。駅前のスーパー行くのと同じ要領よ」
嘉瀬は橘の言葉にただただ驚嘆した。まさか自分が渡米するとは思ってもいなかったからである。