夢に咲く花後編30
黒煙の中、壁伝いに進む孝宏の脳内は、目まぐるしく生還の道筋を模索していた。
背後の炎が追いつく前に、何かしら手を打たなければ、どちらにしろ未来はないのだ。
幸いにも、背後の炎は火の蝶が一羽だけ残っている影響か、足が遅い。最後の一篇が吹き飛ぶまでの猶予こそ、生還へのカギとなる。
孝宏は背後の炎を意識しないよう、凶鳥の兆しがどうなっているかを感じ取り、自身にどれだけ操れるかどうかを考えた。現状で可能な事柄を並べ、一つ一つシュミレーションしていく。どうしたら逃げられるのか。どうしたら助かるのかを。
孝宏が生きてきた15年間は長いようでいて、積んできた経験というのは存外少ない。
炎の化け物に襲われた時の対処法など学ぶ機会はなく、魔力が潰えた場合の、代替え方法を知る機会もなかった。
しかしだ。火事から生還した人の体験談を見聞きする機会はあったし、精魂尽き果てたと思った時、どの様に自分を奮い立たせるかは、経験が知っている。
それを経験値と呼べるのならば、孝宏が得て来た経験値は、彼にとって未知の世界である異世界においても、自らを助ける力である事には変わりなかった。
突然、壁伝いに進む孝宏たちの手に、炎で熱せられ、半開きのままひしゃげた扉が触れた。
「あっ……つぅ……」
二人は反射的にドアから飛びのいたのだが、その拍子に、マリーは孝宏から手を離し、孝宏もまた素早い動きについていけず、バランスを崩しコケてしまった。
「ゴメン!」
咄嗟にマリーが謝罪しながら孝宏に手を伸ばす。孝宏はマリーの手を取り立ち上がったが、無言のまま、どちらかというとされるがままで、心ここにあらずといった様子だ。
「早く逃げよう」「まだ走れる?」
懸命に声をかけるマリーに対し、孝宏は全く返事をしなかった。
見開いた目を瞬きながら、ドアを凝視している。ドアの触れないギリギリの所まで手を伸ばし、何かを感じ取る様にドアにそって掌を滑らせた。
動こうとしない孝宏に対しじれっく思いつつも、マリーが怒りを覚えたのは一瞬のことだった。
マリーもまた、これまでの人生で得た経験値がある。特に彼女の場合は、異世界に来てからの方が成長が顕著な傾向にある。孝宏に対しても、彼がそのような性格であると、早い段階で受けて入れていた。
と言っても、マリーが怒りを一瞬で収めたのは、それが理由ではない。マリーはすぐに何かに思い当たった様子で、孝宏とドアを凝視した。
(熱い。それに俺が一度操ったせいかな。気配が違う。今は誰にも操られていないみたいだけど……)
部屋の中の炎は襲ってくる事もなく、かといって孝宏に従いもしなかった。誰にも支配されていない無垢なる炎だ。そんな中に飛び込めばどうなるか、それこそ火を見るより明らかだ。
しかし、孝宏を突き動かすのは生きたいという、純粋な生物としての欲求だ。失敗した時の事を考えている余裕は、このわずかな時間の中でなくなってしまった。炎はすぐそこまで迫ってきており、十数秒後には、ここも炎にまかれるだろう。
(無駄な事をしている余裕は一ミリたりともない……けど一か八か……)
孝宏がひしゃげたドアに体を預けて押そうとした。
「待って、私がする」
まるでそうするのを待っていたと言わんばかりに、マリーが言った。グッと拳を握ると、拳の中に一本の剣が現れた。
「あ゛?」
低い、唸り声に似た声を出したのは孝宏だ。
マリーはそれに構わず、いつもと同じ切れ味で扉と壁を切り崩し、人が通れるだけの隙間を作った。
孝宏は色々思うところがあったが、今、それを追及している状況下にない事は重々承知していたし、自然とやるべき事を優先させた。
孝宏は扉と壁が崩れた途端、凶鳥の兆しの火を飛ばした。渾身の力を振り絞る。
疲れ果てもう無理だと思っていても、余力が残っているのは動物の生存本能であろう。しかしエネルギーが空になった際、充填するに時間を要するのも自然の摂理であるし、ない袖は振れないということわざの通り、どだい無理な話である。
ではこの時、孝宏はどうやって凶鳥の兆しの火を飛ばしたのか。それは背後から迫りくる炎にしがみ付いていた、最後の火の蝶だった。孝宏の余力はそこにしかなかった。
火の蝶はチリジリに飛び散り、抑えのなくなった炎は、嬉々として輝きを増し、暴発せんとばかりに膨らんだ。
その熱量は建物の壁など、簡単に吹き飛ばしてしまう程だ。孝宏たちはおろか、このフロアの部屋がなくなる可能性だってあった。
(間に合え……)
それからは全てがスローモーションの様だった。
火が炎を押しのけ作った細い道に、マリーが続けざまに足を踏み入れ剣を振るう。すると斬撃は黒煙を払い、正面にあった大きめの作業台や椅子を吹き飛ばし――実に都合の良い事だが――その一部が正面の窓にぶつかりガラスを割った。
マリーが剣を振るうとほぼ同時に、二人ともが走り出していた。孝宏の作った道は細すぎて、二人ともが片足を炎に突っ込みながらである。
あと少しで外に出られると思えば、炎の熱さなど気にもならなかった。熱でひしゃげた金属が靴を溶かし足を貫通しても、折れた木片が太ももを抉るように突き刺さってもだ。
手を伸ばす。あと少しで窓に手が届く――――しかし、遅かった。
炎が孝宏たちを飲み込む方が早かった。視界が紅蓮の炎で染まり歪む。
孝宏は負けたのだ。火を使った競り合いで。
凶鳥の兆しの火は強力である、という認識を孝宏は持っていた。これまではそうだったし、おそらくはこれからもそうであると。だが違っていた。そう、違っていたのだ。凶鳥の兆しとて解術できない魔術はあるし、扱う人間が力不足なら持久戦でも負ける。
孝宏は自尊心を打ち砕かれ、同時に負けが死に直結している戦場の恐ろしさを身をもって味わっていた。
それはそれは痛い程に。身に染みる程に。