冬に咲く花 84
「第二層壁成形化完了しました!」
「よし!では第二層壁外部へ総員退避!魔術特科部隊は第一層壁上部より援護せよ!」
「十時の方向より対象出現!第三層壁内部をテントに接近中です!」
「特務隊一班は接近中の対象を迎撃!二班から四班はこのまま待機、迎撃態勢を維持!他にも壁の外にあぶれた奴はいるぞ!決して村人に近づけさせるな!」
魔術師たちの壁の上から息つく間もなく浴びせられる攻撃が、化け物らを壁から剥がし離していく。
退避の号令がかかり、ある者は壁に立てかけた剣を頼りに、またある者は仲間と連携し、兵士たちは次々と壁を登っていった。
始めに化け物が現れてから、僅か三十分足らず。村を囲う壁は三層にもなり、作戦は順調に進んでいた。そんな中壁の一番内側、孝宏は魔法陣の中で、じっと恐怖に耐えてた。背後にそびえる壁は三メートルはあろうか。
自力では登れそうにない。孝宏は生唾を飲み込んだ。
「タカヒロ危ない!」
壁に気を取られている間に、真っ黒い化け物が今にも孝宏に襲い掛かろうとしていた。太い後ろ二本足で立ち上がり、自身の体ごと孝宏を潰さんとしている。
真っ先に気が付いたマリーが、剣を振りかざし切りかかるが刃に勢いはない。化け物は身をよじり、さらりと交わすと、六本の足でしっかり地面を捕らえ素早く向きを変えた。
―――kachikachikachi―――
化け物は激しく顎を打ち鳴らし、今度はマリーに向き合う。頻りに触角と破れた翅を震わせている。
化け物とマリーの距離は二メートルと開いていない。化け物が身を屈め一番太い後ろ足が一層膨れ上がるのを見て、マリーは剣を握り直したが、肩が大きく上下し息が荒い。
化け物が後ろ足で蹴り、勢いをつけ頭から突っ込んできた。大きく開いた顎から、牙を剥き出しにして迫ってくる。
マリーは身を屈め、かろうじで一撃をかわしたものの、化け物はマリーに覆いかぶさり、自らの頭を振り手に持つ剣を弾き飛ばした。
そこへ真紅の獣が唸りを上げ、大きく裂けた口でマリーに覆いかぶさる化け物の、細く括れた胴の部分を咥えると、引き剥がし壁とは反対方向に投げ飛ばした。
同時に真横から別の化け物が飛びかかってくるのを、魔術師が弾き飛ばすと、《早く上がれ》と叫んだ。
上がれと言われ、マリーは反射的に孝宏を見た。汗か化け物の体液なのか、全身をびっしょりと濡らし、辛そうに息を荒くしているくせに、瞳にはギラリと光が宿る。
まだやれる。マリーはそう言いたかったのかもしれない。しかし剣を握る手は震え、まともに扱えていないのは誰が見ても明らかだ。
「早くしろ!奴らに喰われたいのか!」
マリーは立ち上がり壁に向かって走り出した。壁の真下で壁を背に待機していた兵士が腕を下ろし、空に向けて組んでいる掌に、マリーは走った勢いのまま片足を掛け駆けあがる。同時に伸ばした右手を壁の上から引き上げられると、そのまま壁の向こうへと落ちて行った。
「お前たちも早く上がるんだ!」
命令に反して純白の獣と真紅の獣、カダンとカウルが孝宏を守るように左右から挟み込んだ。壁内に残る幾人かの兵士たちがその前に並び立つと、燃え盛る得物を構えた。
「先に坊主を引き上げないか!坊主がやられたら終わりだぞ!」
兵士の中でもひと際大きな男が、吠えんばかりに怒鳴った。今やっている、上から声がする。
孝宏は足元の二個のランプを抱きかかえた。
「坊主!今からお前を引き上げる。力を抜いて大人しく身を委ねてろ!」
言われすぐ、孝広の孝宏の体がフワリと浮いた。足元を支える地面がなくなり、孝宏はバランスを崩して前に倒れそうになるのを、慌てて重心を後ろにずらした。すると今度は勢いのあまり、頭が振り子のように弧を描き、ランプだけは割らせまいと、身を縮こませ、腕に一層力を込めた。
「こら!暴れるな!落とさないから、力を抜いていろ!」
「ご、ごめんなさい。でも……バランスとるのが難しくて……」
「バランスなんぞ気にしてるな!頭が上でもい下でも良いからじっとしてろ!」
言うのは簡単でも実際にするのは難しく、孝宏はできるだけじっとしながらも、体の力を抜けずにいるので体の震えが止まらないでいる。。
丸まった背中を下に腹にランプを乗せた状態で振り子のように揺れながら、孝宏葉ゆっくりと上がっていく。その間も地上では兵士たちが、孝宏に化け物を近づけさせまいと、奮闘している。
「早く坊主を!」
「早く!」
「早く上げろ!」
孝宏はぎゅっと目をきつく瞑った。守られているだけという安堵感と罪悪感が、自身の中でせめぎ合う。自分はなんて卑しいのだろう。
ゆっくり、ゆっくりと上がっていく。もうどれだけ上がっただろう。壁の終わりはまだだろうか。体が振り子のように揺れる度、わずかにでも下へ振れる度、体を強張らせ、二つのランプを抱える腕に力を込めた。下を見てしまえば、ここが戦場であると思い出してしまうだろう。命の重さに押しつぶされるかもしれない。
猛る声が聞こえる。炎が吠える音が聞こえる。化け物が打ち鳴らす顎が、砕かれる音が聞こえる。顎に砕かれる音が聞こえる。誰かの悲鳴が聞こえる。
孝宏は歯をぐっと食いしばった。
「もう少しだ。よく頑張ったな」
目を開くと壁の頂上は目前でぼやける視界の中、男がこちらを見下ろしいた。男はグッと身を乗り出し、無理な体制のまま孝宏の背中に腕を回す。
男がすぐに引き上げないのは、自身の体のバランスが不安定なまま引き上げ、バランスを崩しランプを割れば、下に残っている仲間の兵士たちの命の保証はないからだ。
まだ助かった訳ではないのに、背中に温もりと感じたとたんに孝宏は目頭が熱くなった。両手はランプを抱えるために塞がっている為、こぼれそうになる涙は拭いようがない。人前で泣くなんて格好悪くて、とっさに顔を反らす。
男には、こんな時にまで強がる少年を見て、胸にこみ上げてくる物があった。自分たちではどうしても太刀打ちできないこの状況に置いて、現状では唯一とも言える、対抗手段があった奇跡に感謝し、それと同時に、子供を巻き込まなければならなかった、自分たちの力不足が恨めしい。
「もう大丈夫だ。よく頑張ったな」
孝宏は涙で濡れた目で、もう一度男を見上げた。壁の終わりが見えてくる。
「あ、昨日の……」
よく見ると男は昨晩、カダンと一方的に喧嘩した後、声を掛けてきたあの兵士だった。男の頬は無数の傷から流れる血で汚れ、砕けた鎧の下の服は赤黒く濡れている。それでも白い歯を覗かせ笑う顔には、痛みなど微塵も感じさせない。
「………ごめんなさい……」
やっと絞り出した言葉は、謝罪の言葉だった。
「どうして謝るんだ」
男は昨晩と同様笑い飛ばした。
もしも自分が現実を受け入れていれば、この人も傷つく事はなかったのさだろうか。こんな事態にはならなかったのだろうか。そんなことを思うと、涙が止まらなかった。
慎重に孝宏を引き上げる魔術師たちは、この場の誰よりも冷静に見えていたが、実は内心酷く焦っていた。ここに来て、何故か孝宏にかけた魔術がまた不安定になり、ほころび始めたのだ。
初めに魔術をかけたときも詠唱の途中で魔法が打ち消され、孝宏を引き上げるまでにだいぶ時間を浪費してしまった。それが兵士たちの退避が遅れ、無駄に犠牲をだす結果となったのだ。
戦場という特殊が状況が精神を乱し、魔術に影響している。少なくとも殆どの魔術師たちはそう考えていた。
多少は魔術師たちにも精神の乱れはあったかもしれないが、大きな要因は孝宏自身にあるのを魔術師たちは知らない。もしも知っていれば、引き上げるのに魔術を使うなど使わずロープなどを使い、確実な方法を取っていただろう。
これは、昨晩の時点で孝宏の体質を把握していたのにも関わらず、伝えていなかったアベルの失態と言えた。
それらの事実を知らない魔術師たちのプライドは傷つけられ、焦りを生み、ついには更なる混乱を招く結果となってしまった。
「坊主はもう大丈夫だ!総員退避!」
男が孝宏の背中に手を回したのを確認した魔術師が、気を早まりそう叫んだ。下から見れば孝宏が抱えられているように見えてしまったのも、兵士たちの状況を考えれば無理もないことかもしれない。
魔術師の号令を皮切りに、残っていた兵士たちは次々と壁を登り始めた。カダンとカウルは大きな獣姿のまま大きく飛びはね、壁に前足を掛け自力で壁を乗り越える。
二人の無事を確認すると、孝宏はほっと一息ついた。
「もう少しで……」
もう少しですべての兵士が壁の向こうへ消える。
もう少しで助かる。
もう少しで化け物を焼き払う事が出来る。
もう少しですべてが終わる。
もう少しで、そうつぶやく孝宏は間違っていない。
そう、もう少しだったのだ。まだ、孝宏は助かっていなかった。