冬に咲く花 66
「これ……これが結界?」
孝宏は掌で透明の壁の感触を確かめた。
石ほどに固くなく、綿毛ほど柔らかくない。冬の朝の石畳よりも冷たく、僅かな弾力があり、その下は驚く程硬い層が広がる。
孝宏はオウカと反対を向き、耳と頬を結界につけた。罪悪感が心に重くのしかかり、とてもオウカを見てられない。
孝宏は見えない壁に軽くノックした。音は壁に吸い込まれ聞こえてこない。
孝宏は結界の冷たさと感触にぞっとして身を震わせ、慌てて結界から離れた。
(ある意味この結界は冷たくて良かったのかもしれない)
もしもこの結界がほんのり温かかったら、とても引き受けられないところだった。
「これを鳥の力で?」
「本当は鍵があれば、結界は解けるんだけどね。けど肝心の鍵は家と一緒に燃えたみたいだし、他に方法はないし、タカヒロにお願いするしかいないんだ。僕の魔法では…………ダメだったから」
ルイの心境は声色によく出ていた。これまでの不自然に明るい声でなく、声に重みがあり、彼の緊張が伝わってくる。周囲の兵士たちもいつの間にか、黙って様子を見守っている。
孝宏は一回深く頷き、唾を飲み込んだ。
もし失敗したら、一瞬脳裏をかすめるが、孝宏はなかったことにした。孝宏が不安を無視して引き受けたのも、後ろを振り返らなかったのも、ルイやカウルの顔を見れなかったのも、皆の眼差しが怖かったからだ。様々な感情のこもる視線は、孝宏の心を乱すような気がした。
「わかった。とりあえず、やってみる」
重く緊張感のある声。孝宏は胸いっぱいに息を吸うと、吐き出しながらもう一度だけ頷いた。
孝宏は腰に差した短剣に視線を落とした。親指を手の中に握り込み、人差し指の爪を親指にキツく食い込ませる。
(勇者って奴はきっと余程の馬鹿か、それかドマゾだと思う)
多くの期待を背負い、責任を一身に負い、人助けの為に命を懸ける。孝宏にはとても理解できそうにない。
孝宏はゆっくりと深呼吸をし、両手を結界につけて目を閉じた。
ローブの女の合図で、人だかりが建物から距離を取った。同時にカウルたちも孝宏から離れる。
カダンが極めて小さな声で、ルイに耳打ちした。
「本当に大丈夫か?俺にはまだ信じられないんだけど。失敗したら、中の人たちまで……」
「大丈夫、でなきゃこんなこと頼まないって。僕を信じてよ」
マリーが横から口を挟む。
「そうよ。確かに検問所では火のまわりが異様に早くて、あっという間に広がったけどね、消えるも早かったのよ。タカヒロは鳥の力を制御できてると思う」
「どちらにしろ、もう時間はないんだろ?中の人からの返事がなくなって、だいぶ経つって言うじゃないか」
カウルの言う通り、教会の中から声が聞こえなくなってから丸一日が経つ。このまま打開策もないまま、手をこまねいていては、いずれは最悪の結果を招くかもしれない。
三人ともが孝宏を擁護したのだ。この数日の間に起こった出来事を知らないカダンは、それ以上反論できなかった。
異世界から勇者が現れてからというもの、カダンにとってはもどかしい一か月だった。他の二人と違い中々魔法の使えない孝宏には、正直に言うと失望していた部分もある。記憶の中では何かを託すには頼りなかった背中が、知らされていないといえども、今は大勢の命を背負っている。数日前からは考えられない変化だ。だが、孝宏の言葉の端々に自信のなさが滲み出て、カダンはまだ信じられない気持ちの方が大きい。
カダンは何かあればすぐにでも中断させるつもりで、僅かな兆候も見逃すまいと孝宏をじっと睨み付けた。