冬に咲く花 70
「マリヒロ君?生きてるかい?」
顔を覗かせたのはボウクウ・ナルミーだった。声を張っているはいるが、力ない表情から隠しれない疲労がにじみ出る。
彼は良い香りの漂う器を手に持っていた。両手で慎重に差し出し、胸元に近づける。
「あれだけの魔術を使ったのだから、体力消耗しているはずだと思ってね。スープを持ってきてやったぞ。私は美しいだけでなく、気配りもできる男なんだよ」
「…………ありがとうございます。そこに置いといてください。……後で飲むので……」
「後で?まさか自力で飲めない程に消耗しているのかい?よし!私が飲ませてあげよう。何礼はいらないよ。兵士として当然のことだからね」
「本当に大丈夫です。それより中の人たちは大丈夫だったんですか?」
何よりそれが一番気になっていた。ここから様子は伺えても、彼らが無事が分からない。
あの時聞こえた声が途切れてはいないか、煙に巻かれてはいないか。どうか中の人が無事であって欲しい。
体を壁に預け全身の力が抜けても、気は休まらない。
「それなら心配いらない。教会の地下には僅かだが食料の備蓄があって、聖水が湧く泉もある。消耗はしているが、大事はないだろう」
ナルミーは孝宏の左側にしゃがみ込んだ。孝宏は背中を支えられ、口元で傾けられた椀に唇を開いた。
少しずつ口の中に流れてくるスープは初めての味わいで、冷え切った体を温め、緊張と不安で凝り固まった心をほぐした。
「あり……が、とう…ございますっ……」
熱く込みあがるものあった。目元がジンと痺れる。
「まったく無茶をする。体が冷え切ってるじゃないか」
呆れた物言いの中にも優しさが感じられる。
ナルミーは休み休み孝宏にスープを飲ませた。二口飲んでは間を置き、孝宏が一息吐いたのを確認してから、再びスープを飲ませた。
「魔力は無限じゃないんだ。どんな魔術師だって、こうなるまで術は使わない。命を削るに等しい行為だよ」
「すみません。でも……俺……」
「うう、別に謝る必要はないさ。無茶をさせてしまったのは、こちらの人間だ。むしろ礼を言わなければならないな。しかし今の君は美しくないから、ゆっくり休むと良い」
「ボウクウさんって意外と普通の人なんですね。それから俺の名前は孝宏です。なんですか?マリヒロって」
初めて会った時の印象が強烈過ぎて、普通に喋るナルミーはむしろ可笑しく思えた。気の抜けた笑いがこぼれる。
スープが器の半分程になった時、突然《これは魔法のスープなんだよ》とナルミー言い出した。
確かに美味しいが、孝宏にとってそれ以上のものはない。別にキラキラ光ってないし、気分や体に特段の変化もない。
孝宏がそういうと、ナルミーは《そうかい?》と言ってやはり笑った。
「ところで君は呪文なしで魔術を使うのだねえ?いや、実に見事な術だったよ。民間人にしておくのは惜しい位だ」
「そんなことないですよ」
ナルミーの目をまっすぐ見れず、孝宏は目を伏せた。
別に謙遜したつもりは一切ない。見事に鳥の力を操ったわけではなく、無事に済んだのは、あの時のカダンが来てくれたからだ。彼がいなければ今頃無事では済まなかったかもしれない。
改めてそう考えると、心の底から震えた。
今度こそ彼らの力になりたいと思っていたが、ただそれだけで、覚悟が足りなかった。建物の中に人がいると知って、命の重さに恐怖したのだから。
「ぐっ…」
孝宏は上体を起こそうと歯を食いしばった。
腕をぴんと張るだけで、関節が古ぼけたブリキの人形のように、鈍い音を立てた。
「まだ無理はしてはいけない。私が運んであげよう」
「でも……あぁ、大丈夫です」
日はすっかり沈み、辺りには闇夜が落ちていたが、建物を囲む松明の明りが、こちらに向かって歩いてくるカダンを正面から照らした。
カダンは手の仕草でナルミーを退けると、自分が孝宏の傍にしゃがみ込んだ。ナルミーは仕方なく立つのだが、何故か笑顔が浮かぶ。
「姿が見えないから、探してたんだ。大丈夫?ボウクウさんも、どうやらうちのタカヒロがお世話になったようで、ありがとうございます」
カダンは冷めた顔で礼を述べるが、ナルミーの顔すら見ていない。孝宏の具合を見るのに勤しんでいる。
「何、礼には及ばないさ。これが私の仕事だからね。それに彼は君の連れだろう?ほおっておくなんてできやしないさ」
「そうですが、ではさっきの礼は撤回します」